Black
スイッチをぱちりと押すと、暗い店内に明かりが灯る。
その後は奥からほうきを出してきて、床をくまなく掃除する。閉店後にもやっていることだけど、綺麗好きだから納得できないんだ。
ふと顔を上げて窓の外を見る。若者二人が並んで歩いていく。白の乗用車が追い越していく。
道に落ちている建物の短い影。家々を照らす明るい陽。
何ら変哲のない、普遍極まりない風景だ。そこにいる人々は「明日への恐怖」なんて感じちゃいないんだろう、と俺はしばしば思う。
ちょうど向かいの家から女性が出てきて、自転車に乗ってどこかへ出かけてゆく。いわゆるこの店のご近所さんなのだが、お客として来たことはない。
だって、ここは終末期の病気を抱える者のための場所、「喫茶ピクシス」だから。
無論、寝たきりの人や足腰の悪い人だと向いていないかもしれない。バリアフリーにはしているけれど。
だけど俺みたいに、残された時間を精一杯いつも通りに生きようともがく人たちに向けた喫茶店なのである。
開店時間は、午後1時から午後5時。
なんでかって、まあそれは、体調の諸事情。余命1年ほどのうちの半年を過ごした俺は、一日中店に立ち続けられる体力はない。
俺は軽く胸を押さえながら掃除を済ませ、黒色のエプロンをつけたらいよいよ店を開ける。
ドアベルを鳴らしながら扉を開き、ドアノブに掛かっている「close」のプレートを「open」にひっくり返す。
そして、カウンターに戻ってコーヒーの準備。まずは誰にでもない、自分のコーヒーを淹れるのが俺流だ。
ドリップしている間から、もう深煎り豆の香ばしさが空間いっぱいに広がる。
この時間が、至福でたまらない。
今を生きている、と感じられる瞬間でもある。
出来上がったコーヒーをゆっくりとすすっていると、入り口に人のシルエットがすりガラス越しに見えた。次の瞬間、チリンチリンとドアベルが来客を告げる。
俺はカップを置く。ここからは一喫茶店のマスターだ。
「いらっしゃいませ」
続く
コメント
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新作じゃあないですか‼️ 今度は感動系…なのか?? またまたmicoさんの表現にうっとりしてしまった…