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第三章 社畜、たまには真面目に主役をする
1
「それでねー!まあそんなので彼とは大喧嘩しちゃったんだけど」
白昼の大通りに、盛大に声が響き渡る。いつの世もどこの世界でも女の会話は恋バナで成り立つものだ。はあ、ハールは思った。流石に今はキツい……
あれから二週間、ハールたちは大回りすぎる道を進んでアルタイルから離れた港町に移動していた。西のヨルギス、世界各国の人間が集う大海洋都市である。
例のナルヴィネの町で買った衣を纏い、ハールは歩いていた。よそ者の多い町。ここならば多種多様の宗教や文化を持つ人間が居てもおかしくない。十日も荒野をさ迷って、ようやく街に入ったのだ。まだ四日じゃそう疲れは取れないもので……
レリオットはスパイ役として一役買ってくれている。使い魔契約した鷹を飛ばし、自分の主とお館様(アリエスのパパだ)に連絡を取っているのだ。『ハール黒太子の足取りは依然掴めません。どうか、これといった情報を掴むまでは外に留まることをお許しを…』
「メリンダに手紙は書かないの?」
コノカは――ハールは流石にそう言った。書かん。レリオットはバッサリ断じてしまう。「第一俺の妻でもない。そんな、さして親しくもない女性と、気軽に文を交わすなど…」
親しくないってことはないでしょ!ハールは怒った。あれ以来、少しはレリオットはハールを女扱いしてくれている。それは他でもない、アリエス――ハール自身が彼を女扱いしているからだ。「女性の意見だ、聞いたほうがいい。レリオット」
へら、とハールは笑った。何はともあれこうして優しくしてくれるのは嬉しいものだ。レリオットは弱りきったようにモゴモゴした。「そ、それは確かにそうですが…」
メリンダ…ハールは思い出してしゅんとした。ラリマーも(ハールの犬だ)一緒に置いてきてしまった。きっと今頃寂しがっているだろう。本当は全てぶちまけて(ごめんね!)そう謝りたいのにそれが出来ない――心苦しい以外の何者でもないというか……
「せめて、状況を説明するだけでも出来ない?」ハールは訊いた。無理だ、レリオットはそっけない。「そんな偽装の才覚はない。それに…」
何を書けば良いのか分からんのだ…レリオットは独りごちた。まさに一刀両断だ。だがハールはピンと来た。ははあ!なるほど!
「なるほどなるほど」ハールは頷いた。何だ一体!レリオットがまくしたてる。そうでしょうとも、つまり、こうね?
「好きな子にはラインが送りにくいってやつね」ハールは納得した。「確かに何書けば良いのか分からないもんねー」
「何故そうなる!?貴様…!」
ふふん、ハールは笑った。そういうことね、頷いてしまう。「じゃあ助けてあげるわよ。女の子受けすること言えばいいんでしょ?任せて」
レリオットは硬直している。アリエスは何故か全面同意した。「頼んだ方がいい、レリオット」「わ、わかりまし…」
て何で!?叫ぶ。何でだ!!?だがそんなものそっちのけでハールは微笑んだ。「大丈夫大丈夫、任せて!」
「恋文指南ね、安心しなさい。上手く運んであげるから」
だが、これが思ってもない事態を招くことになるのだ。
『――メリンダへ。
手紙が遅れたことを、まずは謝罪する。ハールと令嬢の足取りを追ってはやひと月、何の手掛かりも無いのが悔やまれるところだ。このままではお館様に顔向け出来ん。どうか暫く街には戻らぬことを許して欲しい。
ハールがあの黒太子であるということを、当初随分訝ったが、どうやら事実であるようだ。だがいかなる事情あれ、令嬢を――お館様の最愛の娘をかどわかすなど許してならない。必ずや、お前の主を見付け連れ戻すことを誓おう。
追伸だが、以前話した祭りのことを覚えているか。約束を守れなかったことを詫びておく。春にはナルヴィエで祭りがある。女神を讃える花行列だが――差し支えなければ、そこに同行してくれると有り難い。
こちらは料理が不味いので辟易する。戻ったら、君の手料理を心待ちにしている レリオット』
鷹を飛ばしてから三日、ハールはご満悦だった。レリオットに代筆させて書き取らせたのだ。お、おお……レリオットは何やら感心していた。「何というか…」「流暢だ。一部の隙も無い。流石は女性…」
メリンダ、少しは喜んでるかしら?そう思った。ここヨルギスは確かに食事が不味いのだ。理由は単純、味が悪くとも繁華でお客が入るからで……「不っ味いスープ……何をどうしたらこうなるの、コレ…」
「そうだろうか」アリエスは不思議そうに言った。ずずず、と腑抜けた味の卵スープを啜っている。「…暖かい。城の食事より人の手の味がする。が」
君の料理のほうが美味いな、アリエスは笑った。や、やだ、お世辞はいいわよ、ハールは慌てて手を振った。流石に照れてしまうのだ?「確かに貴様は料理は上手いが…」「黙ってレリオット」
そのとき、ふっと視界に影が下りた。何かが翼を広げて下りてくる。レリオットの鷹だ!だが、その鷹は何やら丸い物を持っており、
水晶?ハールははっとなった。アリエスが気付きガタッと席を立つ。ゆったり外で食事をしていたのに、急遽切り上げだ。「おい、急げ!」
え、えっ?ハールは慌てた。レリオットは走り出している。急いで後を追い宿屋に戻り、部屋に閉じ篭るとアリエスは音消しの魔法を紡いだ。「何してるの?」「シッ」
水晶をアリエスがテーブルに置く。それでやっと、ハールは気付いた。これ、前に私が使った偵察用の水晶玉…!
だがふっと水晶に顔が写る。途端にこれ以上ないほどの音量で右から左に声が突き抜けた。『ハール様―――――――っ!!!』
メリンダ、ハールはとっさに後じさった。ワン!犬の鼻が大接近する。ひい、アリエスが後じさり、それを押し退けメリンダは怒鳴った。『ハール様!!ハール様ですわね!?そこに居るんですのねハール様!!!』
言うなりバシン!とテーブルを叩く。「しかもレリオット様まで!!」ヒステリーとはこのことで「グ、グルに!!どういうことですのよハール様……!!」
な、何で?思わず硬直してしまう。なななんで?だがメリンダは手紙を突き出した。「どうしてとか思っていらっしゃいますわね?知れたこと!!レリオット様はこんなお手紙書かれませんわ!!」
ぐ、っ!ハールは後じさった。レリオットは白目を剥いている。「こんなにスマートに女性を誘いもしません!!もう、全く……!」
言うなりじわ、と涙目になる。とっさに身じろぎしたハールに、メリンダはボタボタと大粒の涙を零した。
「……心配、しましたのよ」呟いた。「き、急に……お嬢様と消えてしまわれて。しかもとっておきの秘策が何だと言っていたら、あれが」
ポケットからインタリオを出してくる。それはハールが、最後の日にラリマーの首輪に手紙と一緒に結び付けてきたものだ。指輪状になった王家の印章。他でもない、ハール黒太子の証。
「知ってましたわよ!!」メリンダは怒鳴った。「とっくに!!みくびらないで下さいませ!!甲冑の肩に隠されてましたわよね?承知です!」
な、に?ハールは唖然とした。アリエスも流石にあっけにとられている。「知ってましたわよ!でも、まさか――」
あんな形で利用するなんて~~!!わあああ、泣き始める。「ご、ご自身を危険に晒すようなことをして!あれじゃあんまりじゃありませんの……!」
メリンダ、ハールは口を押さえた。メリンダはボロボロ泣いている。クーン…ラリマーもしょげており、ピスピス鼻を鳴らして近づけた。
「て、手配犯ですわよ」メリンダは睨んだ。真っ赤な目で睨みつける。「追われ者のハール黒太子だと。報奨金も出され皆血眼で探しておりますわ!祖国に追われるのはお辛いでしょうけど…どうか……」
お、お気を付け、なさいませ。メリンダはしゃくりあげそうになりながらどうにか言った。「捕まってはなりませんよ!!絶対に!お嬢様ももはやアルタイルにはグルだと思われておりますわ。どうか」
お嬢様を、守って……下さいませ。拝むように目を伏せる。「どうか無事で……」
「お茶を、ご用意して待っておりますよ!」メリンダは最後に言った。ビシ!と指を指し宣言する。「約束ですから!!」
そう言ったきり映像が切れてしまう。沈黙が流れ、ハールは目をしばたいた。「は、ははっ…」
ふはは!ふいにアリエスが吹き出した。上を向いて笑っている。ははははは!何だか失笑するような、でも愉快そうな笑いで――「良い娘だな、レリオット!」
「うん、すっごく……」
ハールは代わりに呟くと、涙を堪えた。メリンダ――唇がちょっぴり震えてしまう。ありがとう……何だか心のつかえが取れた気がする。怒っていた、でも、彼女は恨んでいなかった。それどころか、全てを知った上で仲良くしてくれていたのだ。ハールが『黒太子』であることを知っていて。
つと目尻を拭われて、ハールは我に返った。「気持ちは分かるが」アリエスが微笑む。「男の体だ。泣くのは控えて欲しい」「う、うん。ごめん…」
レリオットはほっと息を吐き出している。今度は自分で書かねばならんな……天井を見て囁いた。そうね、ハールは苦笑した。失敗しちゃってゴメン。
気にするな…レリオットは呟いた。他人に任せた俺が悪い……そう言い悩んでおり、それを見てハールは思った。一つ片付いた。というか、解決した。最大の(個人的な)不安要素。が――
『追われている』って?思い出す。さっきの言葉を。手配犯だって?それもアリエスまで?
それって、もしや――
予想以上に危ない状況なんじゃ。
アリエスが頷く。そしてハールは、その勘が当たっていることをわずか数刻後に知らされることになる。
2
「良いか、頼みがある。基礎の魔法だけでも使えるようになって欲しい――頼みの綱は君の魔力だ」
夕食が済んでから、ハールは町の表に連れ出された。広大な港町でも一歩外に出れば元の荒野だ。レリオットは街に残っている。お前の下手くそな訓練には付き合ってられん、ということらしく、荒野にはハールとアリエスだけが立っている。そろそろ夕闇が近付いており、獣が出歩く時間帯だ。「ね、ねえアリエス…」
「案ずるな」アリエスはあっさり言った。「獣は町の一里以内には近寄らない。結界が張られているからな。コノカ――君は魔術の基礎を知っているか?」
知るわけない。ハールは唸った。言っておくけど、そんなもの私の世界には無かったのよ?呻いてやる。「では最初から」アリエスは気にせず続けた。「魔法とは、この身に流れる血に宿るもの。こんな話を聞いたことがないか?」
「人には心の色がある」アリエスはポンと自分の胸を押さえた。「感情とも言うが。魔法はそれに上乗せする――怒りなら、炎を。凍てつく想いや冷淡さには氷を。内に渦巻く情動ならば水を。憎悪ならば闇を」
喜怒哀楽?ハールは訊いた。そう!アリエスはポンと手を打った。「それに敏感であればあるほど――効果は強くなる。慈悲深い司祭が治癒を得意とするように」
ははあ……ハールは頷いた。何だか分かるような分からないような……「じゃ、じゃあ、ハールは意外と喜怒哀楽が激しいってこと?」
途端にアリエスは――ハール本人はきょとんとした。普段あまり感情を露にしない顔だ。「…俺は元々感情豊かだが」と言った。「嘘よ!?」ハールはぎょっとした。「マジで?!!」
「よく笑い、怒る」アリエスは頷いた。その顔は相変らず仏頂面に等しい。「今だって笑っているだろう」「ど、どこが……」
冷徹無比のハール黒太子。ハールは思った。あまりに感情が出ず、そして表情の変化に乏しいので気味悪がられていたと。だが確かによく見るとどこか笑っているような……
無理。ハールは膝をついた。やっぱり分からない、思ってしまう。この表情のどの辺に感情が?「まあ、話は逸れたが」
「見たところ、君も感情豊かなほうだ」アリエスは続けた。「それなりに人生経験もあるようだし……まして今は俺の体、魔力には事欠かない。育てれば伸びるに違いない。さあ」
まずは基礎からだ!言うなりシュババババと印を組まれる。待って!ハールは思った。待って!!?陰陽師の早送りでもそんな速度で組んでないわよ!「無理よ!指が攣る――――!」
二時間ほど亀のようなスピードで印を組む。こうして、こうして、こう……グキ、妙な音は鳴るわ、コノカは呻いた。い、いつまで続くの?この訓練……
「詠唱とかはないの?」コノカは訊いた。「有りはするが――」アリエスは呆れている。「膨大な量だ。あれを諳(そら)んじて一瞬で思い浮かべなければ、同じ効力を生めはしない。だから印のほうが手っ取り早い」
そこまで言うなら止めはしないが。ハールは本を差し出した。ぺら、と捲ってみる。A4サイズくらいの辞書みたいな本の両面に、字がビッシリ。「う」「闇魔法だ。最も威力のある魔法だが……」
「強い苦悩と憎悪が無ければ使えはしない」アリエスはぴょこんとハールの前に屈み込んだ。「君は優しい…おそらく、使用出来て炎か雷が限度だろう」
はあ…ハールはがっくりした。「あとは『展開』。想像力だ。どのように繰り出した魔法を展開するか。基本は直線、曲線、波紋を描くなどだが…」
君は料理がとても上手い、アリエスはちょっと笑った。「本来あれは意外に難しいが…君は使いこなせている。ならば『展開』については問題ない」
頑張ってくれ。アリエスはちょんと岩に座った。うーんうーん、相変らず亀の速度で印を組むハールを見ている。「もっと正確に。一つでも組み違えれば失敗するぞ」「それでこの間大量のニワトリが出たの?」
遠くで雷が鳴っている。暗闇に、夜空に紛れて。気味悪いこと限りないわ……そう思ったとき、ふいにアリエスが顔を上げた。「――」
どうしたの?ハールは首を捩って振り向いた。だが、そのときふいに何かが空を近付き飛んでくる。「隠れろ!」
その瞬間、ハールは信じられないものを目にした。遠雷轟く、暗い空の下を何かがぐんぐん接近してくる。空を裂いて――何、あれ!思った瞬間アリエスがハールに飛びかかった。ヒュバッ、音がして何かが背中を横切る。
銀色の爬虫類。ハールは思った。長い尾を持ち背中に翼を生やしている。それは一瞬で、二人の上を次々横切ると宙でうねるように滑空し町の方へと飛んでいった。続いて同じ物が――一ダースほど!
き――ゃあああ!ハールは叫んだ。無茶苦茶に風を切る音が響き渡る。ギャアッと一頭が鋭く鳴いて次々町の方角へ消えた。「ハール!あれは…!」
「翼竜だ!」言うなりアリエスが身を起こした。刹那、遠ざかった竜の背に甲冑を着た人間が跨っているのが見えた。赤いマントに銀と黒の甲冑。アルタイルの兵!
な、な……!コノカは――ハールは唖然とした。とっさに思い出す。あれは、アルタイルの翼竜兵だ。確か逃亡中のハールたちを一度村で襲ったリュビテルの竜騎兵!!何でここに……!
ボンと音がした。遠くで。途端に闇夜にぱっと赤い光が翻る。炎だ、確かあの竜は、鱗が鋼鉄よりも硬く火を吐く――それで、確か小さな村も皆殺しに!!
「コノカ!」
アリエスは駆け出した。身を翻し、風のような速さで。待って!ハールは後を追った。危ない、危ない、頭の中でガンガン言葉が響いている。危機感が充満し――ハールは叫んだ。駄目!ハール!
だってあれは聖竜なのだ、コノカは思い出した。話を読んだから知っている!リュビテルの竜騎兵たちは竜を使い分ける。聖竜は最も気位が高く気性が荒い――だからあのとき、ハールはさんざ苦戦を強いられたのだから!
それもハールの体でだ。彼の魔力で、ギリギリだった。だからアリエスの魔力じゃ勝てっこない!!
ハールってば!!コノカは叫んだ。アリエスはもう豆粒みたいなサイズになってしまっている。ああ、もう――コノカは思った。どうしてよ!ハールの体なのに、彼の身体のはずなのにこんなに思うように動かないなんて!疾駆すれば風のようなハールの体がコノカではまるで力を出せない。『ハール!!』
その瞬間、ハールはゾッとした。町が近付いている。外周が高い石の城壁で囲まれており――その物見用の尖塔の上に、銀色の竜が禍々しくも赤い瞳を光らせて翼を広げ留(と)まっているのをハールは見た。
3
「敵襲!!敵襲―――――ッ!!」
ガンガン警鐘が鳴り響いている。火事のときに鳴らされる鐘の音だ。町は早くも火の海になっており、市民が逃げ回っている。「わあああ!」声がした。「誰か!!」
ハール!コノカは走った。傍らで火柱が上がっている。竜が炎を吐いたのだ。聖竜は油よりも燃え盛る唾液を吐く――近くで誰かが倒れている。息がないのは明らかだ。「ハール!」
刹那コノカは立ち止まった。アリエスが道の脇に屈んでいる。斜めに崩れた家屋の前にしゃがんでおり、柱を持ち上げようとしているのだ。「――ハール!」
「助けて!助けて!!」声がした。子供の声だ。竜がなぎ倒したらしく潰れた家の下から声が聞こえている。窓からガラスを突き破って血塗れの――人間の腕が生えており、子供が叫んだ。「ママ!ママ!!」
コノカは身震いした。恐怖で凍りつく。「糞!」ハールが――アリエスが吐き捨てた。「何て真似を…!」
村の襲撃、コノカは思い出した。あれとまま同じことが起きようとしている。ただし、もっと大規模で。あの時もハールは潰れた家の下から母子(おやこ)を助けようとした。だが、その姿に気付いた竜をおびき寄せてしまうのだ。そして瓦礫に火を点けられてしまい――
目の前で、焼き殺されてしまうのだ。母子ともども生きたままで。「ハール…!」
煙が上がっている。あちこちで火の手が上がり周囲が見えない。『聞こえるか、ハール!』
そのとき声が上がった。どこからか。あれはリュビテルの隊長だ。『投降せよ!ハール黒太子!!私はリュビテルの長オルギウス!貴殿の身柄を拘束する!』
やっぱり、コノカは思った。あの卑劣漢オルギウス。『新王の命により推参した!今姿を見せればこれ以上の被害は出さない!』
アリエスが立ち上がった。怒っている――それも、尋常じゃなく。待って!ハールは飛びついた。「落ち着いて!乗せられちゃ駄目!!」
本来なら最後に首を撥ねられる。あの男は、ハールの手によって。だが今は彼はハールじゃない――か弱い女性アリエスなのだ。そしてあの章では、確かにアリエスは捕まった。一度は後ろ手にされねじ伏せられて、肩まで折られて。
そして今ハールはコノカなのだ。立場がまるで逆。捕まったアリエスをすんでの所で助けるような真似も出来ない!
『今から十数える!』男は言った。まま同じだ。物語の流れと一緒。『それまでに姿を現せ!でなくば全ての命は無い!』
その瞬間、アリエスは前に出ようとした。駄目だってば!だがアリエスの力に引き摺られてしまう。一つ!カウントは始まっており、コノカは叫んだ。「こ、の――」
わからずや!ハールは喚いた。あの時も最初アリエスは止めていた。母子を目の前で焼き殺され、辛うじてアリエスの機転で身を隠したあのときも。(駄目、出ては駄目!ハール)
二つ!声は響く。頭に蘇る。ありありと、あのシーンが。アリエスを引き摺るようにして前に出るハール。その目は怒りが滾っており、赤く魔法が揺らいでいる。そして怒鳴るのだ。三つ!の声と同時に。(オルギウス!)
「――オ」
その瞬間声がした。別の声が。『オルギウス!!』天から降ってくるみたいに。ヒュバッと音がして、宙で何かが旋回し――刹那ドッと赤い血が波紋が描いて飛び散った。あっと声が上がる。「レリオット!!」
何かが飛んだ。それは、切断された竜の首だ。剣を構えたままレリオットが降りてくる。「貴様、何と言うことを……!」
護国卿レリオット、コノカは思い出した。そう――そうだ!忘れていた、ハールのもう一つの右腕。斬撃はソマール一とも謳われた男!ぐらりと首を無くした竜がバランスを崩し上から落ちてくる。鐘楼の上に居たらしく、レリオットは怒鳴った。「恥を知れ!竜騎兵ともあろう者が……!」
アリエスが我に返った。足を止める。その瞬間ハールは言った。「お、願い、ハール!」
言いたくないけど――ハールは首を振り目を閉じた。でも言うしかない!「聞いて!今の貴方じゃ闘えない!」
途端に殴られたようにアリエスは動きを止めた。
「知ってるの!」ハールは続けた。「知ってるのよ!ここじゃないけど、アリエスが――あいつらが来てどうなったか!だから引いて!ここは任せて!レリオットに――わ、わ、私に。頼むから貴方はあの母子を助けて!」
アリエスが目を見開いた。その身体を捕まえ抱き寄せる。じゃないと貴方は――一生苦しむことになる!!
「――護国卿?」オルギウスは訊いた。落馬ならぬ竜の背中から落とされ尖塔の上に立っている。「護国卿レリオット殿か。この町にご滞在であったか」
「黙れ!」レリオットはねめつけた。剣を構え煮えくり返っている。気迫で空気が震えるほどで、「よくも罪も無い者を巻き添えに……!!」
駄目、ハールは踏み出した。駄目よ、と思う。それ以上挑発しちゃ駄目、だってその台詞は、
ハールが言う言葉だったから?好戦的で野心的な、実力者のオルギウスに。挑まれた戦いにはけして背を向けない、それがオルギウスだ。例え女であっても、老人の挑んだ仇討ちであっても――遠慮なく首を撥ねる。だからこそその言葉で逆に火を点けてしまい、
大変な苦戦を強いられるのだ。(覚悟せよ!穢れた王の飼い犬め…!)
「か…!」
刹那、ハールは魔法を紡いだ。ほとんど無意識に頭の中で。魔法を起こす基本は二つ。印を結ぶか、それとも頭の中に完全な詠唱を即座に諳んじるか!
ボッ、と音がした。ほとんど同時に黒い渦が周囲に渦巻く。違和感を感じ、レリオットが振り向いた。いや振り向こうとした。そのとき、
ゴッと音がして周囲が眩んだ。黒い煙のような炎が一瞬にして広範囲に広がる。それはあっと言う間に渦を描いて、尖塔の上に立っている男に襲い掛かった。「何だ!!?」
「ハール様!?」
叫んでから、レリオットは声を引っ込めた。両脇の建物の屋根の上でギャアッと声が上がる。竜だ、他の兵士も来ていたのだ。だが――
『貴様――ハール黒太子!!』
知っている、ハールは――コノカは思った。だってあの竜は唯一弱点があるのだ。それは闇の魔術が苦手なこと。ハールはあのとき、我を忘れていた。そしてとっさに自分が最も嫌いな魔法を紡いだのだ。長い間、兄たちや国の人間に蔑まれ、母を殺されて――深い怨恨と憎しみを抱いていた。それに自ら火を点けたくなかった。それで封じてきた魔法をだ。だが、
それが効を奏した――そして空を交う竜を撃退したのだ。お陰で彼自身、酷く苦しむことになるけれど。
ギャアアアア!竜が咆哮し飛び立った。一斉に、周囲の屋根から竜が発つ。あっ!待て!声がして、背中の騎兵が制そうとした。だが――
手綱を取りきれず振るい落とされる。ハールは目を据えた。ズッ、威力を上げていく。底なしの勢いで。ズズズズズズズ!!
わああああ!声がした。竜が一斉に飛び立ち逃げ始める。一人は鐙(あぶみ)に足を取られたまま――逆さ吊りになって。黒い煙のような炎は渦巻き彼等にまつわりついた。背中から人間が振り落とされる。「わああ!」
(膨大な量だ。あれを諳んじて一瞬で頭に浮かべなければ、同じ効果を生めはしない。覚えきれないだろう?)
ナメんじゃないわよ――コノカは思った。レリオットが絶句している。A4サイズの呪詛の群れ、そんなもの、初見で覚えられるはずがない、だが、
私はロイギルの大ファンよ?!!ハールは睨んだ。傍から見れば悪魔みたいだ。どの頁のどの行に何が出て来たかも覚えてるの!!そんなもの、覚えられないわけ無いじゃない!!
ぐわあああ!オルギウスが叫んだ。黒い炎に焼かれているのだ。竜巻みたいにそれは渦を描きますます威力を上げ続ける。そして私は――
『社畜』よ!!ハールは目を光らせた。元・社畜!!この世の不条理や憎悪は知り尽くしてるの!!!「ああああああ!!」
オルギウスが叫んだ。身体が灰になり始めている。六時起床、七時出社、八時朝礼社訓の唱和!!どこかで聞いた台詞を絶叫する。何気に後ろに某ラップバトルのキャラが目にモザイク付きで見えているのはここだけの話――長時間労働ない終電!給料さえ仮想通貨!!オルギウスが叫んだ。止めてくれえええ!!!
『辞められるなら辞めとるわぁああ!!』コノカは叫んだ。ズドドドドドドドド!!地鳴りがし始める。『何が有休?!!定時で退社?退職金さえ出しもしないで――――!!』「何の話―――――!!!」
粉々になる。オルギウスの甲冑が。それだけでなく彼自身が灰のようになり――刹那、相手は砂のようにくずおれた。足から砂人形みたいに崩れ落ちる。「ハール!!」
いや、コノカ!声がした。遠い――物凄く遠い。誰かが叫んでいる。もういい!止せ!落ち着け……!!街が、崩れる…!!
その瞬間、誰かが飛びついた。腰に真横から。「止せ!」誰かは言った。「コノカ…!」
言うなり声がした。それは他でもない――『ハール』の声で。「頼む、コノカ!!」
ブツ、頭の中で何かが切れた。それはいつの間にか、繋がっていた太い太い電源コードを強引に引っこ抜いたみたいに。同時に凄まじい反動が来て、コノカは地面にくずおれた。
ロイギル――コノカは思った。あれと同じだ。ハールは、正しくはあの時一瞬の隙を突きオルギウスの首を撥ねた。だがその瞬間、長年封じてきた魔法の反動が来て――
口から血を吐く。アリエスが飛びつき、必死に介抱するのだ。ハール!ハールお願い!しっかりして…!!
そして――そして言うのだ。自分の中で暴走する魔法を抑えらないハールに。(貴方を失いたくない、ハール…!)
抱き寄せられる。何故か男の腕だ。他でもない――ハール自身の手。あれ?そのとき声は言った。
「君を失いたくない!コノカ…!!」
ふっ、と思考が止まる。それは急に、急激に。え、えっ?ほとんど困惑みたいな感覚が走り抜け、その瞬間、
映像を見た。それは走馬灯だ。有り得ないもの。ずっと――ずっと、アリエスの姿として見てきたもの。だが、
焚き火に向かうハール。彼女の料理に感心したり、初めて笑ってくれたり。魔法を手取り足取り教えたり――それは、他でもないハール自身の姿だ。黒髪に端正な顔立ち。黒い衣装。仏頂面で冷たく見えるが、優しく、本当はよく喋るし喜怒哀楽が激しい。何で?コノカは思った。何で……
自分が立っている。スーツ姿のままで。冴えない――冴えない一つ括りに何の個性も無い容姿。だがハールはコノカに向かって微笑んだ。
し――
死に、たくない。コノカは思った。死にたくない。目を開ける。こんな奇跡きっともう二度と起きない。例え、どんな姿でも、憧れた人の傍に居られるなんてことは。だから神様、お願い――
手を掴む。誰かが彼女の手を。その時視界が戻ってきた。
「………」
アリエスだ。目を閉じ必死に詠唱している。治癒魔法だ。彼女の――いや、ハールの手を握り、ひたすら魔法を紡いでおり、
泣いている。ほんの少し。目尻に涙が浮いている――
(……やだ)コノカは笑った。(らしくない。黒太子が泣いていいの?)
アリエスが目を見開く。その瞬間、ふっと意識が霞んで無慈悲にも周囲の全てが途絶えた。
4
焦げ臭いにおいが鼻をつく――
吐き気のしそうな灰の臭いだ。朦朧とした世界の中でそう思った。何だか生き物の焼ける臭いみたいな?髪の毛や、肉の焼ける臭い――何なの一体……
冷たいものが額に触れる。濡れたタオルだ。そして細い誰かの指。(ハール様、彼女は……)
(――大丈夫だ、レリオット)声が響いている。(恐らく魔法の反動で気を失っているだけだ。じき目を覚ますはず――だが)
どの道急いでここを去らねば?声が続いた。(追っ手が迫ってきています。一刻も早く別の場所に……)
パタンと音がする。扉の音。ややあってから、またどんよりとした眠気が訪れ、視界が消え――
また戻ってきた。今度はガラガラという音と一緒に。
(本当に、すまないな)声がする。レリオットの声。知らない声も一緒に聞こえてくる。(いえ、良いのですよ…)年老いた男の声だ。(……護国卿には、随分助けて頂いた。このご恩をここで返さねば…)
再び意識が途切れる。また何もかも消え失せる――
こまぎれの夢を見ているみたいだ。コノカは思った。頭のコードを切れ切れに繋ぐみたいに?時折匂いや風を感じる。何度も日が昇り、夜が更け、それを繰り返すみたいに。ひょっとして全部都合の良い夢だったのかも…
ハールと一緒にいられるなんて。コノカは思った。ハールになってしまって、アリエスになった彼と一緒に居られるなんて?だって本来なら永遠に出会うことの出来ない人間なのだ。それなのに、話をして触れ合って、そんなことが……
(――コノカ)声が聞こえた。アリエスの声だ。誰かが覗いている。もういい加減叩き起こしましょう、レリオットが唸った。それか川にでも投げ込むか……おい、貴様!
どうしたら目が覚める?アリエスが訊ねた。何故だ?やはりあんなものを使ったから心が壊れてしまったのか?賢師――
頼むコノカ。そう続けた。誰かが手を握り祈るようにして言っている。頼む、目を覚ましてくれ。
でなくばもう十日になる――
君を置いていきたくはない、コノカ!
刹那、引っこ抜かれたようにコノカは目を覚ました。
「………」
最初に目に写ったのは、木目の浮いた天井だった。いやに低く、明かりが暗い。随分小さな場所に横たわっている。何というか……
全然サイズが合ってない。コノカは顔を顰めた。あえて言うなら、子供用のベッドに無理矢理横になっているみたいな?狭いベッドに足を曲げて倒れている。誰かがコノカのお腹に額を押し付けており、「ハール様…」声がした。「少しは休まれませんと…」
「……そうだな」アリエスが、呟いた。ずず、といやにのったりした動きで身を起こす。「…祈っていても目覚めはせん。ありがとう、レリオット…」
言うなり誰かがこちらを覗き込む。へ、というような顔をし、その途端コノカは言った。「……ここ」
「!?」
刹那誰かがバッと顔を跳ね上げた。アリエスだ。顔じゅうに驚きの貼り付いたような、唖然とした顔をしている。「コ」咳き込んだ。「コノカ!!」
言うなりバッと抱き寄せられる。きゃあ!間があって、誰かが声を張り上げた。「こ、この――馬鹿者め!世話の焼ける…!!」
止せ、レリオット!アリエスが制した。コノカの――ハールの肩を強く掴み顔を覗き込む。「分かるか?!コノカ、俺が、いや気分はどうだ!!」
「…ハール」コノカは――ハールは言った。「レリオット、ここ、何処?」
途端にふうっとアリエスが息を天井に吐き上げる。ハールの額を触り目を覗き込むと、脱力したように項垂れた。「……大事無かった…」
な、何が?ハールは訊いた。目をしばたき周囲を見回す。「ていうか、ここ何処?どうなったの?あいつらは。村は、じゃなかった町は…」
レリオットが白い目をしている。睨むようにこちらを見下し鼻を鳴らすと、呆れるように言った。「……今更だな。とうに死んだ。いや、お前が倒したさ。十日も前にな」
ハールは途端にブッ飛んだ。「と、十日?!」
するとアリエスが遮った。片手を上げてレリオットを制する。「そう、十日…」言ってから目を伏せた。「…君のお陰で救われた。気分はどうだ?コノカ」
ハールは目をしばたいた。気分?そう思いきょとんとする。そう言えば……手を上げ胸に当てると「ちょっとスッキリしてるわ。何これ?」
途端にアリエスは目を丸くした。レリオットが正気か、というような顔をしている。
「……コノカ、君は」思い出させるように、アリエスが膝を乗り出すと説明し始めた。「君は街を襲撃した竜騎兵たちを倒したんだ。たった一人でな。闇の魔法を覚えてないか?」
ハールはきょとんとした。そう――言えば。レリオットの方を見る。「………」
「リュビテルの竜騎兵が、全滅だ」レリオットは密かに驚いたような顔をして言った。「お陰で助かりはしたが…よくあれだけの魔法を繰り出せたな?しかも闇魔法を」
途端にアリエスは目を伏せた。
「……闇の魔術は、心に深い傷を残す」アリエスは囁いた。「目を覚まさないので――てっきり魂が壊れてしまったのだと思っていた。ここは賢師の家。我が師クザーヌスの隠れ家だ」
「エリシオ・クザーヌス?」
途端にレリオットが目を剥いた。何だと?意外そうな声を出す。「賢師クザーヌスを?よく知っていたな!貴様」
知ってるわよそりゃ――ハールは目をしばたいた。エリシオ・クザーヌスはハールの育ての親みたいな人なのよ?確か王都が陥落した後はハールとの仲を危険視され、異端で追われて逃げたのだっけ…何処とも知れぬ山の中へ…
足音がして、アリエスは振り向いた。ドアの開け閉てされる音がする。と、アリエスが律儀に片膝をつき、頭を垂れた。「クザーヌス師。彼女が――」
コノカが目を覚ましました。そう告げた。白髪交じりの肩まで髪を伸ばした中年男が立っている。長いくすんだ若葉色の衣の袖を垂らしており、コノカを見つめており――ややあってから突然相手は両膝をついた。はっとレリオットが目を開く。
「……お初にお目にかかる」そう言った。ベッドの中のコノカに向かってお辞儀する。「太子の恩人よ。私はエリシオ・クザーヌス。ようこそ粗末な我が家へ…」
え、えっ。ハールは目を丸くした。いつの間にかレリオットも膝をつきこちらに礼している。慌ててコノカは手を振った。そ、そんな、止めて下さい、こっちこそお世話に――
クザーヌス、さん。コノカは――ハールは言った。相手はじっとこちらを見つめるような顔をしている。まるでハールの中身を見透かすような目をしており、ハールは急いでベッドの上に正座した。「あ、ありがとうございます。助けて頂いて……」
すると、相手はふっと微かに唇を吊り上げて笑った。アリエスがじっと黙っている。「……聞いた通りだ」そう言うと、立ち上がった。アリエスの背を促す。「殿下、お立ちを。彼女は礼を求めておらん」
アリエスは顔を上げた。レリオットはさっさと立ち上がっている。「事情は聞きました。コノカ殿。よくぞ太子を救ってくれた…」
そう言い、ふいに言葉を途切ってしまった。よく見ると目尻に涙が浮いている。「師よ!」アリエスが気付くと慌てて介抱した。相手は目頭を抑え項垂れてしまう。
「よ、よくぞご無事で……」
言ったきりただ無言で泣き始めてしまう。他にどうしようもなく――ハールはじっと二人の様子を眺めていた。
5
ハールの師、クザーヌスは思った通り良い人だった。病床の身をおして料理を呈してくれる。剣聖クザーヌス、確か呪いで身体を病んでいたっけ…
出された料理を口に運び、コノカは――ハールは目を丸くした。美味しい、思わず言ってしまう。どういう訳かレリオットは手すら付けていないけど…「これ、何です?」
「ワラビと沼サソリの身の団子入りスープです」クザーヌスは答えた。ぶっ、途端にアリエスが吹き出してしまう。だがこちらはそれが何かも分からないので、あっさり流した。「へぇ――凄く美味しい!」
するとクザーヌスは笑顔になった。お、おい……レリオットが唸っている。さ、流石は天界人……アリエスも言っており、(卓越した精神力があるらしい)
「こっちの卵のフライみたいなのは何?ピーナツみたいな味がするけど」
「ピーナツが何かは存じませんが」氏は笑顔で解説した。「イオニアの大アリの卵を揚げた物です」
何となく分かる。ハールは思った。俗に言うゲテモノってやつ?だがこっちの世界の食材や文化に疎いので、怖いものナシだ。パクパク平らげるハールを見てクザーヌスは笑った。「可愛らしいお嬢さんだ」
途端に今度はハールが吹き出す番だった。え、えっ?アリエスはほとんど進まない手を止め顔を上げている。「師よ」遮った。「彼女の姿が分かるのですか?」
「形は」クザーヌスは頷くと、何だか謎めいたことを言った。「修錬を積めば、目に見える姿だけでなく相手の魂の色かたちも見えるようになるのです。王子は修行が足りませんな」
そうか……アリエスは素直に恥じ入った。レリオットは、そんなもん見えませんよ、というような顔をしている。「師よ」アリエスは訊いた。「それでコノカはどんな姿です?」
ちょっと!途端にハールは慌てた。止めてよ!仮にも前世の姿なんて早々自慢できるものじゃないのだ。だがクザーヌスは目を凝らした。「そうだな……酷く、くたびれておられる」
ぐっ、途端にハールはむせ込んだ。だが何故かアリエスは興味津々だ。「……酷い目に遭われていたのだな。奴隷のような……」
奴隷!?流石にコノカは飛び上がった。何だと、アリエスが目を剥く。「彼女自身は奴隷ではない…だが、それに等しい扱いを受けていたような……」
「それは…」アリエスが目を伏せた。心なしか悔しげな顔をしている。「どの世界にでもあるのだな。そのようなことが……」
だが活き活きともしておられる。クザーヌスは再び続けた。「本が、お好きなようだ。これだけの本を持つとはかなりの知識階級に違いない。おお、何と……人が寄せている。大勢だ。軽く十万は越えそうな?」
スト――――ップ!!ハールは叫んだ。それ以上無し!手でバツを作ってやる。それイベント会場だから!!こみ上げてきた言葉を飲み込みコノカは首を振った。「もうナシ!ナシよこの話題!!」
残念だ。アリエスは笑った。「君のことを知りたいのに…」
ぐ、っ。ハールは詰まった。だがレリオットは珍しく感心している。「知識階級…なるほど、そう言われると得心が行く。あの短時間で、最も長いもののうちに入る魔術を暗記したのだから。魔法の威力もそのためか」
闇の魔術。ハールはスプーンを止めた。途方もない邪(よこしま)な魔法の一種。あれを使いこなせたのも、奴隷生活があってのことか……レリオットは呟いた。「苦労していたのだな。お前も」
そりゃあね……ハールはたそがれた。社畜ですから?クザーヌスは黙っている。と、目を上げた。「時に太子よ」
はい、アリエスが律儀にカトラリーを置き向き直った。「国に戻られるとの仰せですが……私は賛同出来ません」
途端にアリエスの顔がピリッと引きつった。よくない話の前触れだ。「――何故です?」
「率直に言って、兄君は…」クザーヌスはふいに険しく顔を歪めた。「オスタリス殿は乱心しておられる。先の王、父君を自ら手にかけるなど……それも動機は幼子の如き幼稚なもの。かの王に深い怨恨と嫉妬の憎悪が私には見えます」
怨恨と、憎悪。ハールはそっと息を飲んだ。
ハールの兄、長兄(ちょうけい)オスタリスと第二王子リュジャン。二人は王と血縁関係ではない。それは全て、ハールが戦死したと思われた後(のち)知られたことだ。かねてから、ハールに対して冷淡かつ無慈悲で知られていた先王エルメンガルド。彼がハールの死を知り、むせび泣いた。我が唯一の跡取りよ、と。私の血を引く王子。暗殺の多いアルタイルで息子を守るために、これまでわざと遠ざけ接してきたが……
我が血筋は途絶えた。王はそう嘆いた。それが兄たちの逆鱗に触れたのだ。当然ながら、全てを引き継ぐと思ってきた兄たちが、全て偽りであったと知ったのだから。必要なのは忌み子ハールただ一人のみ。我々はていのよい隠れ蓑だった――
「……オスタリス」アリエスが、拳を固めた。怒りを抑えているのだ。獣のような扱いをハールにしてきた第一王子。それを優越感と憐憫の眼差しで見てきた第二王子。当然良い感情は無いに違いない。だが――
「…哀れな」アリエスは、どうにか言った。「血の、繋がりなど……俺は一度も父に目を掛けて貰ったことが無いのに…」
それは違うわよ。ハールは思わず口を挟んだ。えっ、とレリオットが顔を上げる。「クザーヌスさん、きっと――その場に居たんでしょう?実際に殺されてしまう所は見てないんだろうけど。だったら何故教えてあげないんです?お父さん――エルメンガルド王が、ハールが死んだのを知ってあんなに泣いたこと」
途端にアリエスが目を剥いた。初めて見るほどの驚愕を露にする。「何……だと…」
クザーヌスが一緒になって目を見開いている。何故…それを……うわごとみたいに呟いており、ハールはアリエスの目を見た。その目が言っている。(本当か?)と。
「――うん」ハールは頷いた。それは流石に変更無いはず…そう思い、付け足す。「お父さん――エルメンガルド王。私も最初は何て性格の悪い奴なのと思ってたけど」
それは全部嘘だったのよ。ハールは喋った。ほんの少し微笑んでしまう。「知られてないけど、エルメンガルド王は…第二王子なの。子供のとき、仲の良かった兄を政界の都合で殺されて」
それで自分が王になった、そう書いてあった。「だから大事なものこそ隠さねばって隠し通してたのよ。要らない子、ハール。烏の如き黒髪を持つ忌み子の王子って。小さいときは寂しかったわよね、でも」
「それは全部ハールのため。来(きた)るべき時に、全てを明かす時が来れば、せめてその時は肩を抱かせて欲しい、そう思ってたんだって。許してくれとは言わぬ、ただ侘びさせてくれ、と――」
クザーヌスが、口をはくはくさせている。レリオットが固まっており、流石にはっとハールは我に返った。「お、前」レリオットがうわごとのように呟く。「どうしてそんなことを知ってる……?」
ガタン、とアリエスが立ち上がった。黙って外に出て行ってしまう。しまった……ハールは思った。や、やり過ぎた?そりゃあ、長年散々嫌われ冷遇されてきた父親なのだ。いきなりそんな情報ブッ込まれても対処出来ないわよね……
「あ……貴方は」クザーヌスが言った。ほとんど呻き声みたいになってしまっている。賢者の印である目の奥の「扉」――(瞳孔のもう一つ奥にある瞳孔だ)が開いてしまっており、「何者なのです?き、貴殿は一体どういう方なのです?」
ハールは首を竦め、苦笑した。「別に」失笑する。「何者でもない、ただの一般人」
「そ、それがどうしてそんな……」
「そうねぇ」更に肩を竦める。アリエスを追うため扉に駆け寄ると、ハールは――コノカは笑った。
「強いて言うとハールをずっと見てきた人、そんなところじゃない?」
アリエスは、思った通り近くには居なかった。この辺りは廃村になっている。クザーヌスは確かクーデターが起きてすぐいち早く市街に逃れ、身を隠すことで難を逃れたのだから……真っ暗闇のクマでも出そうな廃屋の間を歩きながらハールは呼んだ。「アリエスー?」
ううん、ハール。呼びなおした。少し行ったところの森の際に小さな川がある。崩れかけの狭い半円の橋が架かっており、彼女はそこに座っていた。
「ハール」
返事はない。ちょこんと座っており、橋げたから足を下の流れに向けて下ろしている。これだけ見ればただのお嬢さんだ。だが――
「……すまない」背中で言った。「少し、一人にして欲しい……」
コノカは無視して隣に座った。すとんと腰を下ろす。「……頼む」重ねてハールは言った。「嫌よ」
こうなると思ってた。コノカは思った。一人で泣いているのだ。「聞こえなーい」コノカは言うと耳を塞いだ。「真っ暗闇だし何にも見えないわ」
「……ふ」
はは、ハールが笑った。下を向き、笑っている。その頬にただ涙が流れている――とめどなく。「お、おかしな、人だ……」呟く。「き、嫌われていると、ばかり……」
「嫌ってない」コノカは言いきった。「お父さんも、ユリジェスちゃんも、ハールのことが大好きだったのよ。だからホラ」
懐をまさぐってやる。それは、ハールが館を逃げ出すとき置き去りにしてきた印章を捺した封印(シール)。ぱっと見彼には見慣れた、何の変哲もないものだ。が、
「これよく見て?」コノカは指さした。こればっかりは、自力で気付いたもの。試しに捺してみたコノカが偶然見付けたものだ。それは指輪の側面に小さな小さな文字が刻まれていたことであって、
封印の隅に文字が映っている。そこにはこう書かれていた。
『我が子に神の加護あらんことを』
ハールが目を見開いた。それがとどめになったのか、絶句してしまう。祈らない王、エルメンガルド。だがこればかりは祈ったのだ。ハールが無事であることを。いつの日か、謝罪の日が訪れることを――
「……っ!」
背中を捕まれ、コノカはぎょっとした。だがハールが泣き出してしまう。この嗚咽すら押し殺したものだけど、(聞こえない、見えないわよ)、精一杯知らぬふりをして背中を貸しながら、コノカは暫く夜空を仰いでいた。
6
家に戻ると、クザーヌスが待っていた。レリオットが剣を片手に佇んでいる。大方何があったかを知っているのだろう――アリエスは二人を見ると黙って頷いた。
別段隠さなくてもいいのに、コノカは思った。わざわざ治癒魔法で赤くなった目を治してしまう。おまけにこればっかりは男性で、盛大に小川で顔を洗うと(ち、ちょっと。ダイナミック過ぎるわよ…)濡れた顔を腕で拭った。「行こう、コノカ」
毅然たる様子で二人を見返す。それは他でもないハール黒太子――アルタイル次期統首の面持ちだ。「待たせたな。レリオット。今夜出立する」
「承知しました」レリオットが頷いてみせた。クザーヌスも剣を携えている。剣聖クザーヌス?コノカは思った。まさか、病気の身でついてくるつもりじゃ――
「レリオット、クザーヌス師よ――」ハールは言った。アリエスの姿で。だがその顔は精悍そのもの、声が凛と響き渡る。「父の遺志を継がねば。我々は祖国アルタイルを目指す!」
ぱあっとコノカは明るくなった。そうか、こんな風に展開していたのかと。生憎とこの先はどんな展開が待ち受けているのか知らないけど――思わず笑顔になる。「コノカ」
うん。コノカは――ハールは頷いた。アリエスがこちらを向いている。ほんの少し口元に笑みを浮かべて。「君を巻き込み申し訳ないが……来てくれるか、一緒に」
勿論!ハールは笑った。ぐっ、と拳を固め笑う。「ここまで来て抜けたはないわよ。それにハールが居なきゃ成功しないでしょ?」
レリオットが笑った。初めてフンと目を見て笑う。度胸だけは認めてやろう、というように。クザーヌスが踵を返すと机を促した。「では皆、どうぞ、これを」
そこには地図が置かれていた。古い古い、王家に引き継がれてきた地図だ。折り目がボロボロで風化しているが、今一面にテーブルに広げられている。「師よ、これは……」
「我々の地図です」クザーヌスは言った。「いや、ただの地図ではありませんが」
そう言い何かを詠唱する。ふっと右手に息を吹きかけ、地図の上に手を置くと、その瞬間見る間に光る線で隠し絵図が現れた。
「これは……」
その途端クザーヌスは僅かにやにさがった。初めて見る悪い顔だ。「父君が手にかけられた時」クザーヌスは地図を手で擦りながら言った。「居室に――忍ばせて頂いたのです。いずれこうなるやもしれぬと」
「はは!」アリエスが笑った。「実に――良い機転だ!」王族然として頷く。「これは、これは我々の――隠し通路だ」
「隠し通路?」コノカはぎょっとした。レリオットが目を剥いている。「なんと…これは…」
そこには既存の細かい地図に重なるようにして、金色の光る道筋が見えていた。王都の中枢にアルタイルの牙城があり――そしてその下を太さもまばらの道が無数に巡っている。「凄い…これって」
王族用夜逃げルート?ハールは訊いた。言い方を!レリオットがツッコむ。「そう、兄君は――現在拝謁の間に居ります。というより粛清が始まって以後ただの一度も出てきておらぬ」
粛清、ハールはぎくりとした。それって――反対分子を排除すること?アリエスが険しい顔をする。「恐らく恐れているのでしょう。民心の乖離を……父君を、討ち取り曝しまでした残虐者と謗られるのを。今街に出ているのは兄君から命じられた王兵だけ……弟のリュジャン殿は逃げ出す者が居ないか街の入り口を封鎖しております」
つまりは中には入れないということだ。正面きってノコノコ行けば、一貫の終わり。
「――民に剣を向けているのか」アリエスは囁いた。ゾッとするほどの怒りの形相を見せる。「我が兄は……」
「今や民心は完全に離れつつあります」クザーヌスは続けた。「第四王子のユリジェス殿が幽閉された今、頼れるのはハール様お一人だけ……もし貴方が兄君を討ち、名乗りを上げれば、民は皆こぞって貴方に従うでしょう。ハール黒太子」
ふんふん、なるほど。ハールは頷いた。ついでにそこに、護国卿として誉れ高いレリオットが付き添い、賢者クザーヌスが居れば、ブーイングなんて起きっこないってことね。なるほど……
「ただ、それには太子ご自身で兄を討ち取り名乗りを上げて貰わねばならぬのですが……」
なるほど。ハールは更に頷いた。そりゃそうね?でも余裕よ。そう思い顔を上げる。だってハールは剣聖に鍛えられた男。オマケに魔法の腕もピカイチだし数々の戦で鍛えた経験もある。本気でかかれば温室育ちの兄なんて一太刀じゃ…
そこまで思って、ハールは気が付いた。いつの間にか、その場の全員が――コノカの方を眺めている。え、えっ?思ったそのとき、刹那雷が閃くみたいにコノカは気付いた。そ――そうだった、それは、つまり『ハール』の仕事だ…!!
つまりは現段階ではコノカの仕事!!ブボァ、ハールは吹き出した。まるで水槽に投げ込まれたカエルみたいに――ちょちょ、ちょ!!
全員切羽詰っている。その顔は、異口同音で『やれ』と言っており、『やってくれ、コノカ!!』
我々――いやアルタイルの為を思って!!
無茶言わないでぇえええ!!!その瞬間、ありったけの大声を上げてハールは叫んだ。
それから五日――
ハールは文字通り地獄だった。習うより慣れろ、と称して荒野に連れ出されたのだ。「丁度いい」アリエスは言った。「この荒野は危険地帯だ。良い練習材料になる」
は!?ハールは言った。は!!?「良い案です」レリオットも頷いてみせる。「この付近は徹底して避けられていますから…常識的には、潜伏するはずがない。追っ手もここには来ますまい」
ちょっと―――!!ハールは泣き叫んだ。病人のクザーヌスまで来ているのに!「大丈夫だコノカ、援護する。とにかく君は身体を動かすことに慣れろ」
いやぁああっ!ハールは喚いた。相変らず男の体でやることは女だ。この世の終わりみたいな灰色の岩砂漠に駆り出される。オマケにこの地帯に出るのはなんと、保護色の大蛇とカメムシの化身みたいな巨大な虫で…!!
ぎゃあああっ!いや――――!!
案の定、ハールは逃げ回った。風のごときハールの駿足を悪用する。いや――――!来ないで――――!!泣き叫び、アリエスの背に隠れて「きゃあああ―――っ!!」
「………」流石のクザーヌスも硬直している。虫も爬虫類も大嫌い!ジタバタする。「逃げるな、コノカ!」アリエスが叫び、「訓練にならん!」
「もうちょっと出てくる敵を選んでよ!!」
だが多少なりとも効果はあったのだ。接近戦は事実上不可能――ハールは魔法書に鼻を突っ込んだ。僅かひと晩であらかた魔法を覚えてしまう。出てきた途端ボンボン魔法を炸裂させ(お、おお…)「いやぁあっ!誰か―――!」
中々に才能がある。クザーヌスはそう褒めた。剣の問題は一向に解決していないが少しは様になっているらしい。体の動きや、身のこなしもハールの覚えた動きを再現出来ているようだし――「使えそうですか?師よ」
「無論」クザーヌスは不敵に笑った。「私が仕込んだのです。王子は私の指導に不服が?」
「まさか」
夜は先日の地図を広げて話し合う。アルタイルの城の下まで続く地下通路。城まで伸びる通路があるのは二つだけ。一つ、城下に有る古い門の下から。二つ、この荒野を抜けた所にある、ロマーニュ川付近。
「ロマーニュ川?」ハールは顔を顰めた。聞き覚えがあったのだ。三巻辺りに出てきた名称で、ハールが名前を聞き顔を顰めた場所。「ロマーニュって、あの?人を食らう人魚が住むっていう」
「そうだ」レリオットが頷いた。「あの川の途中にある岩谷から通路に入る」
ぶはっ、ハールは吹き出した。「ま、待って!」
人を食らうって!ハールは聞いた。人魚のオーソドックスなイメージを思い出す。こう、ナイスバディで美しくて、岩に座って髪を梳ってたり――「食べるの?」「ああ」「人を?」
厳密には男をな。レリオットはあっさりと肯定した。「だが案ずるな――ロマーニュの人魚はアルタイルの者には手を出さん。その昔、王家に救われたことがあるからな」
そんな昔の約束覚えてるわけないじゃん!!ハールは騒いだ。
「貴様は無知か有識か分からんな…」途端にレリオットは不快極まりないというような顔をした。アリエスは焚き火に枝をくべ笑っている。「王家の約束は絶対だ。いわば『契約』と言うべきか……二百年ほど前、アルタイル王ヒルデガルドが彼等を救ったとき交わしたんだ。あの地に毒を巻いた民を山際まで退け、毒でただれた彼等を薬湯を流すことで命を救った――そのとき彼等は誓ったのだ。アルタイルの血筋の命は絶対であると。君が居れば問題ない」
ま、マジで……?「マジだ」レリオットは真顔で鸚鵡返しする。「言われた通りにすればいい」
「で、でも」ハールは訊いた。「それってどうやって信用して貰うの?そんなの、嘘とか吐かれれば終わりじゃない。アルタイルの王家ですーって。どうやって証明するのよ」
「それは」レリオットは目を上げた。「それも計算済みだ。お前の持っている印章、あれを見れば一目瞭然だ。代々王家に伝わる印章(インタリオ)、あれこそがアルタイルの証なのだから」
「印って――」
「指輪をしてたろう?」アリエスが笑った。「王家のインタリオだ。ついでに言うと、あれが岩屋の鍵になっている。あれさえあれば」
ハールは思い出した。どこ行ったっけ、あれ……考え逡巡する。確か、最初にソマールを出た時に、メリンダに見せるため持たせたのだ。ラリマーの首に手紙と一緒に巻きつけて。
「………」
全員黙っている。ややあってから、気付いたのかアリエスが硬直した。
「……あ」
その途端、今度こそハールは文字通りフリーズした。
7
「バ――バカか!!バカなのか!?馬鹿なんだな貴様!!」
暗闇の中、悲鳴に似た金切り声がぶち上がった。一斉にパニックが訪れたのだ。うわぁあああ!!と。流石のアリエスも絶叫してしまい(父上の形見がぁ―――!!)
知らなかったんだもん!知らなかったんだもん!!ハールは叫んだ。ここは岩砂漠、海洋都市ヨルギス(先日奇襲された港町だ)から更に六十里離れた場所だ。ここからソマールへは、率直に行っても大陸横断レベル。「取りに帰んの!?今から!!?」
無理!絶対無理!ハールは手でバツを作った。敵も追っ手もウヨウヨ居るのよ!?別ルート辿ればいいじゃない!
だがいずれにしてもアレが不可欠なのだ。アリエスは紙切れみたいになってしまった。王家の城に入るには、あの印章無くしては入れない――つまりは必需品。「ど、ど――」
終わった……アリエスが両膝をついた。ちょっとぉお!泣き叫んでしまう。シッカリしてよ!「無理だ、あれなくしては成り立たん……俺は流れる。二人はどこかで幸せに…」「人の話を聞きなさいって!!」
クザーヌスが顎に手を当て黙っている。流石にゲームセット、と思いきやクザーヌスは囁いた。「…いや」
そうとも限りますまい?そう言いアリエスの肩に手を置いた。「立ちなさい、太子。この程度のことで消沈などもっての他」
「しかし……」
「手は有りますが」クザーヌスは言った。「それには相当の魔力を要する――しかし今なら不可能でも有りますまい。私と、彼女が居れば」
途端にハールは――コノカは固まった。え、えっ?「え?」
「太子は並外れた魔力の持ち主」クザーヌスは言った。「そして私は憚らず申すなら――かつてアルタイルで二番目と呼ばれた魔力があります。二人ですれば、この距離も不可能とは言えますまい」
そして付け足した。「ただ、それには一方通行になりますが……」
どう……ハールは訊いた。「どういうこと?」だが気のせいかレリオットが目を剥いている。「…まさか」ややあってから、訊いた。「まさか彼女をここに呼ぶので?」
「それしか有るまい」クザーヌスは頷いた。「あの魔法は物だけを呼び出すことは出来ん。それを身に着けている者ごと、引き寄せねば」
待って!!ハールは叫んだ。それでピンと来たのだ。彼等が何を言っているかを。それはつまり――つまり、メリンダを一緒に連れていくということで!
駄目よ!言おうとした。だが選択肢は一択だ。アリエスが荷物の中から魔術書を取り出した。バン!と地面に投げ出してしまう。
「待ってよハールったら!」
止むを得ん――アリエスが言った。その目が据わってしまっている。異論は認めず、初めてその目に怯んでしまったとき、クザーヌスが頷いた。
「では――始めましょうか」いきなりだ。「丁度良い、今宵は空が明るい。死しても良い頃合いでありましょう」
途端にハールは棒杭でも飲んだみたいに首筋を強張らせた。
し、し、死ぬってどういうこと…?
それから半刻後、ハールは完全に固まっていた。地面に白い粉で何やら複雑な四角い陣を描く。怪しい雰囲気たっぷりだ。怖いやら不気味やら――オマケにアリエスは蝋燭まで四隅に立てている。「何すんの?ねえ…」
「良いですか」クザーヌスは言った。「今から私が詠唱します。貴殿はそれをそっくり唱和し、ついてきて下さい。案じなさるな。もし失敗しても消えるのは私一人の命――老い先短い男です。気に召されるな」
「しない訳ないでしょ!!」
アリエスは緊張した面持ちで固まっている。レリオットは、遠巻きに見ており、「正気か」呟いた。「こんな飛距離で転送を……」
「転送魔法?」ハールは訊いた。「転送するの?メリンダを」
「簡単に言えばそうなるが」アリエスは頷いた。「一度きりだ。それも、もし、発動したその時に――彼女が指輪を身に着けていなければ意味を成さない。率直に言うと失敗になる」
「どういうことよ!」
「我々の目的は指輪を得ることだ」アリエスが言った。それはあまりに無慈悲な物言い、流石にハールでも、看過出来ない言い方だ。「メイドを連れて行きたい訳ではない――危険の多い旅に同行させることになるのだからな。まして指輪なくしては」
「お荷物だって言いたいの?」ハールは噛みついた。それは――無いんじゃない?思わず言ってやる。「そりゃあ、確かに非力だけど!」
でもそれだけじゃないのだ。ハールは目を吊り上げ思った。メリンダは本当に賢くて、冷静で――誰よりも回る頭を持っている。確かにこんな危険な旅には連れて行きたくないし不向きだけど、でも、そんな、邪魔者みたいな言い方は…!
「……すまない」アリエスが、目を伏せると謝罪した。「動転していた。どうか、師よ、ご無事で…」
そこでハールははっとなった。クザーヌスが既に陣の中に立っている。「良いですか」ハールを見て言った。「私の詠唱を『頭の中』で繰り返してください。一言たがわず。決して、止まってはなりませぬぞ」
ま、ま、ハールは口をわななかせた。今更ながら怖くなってくる。「待って…」
「門が開けば真っ先に、例の女性を探して下さい」クザーヌスは続けた。「数秒だけなら会話が出来ます。その後は、彼女を引っ張り込むしかない――下手を打てばどこに落とされるか分からん、心して下され!」
待ってってば!!ハールは叫んだ。「アリエス!」
途端にカッと地面に描かれた陣が光った。最初眩く――白く、次に緑色に。クザーヌスが何かを詠唱し始める。待っ、て!!
刹那、ハールはぎくんとした。それは聞いたことのない言葉――どうして分かるか判らないが、古い古いアルタイルの言葉だ。頭の中で繰り返せと言ったって!ハールは青くなった。ニャムニャムムニャにしか聞こえないんだけど!誰か――
だがハールはそれを追っていた。無意識に、頭の中で。同じことをそっくり意識が勝手に繰り返している。やるしかない――変な覚悟が突き上げて、ハールは目を閉じた。ああ、もう!どいつもこいつも!ごめん、メリンダ……!!
その瞬間、おかしな感覚がした。その周りだけ急激に空気の流れが変わったみたいに。わんわん耳鳴りがし始め、全身の毛穴が開いたような凄まじい気持ちの悪さが訪れる。ち、ちょっと……!ハールは目を開けた。真緑だ。世界が光る緑色だ。助けて!
その瞬間ハールは目を剥いた。ふいに目の前に、小ぶりな正円の穴が現れる。
それはどんよりと、黒い色に濁っていた。何だかブラックホールみたいな。だが、それを見ていたハールは、ふいにそれが暗い部屋の中にある闇なのだと気が付いた。叫んでしまう。「メリンダ…!」
誰かがギクリとした。何百里と離れた場所で、だが確かにそれが分かった。何かが近付いてくる。「ハール様…!?」
ハール様!刹那ハールの頭のヒューズが吹っ飛んだ。本能で、早くしなきゃ、という実感が突き抜けたのだ。「メメメメリンダ!指輪持ってる?前ラリマーの首に括ったあの指輪!アレ持ってこっちに来て…!」
だがその瞬間、声がした。ハール!レリオットの声だ。限界だ!「もう!?」言うなり誰かがメリンダを引っ張った。そう――力任せに。指輪って、言おうとした途端誰かが無茶苦茶に千切れる勢いでメリンダの二の腕を掴んで引っ張った。きゃああっ!!
その瞬間、空気が逆巻いた。さっきまでどうやら上に――上に向かってヘンな形で渦巻いていた空気が、逆向きになる。あ、あ……!ハールは思った。メリンダ、何てことを!思った瞬間何かが降ってきた。盛大に頭の上から。ドン!ドシャアン!!
ぐえっ、ハールは言った。受け止め損ない誰かと何かの下敷きになる。思いっきり頭を打ち、ついでに胸の上に落下され、「………」ハールは白目を剥いていた。ハ、ハ……
「ハール様!」声がした。ハール様!ハール様ってば!
メリンダ!声が響いた。レリオットが駆け寄ってくる。え、えっ?メリンダがあっけにとられており、アリエスが飛んでくる。「師よ!」頭がわんわんしており耳が上手く聞こえない。「師よ!ご無事ですか…!」
ど……メリンダが言った。腑抜けたみたいに。どこですの、ここ……言っている。ハールの上に座ったまま、編み針を持って。だが、その肩をレリオットが掴むと無理矢理顔を上げさせた。「メリンダ!」鬼気迫る表情だ。「指輪は有るか!!」
「指輪、って……」
その瞬間、ハールは目の前が暗くなる気がした。失敗、そんな認識が一斉に漂う。やっぱり無理だった――そう思ったとき、べろん、と何かに顔を舐められて、ハールは我に返った。バフ、顔に息がかかる。
「……ラリマー?」
バウ!それは言った。ハールの顔をベロベロ舐めている。ラ、ラリマー、思ったそのとき、首に――その首に、ハールの結んだインタリオが揺れているのをハールは見た。
「ラリマー!!」
ワン!ラリマーが鳴く。飛びかかってくるラリマーに、「でかした、ラリマー!」叫んだアリエスが、遠慮なくガブリと差し伸べた手を噛まれるのをハールは視界の隅で見た。
8
「こ、荒野?荒野なんですの?どうして急に……」
ひと心地ついてから、メリンダは盛大に目をしばたたかせそう訊いた。ラリマーはハールに盛大に甘えている。長らく留守にされ、寂しくて仕方なかったようなのだ。夜に作った料理を餌にやりながら、ハールは頷いた。「そうなのよ…話せば長くなるんだけど…」
メリンダは、なんと椅子とテーブルごと転送されていた。クザーヌスは無事だ。少々負担がかかったので寝ているが、岩砂漠のど真ん中に優雅なテーブルと椅子が置かれている。異様な光景で、メリンダはキョロキョロすると唖然とした。「一体…」
指輪のこと。今後の流れのこと。説明すると俄かにメリンダの顔が引きつった。やっぱり…!思わずビンタを覚悟してしまう。そりゃあね?流石にイキナリこんな荒涼とした場所に引っ張り出されて、しかも敵だらけで、これから敵地に向かいますだなんて言われれば?しかも率直に言えば指輪のオマケ……だがメリンダは憤然とした。「まあ!まあ!ハール様ったら!」
「でしたら何故事前に言って下さらないのです?」そう言った。「であればせめて仕度をしましたものを…!」「え」
「同行致します」メリンダは姿勢を正すとキッパリと言い切った。俺は別行動する、近くの町まで彼女を送って……などとレリオットが言おうとしていた矢先にだ。「お嬢様が行くのであればお供をするのは私の勤め。離れませんとも」
「で、でも!」
「異論は一切認めませんよ」メリンダは目を据えた。こんな荒野のど真ん中で、ミスマッチ極まりないメイド服でだ。「ハール様、わたくしを騙したつもりでいらっしゃったの、お忘れで?まだ許しておりませんから!」
「………」ハールは固まった。「オマケにあんなに心配させて……」
とにかく一緒に伺います。メリンダは、堂々と宣言した。まるで近所に買い物にでも行くような口ぶりで言ってみせる。「こう見えても体力に自身は有りますのよ。ご心配なく」
はあ……ハールは項垂れた。ちょっと…レリオットに目配せする。あんた、何とかしなさいよ?だがレリオットも目配せし返しており(無茶言うな…女の扱いは分からん)
「まあ」アリエスはほっと息を吐き出すと言った。「とにかく……メリンダが居てくれれば、心強い、わ。色々不安だったから…」
ぎこちなく女性の喋り方をする。つい先日まで本性を丸出しにしていたので、今更慌てて繕っているのだ。ラリマーは唸っている。相変らずアリエスが嫌いらしい。ウウー…彼女に牙まで剥いている。
「た――確かに」ハールは笑った。ラリマーの頭を撫でてやる。「メリンダが居れば心強いかも。一番頭が回るのは彼女だし…」
途端にメリンダはきょとんとした。まあ?と目をしばたたかせる。
「ラリマーも一緒に来ちゃったみたいだし」ハールは笑った。「仲間が増えるのは、嬉しいわ。気持ちも明るくなるしね」
ねーラリマー。よしよししてやる。ラリマーはすっかりご機嫌になっており、メリンダはコホンと咳払いした。
「……そう仰って頂けるなら」上目遣いになった。「光栄ですわ。ただし」
その途端、メリンダはずいとハールに詰め寄った。えっ何?言う間もなくじっとハールの目を凝視する。メ、メリンダ?ややあってから彼女は言った。「一つ条件があります。今からいう事を、よく聞いて下さいませ!」
……はい。ハールは頷いた。メリンダはなおもしつこくハールの視線を捕まえている。
「……アルタイルに入る前に、隼を飛ばして下さいませ」そう言った。「お嬢様の隼ですわ。あれは今、城下におります」
なん、ですって?ハールは途端に目を剥いた。アリエスが思わずといった様子で口を出す。「どういうこと、メリンダ?」
「城下におりますのよ」重ねて言い、初めてニヤリとした。普段上品なメリンダには珍しい表情だ。「こういうこともあろうかと――預けておきましたの。アルタイル城下の仕立て屋に。私の妹の家です」
まだ分からない。だが何かを仕組んでくれたことには違いなく――途端にハールはあっけにとられた。
ロマーニュ川は、荒野を渡った先にあった。険しい渓谷に挟まれた美しく広い川である。
ロマーニュは三日月谷の宝石――とは聞いていたけれど。ハールはぼんやりと、谷の上から川を臨みながらそう思った。緑がかったのどかな川の流れは本当に宝石か何かみたいだ。川は随分下の方にあり、川の入り口に巨像が一つ見えている。どうやら先の王ヒルデガルドが立てた王の像。片手を上げ『ストップ』するように構えている。
「あの先がロマーニュの人魚が住まう場所」レリオットが言った。川まで下るだけで半日かかりそうな距離だ。「気を付けろ。あの像は言わば『結界』のようなもの――人の住む場所と人以外の住む場所を切り分けた、標のようなものだ。あれを越えれば最後、命の保障はない」
途端にハールはぐび、と唾を飲み込んだ。マ、マジで……?傍らでラリマーも小さくなっている。尻尾を股に挟んでおり、野生のカンで分かるのだ。危険だということを。「まあ、しっかりなさいませ!王族ともあろう者が」
メリンダは潔くそう言うと、ズカズカと渓谷を降りる道に向かって歩いていった。待って!慌てて後に続く。相変らず不釣合いなメイド姿で、本当に異様な光景だけれど、当人はそんなことそっちのけだ。レリオットが言った。「道は険しい。手を貸そう」
あら。ハールはきょとんとした。メリンダはえっ?というような顔をしている。馬の手綱を引きながら、メリンダの傍に行くとレリオットは手を出した。「馬に先導させるといい。馬は安全な足場を知っている」
先を行く二人を見て、ハールはふふふ、と笑った。アリエスが後を付いてくる。「彼の言う通りだ」頷くと、こそっと耳打ちした。「女性には険しい道だ。大事ないか?」
ハールはきょとんとした。だがすぐに笑ってしまう。それ、私の台詞なのよね、今は。耳打ちし返す。彼等は急激な石の多い斜面を気を付けながら降りていっている。その後に、ハールとアリエス、しんがりにクザーヌスが後ろを守り、それを目で確認するとハールは訊いた。「ねえ、無事に故郷に戻ったら、ハールは何をするの?」
今度はアリエスがきょとんとする番だった。え?目をまあるくする。「まず、クーデタでしょ。というか政権を取り戻す――そのあとは、どうするの?何か計画はあるの?ハール」
「………」
ハールはじっと黙り込んだ。数日前、賢者もとい魔女と交わした会話を思い出していたのだ。あのあと、アリエスは――「ハール」は、実はある提案をした。あるものを差し出す変わりに、元の体に戻る方法を教えて欲しいと申し出たのだ。(これではあまりにもコノカも気の毒だろう?男の体に入って、望まぬ未来を歩ませるのは避けたい)
だが、その代わりに彼が失うものとは、とんだものだったのだ。魔女が求める報酬とはけして金品だけとは限らない。時として、物ではないものも求められる。それは、いわゆる、目には見えないものだったり、もしくは普通は決して他者が手にすることの出来ないもの――その人の『人生』の一部だったりするもので…
「……本当に良かったの?」ハールは声を落として耳打ちした。アリエスは黙って馬に先導させている。馬の歩く足場を歩き、そうして後に続くコノカに道を示してくれているのだ。道は狭く非常に険しい。迂闊に足を滑らせれば、何百メートル下にまっさかさまということだって大いに有り得るのだ――
「――君は優しいな」ふと、アリエスは思い出したように囁いた。え?目を上げたハールにニコリと笑う。「心配してくれるのか。他人である、この俺を」
途端にハールは顎を引っ込めた。他人、という所に引っ掛かってしまう。そ、そりゃあ――前を見て、メリンダの耳がないことを確認すると、思った。確かに赤の他人だけど?
でも、今はもう「他人」とは呼べないんじゃない?ハールは思った。同じ苦労とトラブルを経験して、同じ目的に向かって。それはつまり、不可抗力であったにせよ、今はもう立派な運命共同体よ――途端にアリエスがははっ!と吹き出した。上を向いて笑い出す。「はははは!」
途端にハールはギョッとした。アリエスはちょっと目尻を拭いている。読心術――ハールは飛び上がった。まさか魔法を使ったんじゃ!「いや、今のは単なる推察だ」
だが当たりだったようだな。アリエスは、いかにもおかしげに目を細めると男のように失笑した。こんな笑い方するんだ――鼓動が変な鳴り方をする。アリエスは笑うと何度も頷いた。「――そうだな、確かにその通りだ」
「………」
心配するな。アリエスは前を向くと言った。「全てが済めば君は家に送り届ける――父君にも、謝罪をせねば。元の体とは言い難いが、女性の身体を手に入れたら――きっと今よりは生きやすくなるだろう。コノカ」
ハールは口篭った。いや、そういうことじゃないんだけど……唸ってしまう。そうじゃなくて、貴方よ?言おうとした。気になるのは貴方のほうなの。どうするのよ?全てが済んだらその後は……
『ロイヤルギルティ』の、筋書きが済んでしまった、その後の貴方は――…
そのとき遠くで水面が逆立った。緑色の川の流れが白く輝く。だが、それは急激に突然真っ白になるように広範囲に小波立ち始め、
「――あれは…」
アリエスが、足を止めた。少し下でレリオットもメリンダと一緒にそれを見ている。ややあって後ろから追いついてきたクザーヌスが杖をつま先に突き言った。
「…ロマーニュの人魚の群れです」
それはまるで大魚の群れみたいに。巨大な魚の大群が、滅茶苦茶に身をうねらせながら水面を覆い尽くしているみたいに――
「……用心せねばな」
アリエスが呟く。その横で、クザーヌスと歩いてきたラリマーがクーン…と心細げに小さく鳴いた。
9
川辺に辿り着くまで、思った通りたっぷり半日かかった。巨大な王の像の佇む石だらけの河川敷で野営を開始する。メリンダは流石にバテており、足が痛くて動けないらしい。はしたないと普段なら恥じらって死んでもしないだろうが、今は裸足になり冷たい石に足を乗せている。
「大丈夫?メリンダ…」
ハールは訊いた。レリオットが治癒してやっている。アリエスは焚き火の用意を整えており、ハールは持ってきた鍋釜相手に料理担当だ。「えーっと、今日は……何にしようかな。とりあえず適当に酢の物を入れて…」
魔術書はもはやハールの料理用になっている。疲れてるときはこれと、これと……せっせと料理するハールを見てメリンダは素朴に驚いた。「凄い、魔法で調理なんて?流石はアルタイル一の魔力ですわね!」
とも言えないんだけど…ハールは思わず失笑した。この世界では有り得ない中華を大量に作り上げる。「何だ、コレは…」相変らずレリオットは不審がっており、アリエスは素直に感心してくれた。「凄いな、じゃなかった。凄いわねハール!これ全部貴方の国の料理?」
あ――…まあね。ハールは笑って誤魔化した。「これお米ですの?」メリンダは目をちまちまさせている。チャーハン相手に興味津々の顔をしており、「まあ!こんな料理の仕方があるなんて!珍しい――」
ラリマーはガフガフ言いながら料理を平らげている。クザーヌスは、相変らず食欲がない。もとより病を患っているから仕方がないけど――「食べられますか?おかゆでも?」
いや、いい……クザーヌスは小さく笑って遮った。アリエスは酷く心配している。何やら解けない呪いらしいけれど……間に合わせの治癒に詠唱をしている。申し訳有りません、師……アリエスは小声で囁いた。こんな所まで……
「どうか、お気に召されるな」クザーヌスは力なく微笑んだ。「元より先の無い身です…」
メリンダを辛うじて平らな場所で寝かせると、ハールは馬に水飼った。川辺で水を飲ませてやる。馬はさっきから酷く落ち着きがない。どうやら近くに不穏な動きがあるのを察しているらしく、酷く怯えて動揺している。「アリエス…」
「川はどうやって下るの?」ハールは訊ねた。少し先に、王の巨像の足が見えており、その下に小さなボートが一つ打ち上がっている。「あれを使って」アリエスは指さした。「川の中腹まで下る。そこから先が彼等の本拠地だ」
彼等とは、例の人食い人魚のことだ。ハールはゾッとした。ていうか人魚が人を食うってどんなの――身震いしてしまう。「や、やっぱり、メリンダだけでも逃がせない?二手に分かれてレリオットと行動させて、遠回りしてどこかで合流するとか」
「無理だ」アリエスは首を振った。「どの道荒野がある」首を巡らせ渓谷の上を指す。「あそこを二人では渡れない――こちらもだ。三人ならば確実に死ぬ」
途端にハールはブッ飛んだ。し、し、身震いする。死ぬって!!
「死ぬ」アリエスは険しい顔で繰り返した。「ロマーニュの人魚は獰猛だ――舟の四方から人を襲う。俺とレリオット、クザーヌス師で君たちを囲み乗船する。馬は夜明けと共に逃がしてやらねば。そこから先は、賭けでしかない」
「賭けって!!」
「人魚相手にどれだけ話が通じるか分からん」アリエスは顎を引き気難しげに思案した。「果たして彼等の長が出てくるかも…俺に出来ることは、川の中腹の隠し通路がある場所に辿り着くまで、君たち二人を守ることだ。それまでに話が付けば良いが」
「アルタイルの人間には手を出さないって!!」
言ってしまってから、ハールは声を引っ込めた。少し先でメリンダがこちらに背を向け眠っている。ラリマーが、一緒に身を寄せ暖めているのだ。レリオットはその横で具合の悪そうなクザーヌスの世話をしており――ハールは視線を戻した。「王家には絶対だって!ハール!」
アリエスは頷いた。「ああ」目を据える。「言い伝えにはそうある。だが――」そう言い上を向くと、星を仰ぐような仕草をした。「先の王が、彼等を静めてから二百年、一度たりとてアルタイルの王族がこの地を訪れたことはないのだから?」
は……ハールはフリーズした。口が四角形になってしまったような気がする。それは、それってつまり――
「……一切の保証はないってこと?」
答えはイエス。沈黙が肯定する。途端にハールは今度こそ意識が頭のてっぺんから引き抜かれ(脱魂、だ)どこかに行くんじゃないか、と思った。
翌日――
昼過ぎになって、アリエスはようやく仕度を開始した。問題の王の巨像の足元に打ち上げられたボートを引っ張り出す。「やはりな」呟くと、手早く印を結び詠唱を始めた。「壊れてるの?ソレ」
「何年も前に打ち捨てられたものだからな…」アリエスは呟いた。レリオットは馬の世話に回っている。馬と守護契約を結び、安全な道を辿って街に戻るよう指示しているのだ。本当に凄い所、遠目で見ながらハールは思った。生き物と『契約』出来るだなんて…
「初歩の初歩ですわよ」とメリンダに呆れられる。これからとんでもなく危険な場所に赴くというのに平気の顔だ。人喰い人魚……ハールはごくんと唾を飲み込んだ。どんなのかしら?ワンチャン、せめて可愛いのを期待したいけど……
ゾンビみたいなやつだったら死ぬわよあたし。ハールは腕を抱え呟いた。「まあしっかりなさいませ!」メリンダがプンスカしている。「仮にもアルタイルの次期王ともなられるお方が――」
途端にハールは顎を引っ込めた。それなのだ。アリエスはまだこちらに背を向けている。聞こえない様子でボートを修理しており、そこにレリオットが戻ってきた。「行ったぞ。馬は私の主の館に向かった」
こいつは連れて行くのか?レリオットはラリマーの頭をポンと撫でた。どういう訳か、ラリマーはレリオットには敵意なく接している。バフ、ラリマーが返事し、「行くって」ハールは首を竦めた。「あたしは危険だから馬と一緒に帰したかったんだけど…」
「その方が危険でもありはするが」レリオットは顔を顰めた。何分、ここまで通ってきた荒野は敵だらけだ?動物なのでまだ襲われるリスクは少ないが、それにしたって何が起きるかは判らない――「馬の足で三日三晩駆けねば切り抜けられない場所だぞ。犬の足では到底抜けれん」
大人しくしててよラリマー…ハールははあ、と溜息をついた。首に抱きつきよしよししてやる。「いい?絶対にメリンダの傍から離れないで…レリオット人魚って犬も襲うの?」
「分からん」レリオットはそっけなく言い捨てると腰の剣を抜き確認した。「一切不明だ。泣き言は止せ、次期統首?」
だから…!ハールは言おうとした。だがそのときアリエスが声を掛ける。「仕度が出来たわ」お嬢様顔でポン、と手を叩き笑う。「さあ、川を下るわよ、皆」
最初にメリンダとアリエス、ラリマーが乗り込む。三人(正式には二人と一匹だけど)を間に挟む格好で、回りに三角を描く形でハール、レリオット、クザーヌス。「ひぃぃいい」ハールはガクガクした。か、勘弁して勘弁して勘弁してよ……
川は穏やかな流れから始まった。ゆっくりと、まずは広い川の中央に漕ぎ出る。レリオットが早くも剣を抜いており、クザーヌスはいつでも魔法を放てる状態で警戒を。ハールは、最悪なことに先頭で(真っ先に死ぬパターンじゃない!)どうせ使えないのでオール漕ぎ係。お願い出ないで~~…
川は緩やかな弧を描いている。弧の中腹が(一番湾曲したところだ)問題の『抜け道』の入り口。そして、件の人喰い人魚はその手前にわんさか居る模様。昨日水面がさざめき立っていた場所がその辺りだ。「いやぁああ……!」
しゃんとなさいませ!メリンダが憤然とした。「女が二人も居るんですのよ?殿方がそのようなのでどうするのです!」「無茶言わないで!」
「それに何故我々を中央に?」メリンダはなおも重ねて言った。「本来逆では有りません?人魚は女を喰らいはしません!」
その言葉に、ハールは「は」と言った。アリエスが目を上げる。何だと?言ってしまってから慌てて言いなおし「そうなの?メリンダ」
「ええ」メリンダは不服極まりないというような顔で頷くと続けた。「人魚が喰らうのは男だけ。女は、けして傷付けはしないのです。だからこんなボートが有るのじゃありませんの!誰もが食われるならこんな所誰も寄り付かないはず――」
そのときしゅっと水面が切り立った気がした。「え?」
「岩だ」レリオットが取り合いもせず言う。「前を見ろ。じき急流に――」
その瞬間、ハールはギクリとした。周りを白い渦のようなものが囲んでいる。
それは、まるで鮫のように。ハールはオールを両手にフリーズした。水面を白い何かが切り裂いている。細いひれみたいなものが微かに見え――それはやがてとりどりの色を見せ始めた。水色、濃い緑、緑がかった青。
それらは小船の周りを回っている。二メートルほど距離を開けきりきりと。シュッ、シュッ!水の切れる音が立ち近付いてきた。ラリマーが威嚇して牙を剥く。で――出た!
次の瞬間、何がが突然ハールの真横に顔を出した。それは明らかに異形のもの――頭は子どもほどの大きさしかなく、顔がまっ平らにのめされたような生き物だ。塗りつぶしたような黒い目と削がれたような低く小さい鼻、そして、魚のような口。「きゃああああああ!!」
ぎゃ―――――っ!!ハールは叫んだ。刹那、それが飛び上がる。まるきり喉元目掛けて――ウツボみたいな牙を剥き出しにして。「ハール!!」
言うなりそれの横顔に何かが直撃した。火の玉だ。アリエスが魔法を繰り出したのだ。横っ面を張り飛ばされたみたいにそれが投げ出される。いやぁああっ!!ハールは叫んだ。「あ――――!!」
出た――――!!言うなり周り中から何かが飛び交い始めた。人魚の群れだ。怒り狂って飛び跳ねているのだ。大きさは小さめの老婆みたいだけど、見た目は本当に異形。「誰か―――!!」
ビッターン!這い上がって来ようとした人魚の顔をオールでぶっ叩きハールは叫んだ。レリオットが剣を振り上げる。キャァッと猿みたいな鳴き声がして、血が飛び散った。赤い血だ。もう沢山よ!!
クザーヌスが杖で薙ぎ払っている。川はじき湾曲する手前に差し掛かっており、ああもう!ハールは思った。嘘つき!!どこがアルタイルの王家には従うよ!!「レリオット!」
その瞬間、何かが腕に噛み付いた。肉ごと毟り千切るみたいな勢いだ。声も上げられず、あっと言う間にハールはバランスを崩した。アリエスの驚いたような顔が視界を霞め、水が迫る。「ハール!」
音を立てハールは真っ逆さまに水に転落した。ゴボッ、空気が一気に絞り取られるみたいに。い――痛い!離して!思った瞬間、血が見えた。大量の血。ハールのものだ。
誰かが手を引いた。人魚――気が遠くなる。食われる、嫌だ、ハールは思った。ああ、こんな所でこんな死に方?一度は鉄材の下敷きになって、命を拾ったと思ったら好きな人になっていて、それで最後は食い荒らされる?冗談じゃない、誰か!!
拳を繰り出す。襲い掛かってくる人魚に。その瞬間、人魚の顔に拳が当たり――誰かがハールの背中のマントを掴んだ。
(あ、ああ、もう駄目――)
息が切れる。そのとき、ふいに口に空気が流れ込み、水が唐突に穏やかになった。
ああ、死んだわ。私死んじゃった――
引っ張られる。力任せに。頭の上に水面が見えており(随分遠く感じるのは気のせいだろうか)そのとき誰かが下から身体を押し上げた。
捕まれる。二の腕がもげそうなくらいの勢いで。「――ハール!!」
ザバァッ、と音がした。無茶苦茶な力で小舟に押し上げられる。ハール様!ハール様!!誰かが叫んでおり、クザーヌスが傍らに来て何かを囁いた。詠唱している。「ああ、お嬢様!」
ビチャビチャ音が聞こえている。随分遠い世界で。刹那、心臓が跳ね上がりハールは盛大に咳き込んだ。「ハール様!」
音が戻ってくる。酷い耳鳴りを伴って。脚や腕が生温く――(熱いくらいだ)そのとき初めてハールはそれが血だと気が付いた。深く噛み千切られているのだ。「ハール!」
誰かが水浸しでこちらを覗き込んでくる。アリエス、半分遠のきかけている意識でハールはそれを見た。いや――
彼女じゃない。ハールだ。他でもない、ハール自身。
動くな、レリオットが言った。直ぐに止血を――ラリマーが鳴いている。すぐ側で、声を限りに。そのとき何かで強く腕を縛られ、完全にぼやけた視界の中で――ハールは、いや、コノカは、船の舳先にあの『人魚』が一匹、身を乗り出すようにしてこちらを覗いているのを見た。
10
焚き火の音が聞こえてくる。すぐ傍で誰かが火を焚いているみたいに……
何かがハールの脇に身を寄せている。ムクムクの、大きくて暖かいもの。生乾きで酷い有様だが、暖を取るには丁度いい――
「……ハール」ペタリと頬に触れられて、ハールは目を動かした。何だか遭難でもしたみたいだ。誰かが周囲を歩き回っている。せっせと何やら仕事をしており――別の場所では誰かが話している。聞いたこともない言葉、発音。何だか蛇の威嚇音みたいな…
「…コノカ」誰かが耳に口を近付け、もう一度言った。その声に目が覚める。急激に正気付いたみたいに?冷たいものがポツリと鼻に当たり、ハールは目を開けた。アリエスだ、ずぶ濡れでこちらを覗き込んでいる。
「コノカ…!」
その瞬間、ハールは身を動かした。途端にあっと声の出るような痛みが走る。「動くな」アリエスが急いで制した。「治癒したばかりだ。痛覚がまだ消えていない――」
だがハールは構わずもがいた。もがかずにはいられなかったのだ。いった、い!顔を顰めて喚いてしまう。もう、何なの……!言うなり何かが飛びついてきた。『バウ!』ラリマーだ。「ハール様…!」
ご無事ですか!メリンダが、駆けつけてきてそう言った。何やら河原に寝かされている。すぐ傍に焚き火が焚かれており、ボートが打ち上げられていた。「ここ……」
河原のギリギリに、何かが無数に顔を覗かせている。何だか耳には魚のようなヒレがあるし、ストッキングを被って思いっきり引っ張られたみたいな平たい顔の羅列――認めた瞬間、ハールは叫んだ。「ぎゃあ!!レリオット!」
途端にレリオットがパッと手を上げて制した。まるで黙れ、と言うみたいに。よく見るとレリオットは魔法を紡いでいる。それも治癒魔法。白と銀の入り混じる穏やかな螺旋を描くのですぐ分かる――人魚の千切れかけの背びれを癒しているのだ。「……え…」
奥ではクザーヌスが何かを話している。ひときわ大きな(と言っても、大人の身長くらいしかないけれど)人魚が水面に顔を覗かせており、それに何かを見せて話しているのだ。クザーヌスの手には指輪が持たれていた。それは、他でもない王家の印章だ――
「……ハール殿」クザーヌスが、こちらに気付くと笑顔になった。「皆分かってくれましたぞ。貴殿がアルタイルの子息であることを」
「………」ハールはあんぐりした。すぐそこにどう見ても「人面魚」みたいな人魚が顔を覗かせている。陸には上がれないらしく、水の中でピタピタ尾びれを動かしており、瞼の無い目でこちらを見ているのだ。「……マジで?」
「こちらはこの川の主、エリアネーデ」クザーヌスはまるで淑女にでもするみたいに、相手の手を取ると促した。こうなると、こっちも挨拶しなければならないのは必然だ。どうにも怖いし正直気味が悪いけど……「……どうも」ハールは言った。「エ、エリアネーデ、さん?」
「気付かず襲撃してしまったことをお詫びしたいと」クザーヌスは言い足した。インタリオをこちらに渡し笑顔になる。「水に落ちて僥倖でしたな。貴殿の指にこれを認めて、王の再訪に気付くことが出来たと。どうか非礼をお許し願いたいそうで」
そ――そんな!ハールは慌てた。急いで起き上がり立とうとする。まだフラついてはいるけれど、立てないレベルじゃない。アリエスが肩を貸してくれる。「そんなの、許して貰わなきゃならないのはこっちもよ、いきなり住処に入っちゃって」
すると相手は目をしばたいたような顔をした。――の、ように見えた。耳のヒレをひたひたと動かしながらクザーヌスの方を見る。クザーヌスが頷き、ははと笑った。「なるほど奇特な御方だ。初見で見抜けぬ理由が分かったと」
見抜く、って?ハールはきょとんとした。例の『人魚』はハールとアリエスを交互に見比べている。またクザーヌスの方を向くと、何やら話しており(ええ、そうです。いささか事情がありましてな……)
「――王子」クザーヌスが顔を上げ言った。「事情があるとは言え、貴殿に深手を負わせたのは契約に叛く行いであると。そう申しております。何か償いをしたいのだが、と言っておりますが…」
え、ええ…?ハールはうっかりうろたえてしまった。そんなの気にしなくても?だが相手はじっとこちらを見つめている。まるで、言って貰わないことには示しがつかないみたいな顔をしており、ハールは呻いた。そんな急に言われても……
「――なら、こうすれば良いわ」アリエスが口を挟んだ。「味方が増えるのは有り難い――孤立無援の私たちにとっては願ってもない話よ。クザーヌス、私たちはこれから『抜け道』を通って王都に向かいます。もし援けが要れば、そのとき彼女に知らせをやるのは――」
クザーヌスは再び跪き『彼女』の方に何かを喋った。今度は相手は頷いている。凄い、クザーヌスさん、何でも出来るのね?思ったところでアリエスが笑った。「そうじゃない、あれはロマーニュ語だ。この地に生まれたものなら誰でも分かる」
そうなの?ハールはきょとんとした。と、アリエスが進み出る。男みたいに跪き「それ」と視線を合わせると、小声で言った。
(私はアルタイルの息子、ハール。訳あってこのような姿になっているが、紛れなき先王の遺志を継ぐ魂だ。貴殿の心遣いに感謝する。いつの日が援けが必要な時は、どうか力をお借りしたい――)
わお、ハールは目をしばたいた。凄い、ハールも喋れるんだ?ふんふんと頷く。というかハールの体だから私にも分かるのね。流石はアルタイルの――
次期、統首のはずの人。
「ボートは破損しております」クザーヌスが首を捩ってこちらを見た。「明日の朝、潮が満ちれば我々が担いで件の『抜け道』までご案内しましょうと――」
アリエスは頷いた。ふとこちらを振り向き微笑する。
レリオットはせっせと傷ついた人魚たちの世話をしている。メリンダも、膝まで水に浸かってその手伝いだ。遠目に眺めながら、アリエスは呟いた。ふと零すみたいに。「…有り難いものだな」
え?ハールはきょとんとした。何が?有り難いって…
「……こうして誰かの好意を得られるのは…」
ハールは目を丸くした。ハールはじっと二人の様子を眺めている。仏頂面で鉄面皮で、不気味とまで誹られたハール黒太子。だが今横で笑っているのは、紛れもない穏やかな微笑を浮かべる人物だ。ちらとこちらを見ると、笑った。
「君の人徳だ、コノカ」
へっ?ハールは目を剥いた。違うでしょ、それ。思わず言ってしまう。それを言うならハールの人徳よ――皆貴方のためにこうして集まってるんだもの?
アリエスが腕まくりして行ってしまう。二人を手伝いに向かったのだ。他に言えることもなく――ハールは黙って目をしばたくとその背を見送った。
翌日――
日の出と同時に、ハールは叩き起こされた。レリオットが腰を蹴っ飛ばす。いった、い!呻きながら起きたハールはとっくに皆が仕度を整えていたことを知った。「早くしろ、黒太子」
こ――の!ハールは目を吊り上げた。女性なのよ、うっかり口走りそうになる。なんて真似を?メリンダが食事を作っており差し出してくる。「どうぞ、ハール様」眉を下げながら訊いてきた。「お怪我はどうです?痛みのほうは――」
何だか、風邪を引いた後みたい。ハールは答えた。あちこちピリピリする。(深手の場合、痛覚は残るからな…)アリエスが囁いた。(暫く大事に、コノカ…)
深手って。ハールは思いゾッとした。川から例の人魚みたいなものが覗いている。顔を見せており、やっぱりどこか不気味な姿。ウツボみたいに鋭い歯が見えていて――
と、とにかく。ハールは咳払いした。仲間になった限りは偏見は不要だ。「よ、宜しくお願いします、エリアネーデさん…」
昨日のボートに乗り込み移動する。今日は櫓もなく漕ぎ手も無いのにすんなり川を下れるのは彼等のお陰だ。「人魚」たちが船を担ぎ上げ川を移動して目的地まで率いてくれる。三日月型に湾曲した川の中腹に祠のような場所が見えており――彼等はそこに向かっていった。「あれが……」
切り立った崖状の岸壁の中腹に、えぐれた空間みたいなものが出来ている。中は当然真っ暗で、彼等はそこに船を押していった。何だか遊園地のアトラクションみたいな。「や、やだちょっと…」
祠の入り口は船着き場のような形になっており、そこだけいやに人工的だ。船を寄せると、彼等はやがて船から離れた。船着き場みたいな場所に降りる。湿気ているし、真っ暗だし…アリエスが詠唱し明かりを紡いだ。
「あ……」
ハールは目を剥いた。そこは確かに『入り口』だった。岩に黒塗りの大きな扉が嵌っている。精巧な彫刻が施されており、ハールは言った。「これが、あの――」
「王家の『抜け道』?」聞いてやる。まあ、メリンダが途端に呆れたように言った。「ご自身のことじゃありませんの!仮にも王族が――」「ご、ごめんメリンダ…」
おずおずと、指輪を引き抜く。扉の真ん中に小さな穴が開いており、あれが『鍵穴』だ。開かなかったらどうしよう――怯えながら、おっかなびっくり指輪を押し込むと、案に反して扉はガコン!と音を立てた。指輪が穴からポロリと手元に戻ってくる。「わ!」
水がさざめき立ち始めた。中から風が流れてくる。クザーヌスが囁いた。「太子よ、どうかお気を付け下さい。ここから先は迷宮ですぞ――」
「は!?」途端にハールはブッ飛んだ。
ギィイ、音がして扉が開く。途端に何百年と閉じ込められた、遥か昔の古い古い空気が、時間と共に流れ出てきた。まるでピラミッドの盗掘か何かみたいに。太古の空気が確かにそこに――
さざめくように、『人魚』が歌いだした。何を言っているかは分からない、だが、それは古い童謡みたいだ。アリエスが振り向き会釈した。それはまごうかたなき王家の姿。女の見た目でありながら、確かな太子の佇まい。
「感謝する。ロマーニュの主よ、どうか安寧に――」
扉の奥に、暗い道が続いている。は、入んの?ここに…言おうとしたハールの背を促しアリエスは入っていった。
「………」
ゴォン、背中で扉が閉まる。何だか一方通行みたいに――そのときレリオットがすらりと剣を引き抜いた。
「行くぞ、後戻りはきかん」
は?ハールは言った。クザーヌスが魔法を紡いでいる。しかも緑の光の攻撃魔法。え、待って?思った瞬間――ハールはようやく、そこに大量の――しかも特大の、巨大な虫のようなものが潜んでいることに気が付いた。
11
人間誰しも苦手なものがある――
それを見ながら、ハールは心底からそう思った。正確には全身総毛立ちながらだ。広い洞窟のような、祠のようにも見える通路に無数の影が潜んでいる。しかも、それにはどう見ても虫の触角みたいなものが見えており――
ぎゃ―――――っ!!ハールは叫んだ。メリンダも一緒になって悲鳴を上げる。いやぁあ――――!!!しがみ付き合い、ハールはそれに気が付いた。最悪だ、しかも彼女の苦手なカミキリムシそっくり!!
「ぎゃあああああっ!!!」ハールは叫んだ。途端にぶわっ、と羽音のような音が起こる。殿下!クザーヌスが叫び即座に手を振った。ボッ、音がして足元に正円が描かれる。「きゃあああああっ!!」
軽い音がしてレリオットが踏み込んだ。一閃、剣が閃き何かが落ちてくる。それは最も見たくないものの一つ、真っ二つになった人間よりも大きい巨大な昆虫の死骸。しかも何故かまだ動いていたりする。ハールは騒いだ。「いやああああっ!!」
パニックとはこのことだ。何とかして下さいませハール様ぁあ!!メリンダも悲鳴を上げる。女性は概して虫が苦手なもので、アリエスは平気の平左だ。素早く印を切り宙に手で弧を描く。刹那、ボッと赤い炎の渦が上がり、「レリオット!」
援護だ――ハールは思った。凄い、流石息ピッタリ!目を見開いてしまう。クザーヌスはハールたちを守っており、だがそのときぶぅん、と(更に聞きたくない音の一つだ。飛来する虫の羽音!)何とこっち目掛けて巨大な虫が――
『ぎゃああああっ!!』
その瞬間、ハールは手を前に出した。反射的に何かをする。来ないで―――!!!言うや否や、ハールの体から――いや体全体から、ドッと蜃気楼のようなものが飛び出した。厳密には蜃気楼のように見える煙みたいな靄。「王子!」
その瞬間、それは宙を舞い始めた。何だか幽霊みたいに。無茶苦茶に回転しながらいびつにカーブを描くようにして宙を舞う。それは虫に向かって飛んでゆき、幽霊みたいに通り抜け――途端に虫が消え失せた。正確には、一瞬で灰になったのだ。「ハール様!?」
ヒュン!ヒュヒュン!それは次々ハールの体から飛び出し始める。無茶苦茶に空を舞い次々虫に衝突し――すり抜ける瞬間灰になる。あっと言う間に辺り一帯に灰が舞い、クザーヌスが口を開けた。「あれは――」
ハールは目を剥いた。それは、どう見ても古風な衣装を着た亡霊たちだ。次々に彼等は虫を退けていく。「走れ!」レリオットが怒鳴りハールは駆け出した。メリンダの手を引いて。あれは――あれは、
「精霊だ!」レリオットが叫んだ。「神格化したアルタイル家の魂だ……!」
全力疾走して巨大カミキリムシの巣窟を抜ける。ようやく切り抜けて、別の通路のような空間に飛び込んだハールは、息を切らしながら思った。め……めっちゃ便利……!
「ほ――」メリンダが言った。ゼエゼエ息を切らせている。後ろにアリエス、その後ろにレリオット、クザーヌスがおり、逃げ脚だけは韋駄天並みに速いのだ。ハールにどうにか追い付き息切れしている。「本当に王族だったんですね、ハール様……」
ま…ハールはモゴモゴした。まーね……振り向き、さっきのお化けが居ないことを確認する。ちょっと残念、ちょっと安心。どうにかひと心地つき息を整える。「ど…どうすんの?ハール…」
え?メリンダが言う。慌ててハールは言い直した。「間違えたアリエス。どうすんの?この次は……」
途端にアリエスが足を止めた。クザーヌスが、暗闇の中例の地図を取り出してくる。あの魔法で仕掛けられた抜け道の地図。指で追っており「ええと……」
こんなとき、危機感を抱かずにいられるのは、相手に絶対的な信頼を置いているからだ。ハールは待っていた。クザーヌスは黙っている。地図は確かに薄く光っている。問題の、抜け道をはっきりと古い羊皮紙に示しており、
だが――
随分経ってからレリオットが言った。「クザーヌス殿、ここは何処です?」アリエスが一緒に地図を覗き込んでいる。「さあ……」
「さあって」ハールは呆れた。やだ、二人揃って実は方向音痴?地図を覗いてやる。「見せてみて、えっと……」
そこで、気が付いた。地図は無数に枝分かれした道が記されている。が、問題は、自分たちが今何処に居るかが判らないということで……
へ…?ハールは言った。ひゅう、と妙な風が吹き抜ける。完全に忘れていたが(ごめん…)バウ、とラリマーが小さな声を上げた。濡れた鼻をハールに押し付けてくる。
「………」
現在地が判らない、ということは……
しかもこの地図には何の特徴もない。メリンダがフリーズする。つまり、これはいわゆる……
迷子?気付いてしまう。途端に今度こそ、ハールは何とも言えない風が周囲を吹き抜けたのを感じた。
方向音痴とは、何故か伝染するものだ。
それから数時間後、ハールは地図を手に彷徨っていた。さっきから同じ場所を回っている気がする。グルグルグルグル……後ろを歩くレリオットもうんざりしてしまっており、
「い――いい加減に!」と怒鳴った。クザーヌスはすっかりバテて座り込んでいる。「まだか、出口は…!」
それどころか来た道さえ不明よ。ハールは黙って相手を睨み思った。完全に迷った、というか、遭難した。この、変てこな洞窟とも鍾乳洞も言える空間は正に迷宮なのだ。何だかまるで巨大なアトラクションみたいに――
すぐそこに大きな湖のようなものが見えている。地底湖だ。薄暗く、それでも昔誰かが住んでいた事がそこかしこに覗える。変に個室みたいになった空間に看板の下がっていた跡が残っていたり、壊れたかまどのようなものが有ったり。「何か…」
町でも昔有ったみたい?周囲を見回しながらハールは呟いた。メリンダは目をちまちまさせている。アリエスは、そろそろ休もう……と身を休める場所を探している。さっきの巨大な虫はこの辺りには居ないようだが(居たら死ぬ。止めて)、念のため結界を張るつもりでいるのだ。「コノ……ハール、手伝って。そろそろ休みましょう。クザーヌス、火を用意して――」
そのときハールは気が付いた。一人居ない。さっきから、変に静かな気はしてたけど。「ラリマー?」
え、えっ?メリンダがぎょっとした。慌てて周囲を見回す。だが、返事は無く、途端にハールは飛び上がった。「やだ嘘、ラリマー!」
声がわぁん、と響き渡る。洞窟のような空間に四方八方に向かって。ラリマー、ラリマー、ラリマー…何だかやまびこみたいでハールは叫んだ。『ちょっとぉおお!!』
う――るさい!落ち着け!レリオットが怒鳴った。急いで走りだそうとするハールを引き止める。「騒ぐな!仮にも犬だ、鼻が利く、すぐに戻って来るに決まって――」
「………」
絶句してしまう。ま、まあハール様……疲労のせいかメリンダにもおざなりに宥められてしまい、ハールは萎れた。
心ここにあらずで食事を済ませ、寝支度を整える。メリンダは流石にもう体力が限界だ。堅い岩みたいな地面なのに熟睡してしまっている。レリオットも剣を抱いたまま項垂れており、病弱だが体力底なしのクザーヌスだけがうたた寝しながら周囲を確認している。ハールはそっと床を抜け出した。
「……」
少し前、ここに来るとき通りがかった幾つかの町で買い物をしたことがある。荷物をまさぐるとハールは袋を取り出した。中身は段違いに染められた綺麗な糸だ。計十本ほど。絹糸で、余りに綺麗だから買っちゃったんだけど……
それを取り出し周囲を確認する。見回すと、足元に小ぶりな岩が転がっており、ハールはそれを拾うと糸をクルクルと巻きつけた。剣を取り立ち上がる。
この付近は、完全に迷宮状態だ。ハールは上を見て息を吐いた。巨大な空洞は真っ暗闇だし、何だか抜け道というよりも太古の洞窟みたいにも見える。一人で迷えば死亡確定。だが――
これならば迷うことはあるまい?ハールはそっと拳を固めた。糸まきの糸を片手に歩き出す。こうすれば、糸が来た道を示してくれる。この糸が切れるまでは、歩ける範囲――こんな所にラリマーを置いてはいけない。「ラ、ラリマー?」
辛うじて覚えた魔法で炎を出し辺りを照らす。ラリマーってば……歩き出した途端、肩を捕まれた。「!!?」
アリエスだった。目を見開き、何をしている、というような顔をしている。ハールは慌てた。「や、やだハール?何してんの?」
「君こそ何を…」言ってから、手の中にある干し肉を見て溜息をつく。「…ラリマーか」呟くと、諦めたように肩を竦めた。「昼間心配ないと言った筈だが…」
付き合おう。やむを得ないといったようにアリエスが言った。え、えっ?背中を押されてしまう。「さあ行くぞ」何か言う前に言葉を奪われてしまい、ハールはやむなく、さっさと歩き出したアリエスについて歩き出した。
12
一体――
それから数時間後、あっさりハールはバテていた。アリエスは平然としている。どこまで行っても真っ暗闇のがらんどう。ラリマーのラの字も見当たらない。「もう――」
「ラリマーってば!」ハールは叫んだ。あの、バカ犬!ついに毒づいてしまう。こんなところで迷子になるなんて!だがアリエスは何も言わない。それどころか洞窟に興味を示しており「余程深いな…どれだけ有るのか」
「知らないわよ!」ハールはついに地面にへたり込んだ。もうヤだ!疲れたぁ―――!ぺたんと正座を崩してしまう。「喉乾いた!お腹は空くし!もう…!」
アリエスが屈み込む。小休止、ということらしく、ペタンと一緒に腰を下ろすとほっと息を吐いた。「そろそろ戻るか」
「………」
返事がないのを見て呆れたような顔をする。「頑固者め」そう言うと、ふっと笑った。「とうに戻っているかも知れないぞ?」
ワンチャンそれに賭けたいけど……ハールは俯いた。真っ暗闇の中で、クーン…なんて耳を下げて鳴いていたらと思うとゾッとする。それどころか、あの変な虫の餌食になってたり…!「有り得ない」
え、ハールは顔を上げた。アリエスがハールを見て笑っている。何だか心でも読んだみたいに、かぶりを振り言った。「犬は鼻が良い。人より遥かに早く生き物の気配を察する」
だといいけど……膝を抱えてしまう。その前にハールがヒョイと何かを差し出した。「食べるか、気が休まる」
ここに来る前に――ハールは、ふと思った。似たようなことがあった気がする。確か、まだ『コノカ』だった頃、残業続きで文字通りボロボロにされたとき、そんなことをしていたことがあるのだ。何か食べれば気が休まる、そう思って。
人は食べる為に生きるんじゃない――生きるために食べるんだ、そんな言葉があったけど。「コノカ」は思った。あのときは、そんなこと考えられもしなかった。いや、単純極まりないことなのにそれに向き合うことすら出来なかった。向き合えば最後、全てが崩壊する気がして。
今の自分が幸せでないと、ただ「食べるためだけにどうにか生きている」のだと、認めることが出来なかったから。「………」
そんなコノカを元気付けてくれたのが彼だ。コノカは目を上げ、思った。本の中で賢明に生きている青年。親を殺され祖国を追われ、コノカより何十倍も辛い思いをして、それでもおくびにも出さずただ闘っている姿。勧善懲悪だなんて、フィクションの世界でも難しいけど、それでもせめて報われてくれたらと――
再び目が合う。アリエスはまだ何かを差し出してくれており、ハールはようやく受け取った。「……ありがと」
甘い香りがする。木から穫れたばかりのマルメロの実だ。この世界のものはハート型になっており、始めてみたとき可愛さにブッ飛んだんだっけ。齧ろうとしたハールは、ふと気が付いた。「……これ、どうしたの?」
ここに来る前、そんなものが有っただろうか?ハールは思った。アリエスは目をしばたいている。言っている意味が分からなかったらしく、「――ああ」ようやく頷いた。「さっき、ここに来る前に荷物の上に――」
「え?」
「君じゃないのか?」ハールは訊いた。「もしくは、メリンダが…」
その瞬間、ハールはギクンとした。違う、思わず動きを止めてしまう。メリンダは手ぶらだった?彼女は着の身着のままでここに来てしまったし、ああ見えても一応紳士面しているレリオットが荷物を持ってくれたのだから。クザーヌスは両手で武器を使っていたし……
まさか。立ち上がる。それに気付いたのか、アリエスもあっけにとられ、途端にハールは走り出した。
糸を手繰り走り出す。全力疾走だ。無いはずのものが、有った。しかも地底のこの迷宮状態の空間の中で。それはまさか!
アリエスと飛び出す。元来た道をさんざ走り回り、一直線に元の場所へと。途端に、誰かが顔を見て「あっ!」と声を上げた。
「お嬢様!ハール様も…!」
メリンダだ。ついでに荷物もまとめている。な、何で?思った途端、脇から白い毛むくじゃらのものが顔を出し元気良く『ワン!』と鳴いた。
「も――――!!ラリマーったら!心配したじゃないの~~!!」
ハールはラリマーを抱き締め叫んでいた。何故か一同は、盛大に何かをモグモグやっている。熟したマルメロの枝を中心に、手を動かしているのだ。「偉いわ、ラリマー。中々の名犬ですわよ!」
ことの次第としてはこうだ。メリンダは、甘い果実を口に含みながら説明した。ふと音がしたので、目を開けるとラリマーが帰ってきていた。しかも口に何やら大きな枝を咥えて引き摺っており――
マルメロの枝をむしって来たんですの、この子。メリンダはよしよしした。ラリマーは今お座りしている。大きな枝で、しかも実だくさん。まあ賢い、と思ったら――
レリオット様が。「一体何処から持ってきた?と。だって陽の無い場所に木が育つ訳ないじゃありませんの?」
確かにそうだ?ハールは頷いた。マルメロは特に陽当たりの良い場所を好んで育つ。こんな、豊かに実った枝なんて外の世界じゃなきゃ絶対無いもので――
「それで気付いたんです。この子、ひと足先に出口を見付けていたのだと!居なくなったのは道案内をする為だったんですわよ、もう、何て賢い…!」
偉いわ、ラリマー!アリエスが言った。だがその手をすかさずバゥ、と齧られてしまう。「………」メリンダが失笑しており、「相変らずですわね?何故お嬢様だけにこうも牙を剥くのか…」
と――ともあれ、アリエスが咳払いした。「活路は披けた!これで外に出ることが出来る…!」
「クザーヌスさん」ハールは訊いた。「一番近そうな出口は何処になりそう?」
言われてクザーヌスは地図を広げた。例の『王族用夜逃げ地図』だ。道は無数に、出口も沢山ある。例の『ロマーニュ川の入り口』から繋がる道は三つある。一つ、城の裏手にある森の古い遺跡。
二つ、城から西に暫く行ったところにある小さな村の近郊。そして三つ、城の地下通路。
「直近なのは最後の道だったのね…」ハールは唸った。仕方がない、レリオットも顎に手を当て唸っている。「この下に――最初の入り口から左奥に行けば、道が有ったんですわ。さこそ城の真下に繋がっている抜け道が……」
超今更ね……ハールは肩を落とした。仕方がない。諦めて地図を見る。まあ、いきなり殴りかかっても風情が無いし?「風情、って言うのかソレ……」アリエスが呻いており、「何か言った?」ハールは睨むと地図を見た。「ってことは…」
「出口はきっと最初か二番目の道ね」ハールは頷いた。ラリマー、出た場所はどんなとこだったの?聞いてやる。「バゥー、バウワウ、ワワウワウ」いや分かんないわよ、唸るとクザーヌスが答えた。「恐らく二番目でしょう。城の西外れにある村、イストラ付近」
何で?ハールは聞いた。何故です?アリエスも目をしばたく。「これですよ」クザーヌスはさっきのラリマーがむしってきた枝を見るとニッコリした。「マルメロはどのような場所で育ちますか?」
「……そりゃあ」ハールは目をしばたいた。メリンダが代わりに口を開く。「日当たりが良く」ラリマーを見た。「水が豊富で、適度に乾燥した…」
つまり森の中じゃ育ちにくいということだ。あ!ハールは言った。オマケにラリマーは、よく見るとさっきから濡れている。腰から下が湿っており、つまり水が沢山近くに有るということ?
地図を追う。地図には、ロマーニュ川下、旧水道橋の下に道が伸びている。そしてその傍には、確かにイストラの村。「ここだわ!」
そう、そしてそこからは、王都に向かって水道橋が約十キロに渡り伸びている――
「――活路が」ハールは呟いた。ほとんど手探りだった糸がつかめた瞬間みたいに。
「活路が見えてきたわよ…!」
13
それから数時間後、ハールたちは外の世界を前に立っていた。
巨大な石橋の橋脚の根元、そこにぼこんと穴が開いている。外から見ると熊の巣穴みたいな格好をしており、大人が屈んでようやく潜り抜けられるほどの大きさだ。周りには木が生い茂っている。その近くに確かに、枝のむしられたマルメロが一本傾いて立っていた。
真上に有るのは巨大な橋だ。ハールは顔を上げあんぐりした。石造りの階段が伸び、真上に高速道路みたいに伸びた橋を支えている。アルタイル水道橋――ハールはあんぐりした。本の中にちらっと出てきたけど、こんなのなんて……
水の音が聞こえている。見ていると、階段からアリエスが降りてきた。身軽にトントンと降りてくる。メリンダが怯えており後ろからへっぴり腰で続いていた。「お待ち下さい!お嬢様、お気を付けて…!」
水道橋はアルタイルの古代の遺物だ。ハールは思い出した。確か、何代か前まで実用されていた。王都まで豊かな水を運ぶための代物だ。流れはさっきのロマーニュまで続いており、その昔はこれを使って交易もしていたと――今は生憎と岩を積んで封鎖しているが……
「何で?」ハールは訊いた。クザーヌスが低い段差に腰掛けている。「何だって閉鎖しちゃったの?便利なのに――」
「全ての王の御世が、賢明だとは限りませぬ」クザーヌスは、改まったように目を伏せそう言った。「先の王は川の主――人魚たちとも同盟を築いておられた。だが、人によってはあれを嫌悪し恐れる者も居る」
あれとはつまり、人魚のことだ。ハールは思い出した。ウツボみたいな獰猛な歯並び。確かに、パッと見には恐れる人も居るでしょうけど――
「水道橋を下って、人魚が来ることを恐れたのでしょう」クザーヌスは橋を見上げた。「二代前の――ハール殿のお爺様に当たる方が、橋を封鎖されてから、アルタイルは水が乏しいことで有名なのです。日照りの時は度々民の声が」
だがそれをねじ伏せてしまう力くらいはあるということだ。ハールは顎に手を当て考えた。アリエスが黙っている。懸念ではあるが、どうしようもない――というように。ハールは唸った。何でなのよ?
この、頑固者。ハールはアリエスの横顔を見て思った。前に『東の賢者』のもとで誓ったことを思い出す。今更だが――やはり納得がいかない。あのときハールは――いやアリエスは、魔女に叡智を求める代わりに、あるものを対価に差し出したのだ。それは、率直に言ってとんでもないもの。というか『ロイギル』のファンとしては絶対避けたいものなのだが……
(もう一度、入れ替わる方法がある。せめてハールは自分の体に、私は女の体に戻れる方法が。相当危険なものだけど……)
あのとき魔女は、さこそ本物の魔女の顔をして二人にこう告げたのだ。それは悪魔のような宣告。いいかい、よくお聞き。本来ならばあんたは元の体には戻れないよ……
魂を入れ替えるなんざ禁忌も禁忌さ。魔女はそう言った。「だが一つ、一つだけ方法がある。それは実に危険なもの。二人同時に死ぬことさ」
は?ハールはギョッとした。アリエスは黙っている。「………」
「魂が離れると人は死ぬ」魔女は喋った。「それを利用して、移すんだよ。魂を対象の体にね。昔その方法で何百年と生き長らえてきた魔女を見た……肉体が滅びるごとに、餌食となる相手の体に自分の魂を送り込む。そして相手の魂を放り出す――」
待って、ハールは挙手した。いや待って?魔女は律儀に待ってくれる。「死ぬじゃん、そんなことしたら、相手が」「ああそうさ、だから」
「同時に使うんだよその魔法を」魔女は言い切った。「厳密には、同時に――全く同時に発動させ、全く同時のタイミングですれ違い、互いに相手の体に飛び込む。成功すれば、あんたは元の身体だ。だが失敗すれば――」
死ぬ。魔女は言った。「どちらかがね。そういう方法だよ」
そ、んな……ハールは固まった。そんな無茶な?思わず唸ってしまう。それ、空中ブランコで同時にジャンプして宙ですれ違って相手のブランコに同時キャッチするのと同じ原理じゃない?!思ってしまう。いい喩えだね、魔女は笑っており、いやいやいや!ハールは突っ込んだ。「無いでしょ!!何なのその一発芸的方法!!」
だが、ハールは頷いてしまったのだ。あっさりと。「判った。その知恵、お借りしたい。して対価には何を…」
魔女は最も険しいものを求める。そのときハールは、二人の会話を聞いてそれが本当であることを知ったのだった。概して彼等はあるものを求める――それは、今後、最も当人に必要になるものを。もしくはなくてはならないものを。それは魂や、人生の一部、大事なもの――
「……あんたは何をくれるんだい、お兄さん?」
その言葉に、アリエスは一拍置いて答えた。「では、使命を。この件が片付けば――俺は去り、二度と王として国を担わないことを誓おう。王位は弟に譲る」
途端にハールはブッ飛んだ。な、なんですって!?
「どの道未練も無い」ハールは苦笑した。「……父あってのアルタイルだった。忌まわれた『黒太子』についてくる民も無いさ…」「そんな…!!」
そんなこと無いわよ!ハールは騒いだ。だが、魔女はいいだろう!とパッと切り上げてしまう。「楽しい話だ。では、一旦それで受け取ることにするよ。いい取引だ、ささ、これが方法だ――」
……何で。ハールは思った。どうしてよ?アリエスを思わず睨んでしまう。だったらどうするつもりなのよ?折角兄を倒して、弟のユリジェスちゃんを助けたら、父の遺志を継ぐと思ったのに…そんなことになるなんて……
絶対許さないわよ、ハールはメラ、と目を燃やした。途端にアリエスがゾクッと首を竦める。そんなの断固反対!ハッピーエンドがいいの私は!!ハールには幸せになって貰わないと――
アリエスが失笑する。やっぱり、心を読んでいるみたいに。「……お節介だな君は」
そのとき、ふと音がした。カサン、と草を踏むような物音。その瞬間ラリマーがバッと振り向いた。レリオットが目を剥き叫ぶ。
「ハール様!」
その瞬間、ハールは見た。小さな子供が立っている。籠を手にこちらを見て固まっているのだ。その口から声が零れ出た。「何で……?ハ、ハール、黒太子様……」
メリンダが目を見開いた。しまった、とっさに彼女が庇おうとする。違うんですのよ!だがそのとき子供がすうっと息を吸い込むのをハールは見た。次いで出てくる言葉はこれだ。お――お母さああん!!
待って―――――!!その瞬間、ハールは走って思いっきり子供にタックルした。
「ああ!ああそんな!まさか……!!」
イストラは、小さな小さな村だった。村というより村落みたいだが。全家屋集まっても二十ほどしかない。子供を抱き母親は口をわななかせている。
「い、生きておられたなんて!ああ神様……!」
途端にわあっと声が上がった。へあっ、言うなりスポーンと発泡酒のコルクが宙を舞う。え、え、待って?ハールは考えた。どういうこと?これってつまり――
回想としてはこうだ。ハールは思い起こした。大絶叫しようとした子供に全力疾走からのタックルをかましたハールは、もう一人、人が居ることに気が付いた。どうやらその子の母親だ。一緒になって例のマルメロを取りに出ていたのだろう。籠を持って固まっており、
「シ―――ッ!」指を立て、言おうとしていたハールは凍りついた。ああ、レリオットが目を押さえている。やった……仮にも死んだことになっている、しかも失踪中の王子が、こんなとこでノコノコ歩いていたのを見付かったとなっては……「逃げますぞ、王子!」
だが、クザーヌスの声に反して母親はこう言ったのだ。「ハ……ハール黒太子殿……!」
言うなり頭にエプロンを被せられる。ぶはっ、喚こうとしたハールを制して母親は飛びついてきた。「こちらへ!ああ、まさかそんな…!」
で、蹴込まれた。一同揃って酒場の横にある納屋へ。藁山に突っ込み、あー駄目だ、ゲームオーバー…と思いきや、間髪入れずに村長が飛び込んできて、
で、こうなったのだ。緊急祝宴、奇跡の生還おめでとうに。
「ああ!太子様!」村長もとい禿頭の初老の男は言った。がっしとハールの手を掴む。「よもや生きておられたとは!皆嘆いておりました!とうに戦死なされたかと…!」
えっと……ハールは横目でレリオットを見た。護国卿までもご一緒とは!ベタベタレリオットは身体を触られている。(……何とかしなさいよ)(……無茶を言うな)目配せし合い、アリエスが言った。「み、皆さん、ご歓待頂き感謝します。でもこれは一体……」
「ハール様は我々の恩人です!」先ほどの母親が言った。「先の王が亡くなられるまで、定期的にこの辺りを視察に来られて……教会税を搾取する代わりにここに色々と残して下さっていたのです!数を誤魔化し「すまないな」と!」
まあ?メリンダがこちらを見た。う、っ。思わず固まってしまう。そんなことしてたの?だがアリエスは黙っており――
「この小さな村では、王都への税と教会税を支払うのは困難です」母親は目を伏せた。「ろくに子供に食べさせることも出来ない――ハール様は、それを知った上で、傍目には教会に加勢する形で徴税の見回りを行い、その陰で世話をして下さっていたのですよ」
そう言い子供の顔をアリエスに向ける。つやつやした肌。子供特有の血色の良い頬。ハールったら――
フイ、とアリエスが目を背けた。それはどんな顔をすればいいか分からなかったような顔だ。不器用な、愛想を知らないハール。人の謝礼に戸惑うハール。こんなに慕われていたなんて――
「ハール様」別の男が言った。どうやら鍛冶職人のようだ。「王都は今、酷い有様です。新たな王が週に一度は大量虐殺を――」
何で?ハールは目を剥いた。子供がそっと母親にしがみつく。「さ、先の陛下に――」母親が答えた。「与(く)みしていた者は、皆処刑台送りに。先週は十七人が一度に城壁に吊るされました――」
「ここにも王都からの兵の視察が」別の男が顔を顰めた。不安さながらに顔が曇っている。「税を上げ、より締めつけを厳しくすると。許可無く王都から出た者も亡命と見なし即刻吊るすと。ハール様…」
ど――どうか、震える声で皆は言った。怯えている。酷く怯えているのだ。「どうかお助け下さい…!このままでは、我々は――」
「ハール様…!」
視線に迫られる。他に言えることもなく、ハールは言葉を失った。
14
その夜――
厩の床を借りながら、ハールは横になっていた。メリンダはとうに眠っている。仮にも使用人なのに藁束の上で眠ることが出来るのは、相当疲れているからなのだ。レリオットたちも眠っており、ハールはそっと考えた。「……」
横を向き独りごちる。何なの、思わず呟いた。一体何てざまなのよ?兄王になった途端これほどの地獄になるだなんて……
どれほどハールを憎んだのだろう?思ってしまう。ハールの兄、異母兄弟の二人の兄、第一王子オスタリスと第二王子リュジャンは。二人とも、ずっと我こそが先王の後継者だと信じていた。蔑まれ、遠ざけられたハールこそが無用の駒だと。だが実際は全くの真逆だった――
父がハールを遠ざけたのも軽んじたのも全てハールの為。自分たちは騙されその尻馬に乗せられていただけだった。父は最初から、第三王子のハールに全てを継がす気でいたのだ。自分たちはていのいい駒に過ぎなかったと知ったときの恨みは――
ぞっとするほど深いのだろう。ハールはそっと首を竦めた。だからハールを確実に亡きものにするため、追っ手まで差し向けた。恐らく、最初にソマールで彼を捕らえ損なった兵たちも皆殺されているだろう。今頃屋敷もどうなっているやら……
誰かを踏みつけにしなければ、安心出来ないのは何故だろう?ハールは思った。弟を、もしくは赤の他人でも、誰かを苦しめなければ幸せを感じられない人間の心理はどういうものだろう?
それは、紛れもなく――ハールは目を伏せた。弱いからだ。どうしようもなく貧しく、心が餓えているからだ。餓鬼のように常に充たされることのない貪欲さが、そんな卑しさと恐れに拍車をかける。人を常に踏みつけにしていないと、怖くて夜も眠れないのだ。まるで、闇に怯えて常に誰かの腕にしがみ付いている子供みたいに――
そしてその弱さは罪だ。ハールは目を上げた。弱いことは罪じゃない、というけれど、それが悪意に発展したとき罪になる。世の中の全ての悪事や罪は元を正せば弱さから来ているのだから……
だから断たなきゃいけない。次なる犠牲者を生み出さないためにも。そこに悔悛があれば救いになる。だが、残念ながら……
世の中には、力でしか解決出来ない事態も時にはある。悲しいけれど。
「……そう思うか」アリエスが、ぽつりと呟いた。やっぱりだ、ハールは振り向いた。やっぱり――やっぱり読んでいる?どういう仕組みか知らないけれど、少し前から私の心を読んでいる?「怒らないでくれ」
怒るなって!ハールは言おうとした。だが、アリエスは横になったまま素直に目を伏せてしまう。「無理はないが……言ったろう、少しでも波長を合わせておかねば」
例の、あの魔術。ハールは思い出した。魂をとっさに入れ替えるあの魔法。タイミングが合わなければ死ぬ――魔女が、そう言っていたけれど。どちらかが、いやもしくは両方が。
兄たちを倒す前に、戻るべきか。ハールは思い出した。例の魔女の家で散々迷ったのだ。その方が効率が良い――そう訴えるレリオットに、魔女は言った。(止したほうがいいね。半可な覚悟じゃ失敗する)
それに、あたしの見立てじゃ――魔女はそっと目を細めるとハールを見て笑った。(もっと相応しい時がきっと訪れる、そんな気がするよ。魔女の勘がそう告げてる)
様子を見よう。共倒れにならないためにも。ハールは、いやアリエスは――そう言った。そうして今ここに居るのだ。その「タイミング」がいつなのかを待ちながら。
つとアリエスが手を伸ばし、ハールに触れた。髪に付いた藁を取る。「……不思議だな。人の心に触れるのは苦手だが」
そう言い微かに笑う。女性の顔、だがそれは、他でもないハール自身の顔だ。凛々しく精悍な、今後アルタイルを担う王家の顔。「君の心に触れるのは悪くない…」
ハールは目を丸くした。それ、思わず目をしばたいてしまう。それって『ロイギル』でハールがアリエスに言った言葉じゃないの?少なからず心を読む事の出来るハールが、アリエスに言ったこと。アリエスはカンカンだったけど……
「そう?」ハールは笑った。「私の心って、どんなの?真っ黒?それでも意外とド直球?」
「……そうだな」アリエスが笑う。「あえて言うなら……布だ。翻る、真っ白の布――」
占い師みたいに顔の前に手を伸ばす。「――そしてその向こうには、陽が見える。君は眩しい、コノカ」
ハールは目をしばたいた。『ロイギル』じゃこうだった。『強いて言うなら花の香りだ』、と。『丁寧に、摘んで束ねられた花束』。つまり今のは――
ハールの私に対する評価?パッと明るくなる。そうよね?つまり筋書きでもない、アリエスに対してでもない、私自身に対する彼の言葉。
ハールは笑った。悪くないわね、ニッコリする。アリエスは目をぱちぱちしており、再び背を向けた。寝返りを打ち向こうを向いてしまう。
「……もう休め」そう言った。「明日からは正念場になるぞ。覚悟してくれ。コノカ」
「うん」ハールは頷いた。知ってるわ。つまり、物語もいよいよ大詰めになってきているということ――
「おやすみハール」言ってやる。返事はなく、心の中で、もう一度(おやすみなさい)囁くと、ハールは目を閉じた。