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ある日の放課後。ルシンダが生徒会室に行くと、ユージーンが一人で書類の確認作業をしていた。ルシンダが来たことに気づくと、ユージーンは嬉しそうに破顔した。
「ルー、調子はどう? 楽しくやってるかな?」
「うん、魔術の試験もうまくできて褒めてもらえたし、学園では楽しくやってるよ」
「学園では? 家では違うの?」
ルシンダが少しだけ寂しそうな顔をしたのを、ユージーンは見逃さなかった。
「えっと、両親とは会話がないのが普通だからいいんだけど、最近は兄からも避けられてるような気がして……。私が何か気に障ることでもしちゃったのかもしれない……」
「……ルーは何も悪くないと思うよ。このところ授業の課題が多いから、そのせいじゃないかな」
「それならいいんだけど……」
「ほら、元気出して。ルーの笑顔が見たいな」
「うん、ありがとう」
ユージーンがルシンダの頭をよしよしと撫でていると、ちょうどクリスがやって来た。
二人を見るその目は冷ややかだ。
「……何をしているんですか」
「やあクリス。ちょうどよかった、君に頼みたいことがあってね。一緒に来てくれないか」
「──いいでしょう」
「助かるよ。じゃあ、僕らは少し席を外すから、ルーはそのまま仕事をしていてもらえるかな」
「分かりました。いってらっしゃい」
ルシンダに見送られた後、ユージーンは後ろにいるクリスを振り返ることなく、裏庭に向かってすたすたと歩いていく。
「どこまで行くおつもりですか」
「まあ、ここなら誰もいないし話しやすいかな」
ユージーンがやっとクリスの顔を見て言った。穏やかに微笑んでいるが、その目は笑っていない。
「……ルシンダのことですか?」
「話が早くて助かる。最近ルーを避けているそうじゃないか」
「……あなたには関係のないことです。放っておいてください」
「冷たい兄だな。ルーが可哀想だ」
ユージーンがそう言った瞬間、クリスが珍しく声を荒らげた。
「あなたこそ一体何なんですか⁉︎ 幼少期に仲が良かったからといって、ルーだなんて呼び方をして馴れ馴れしすぎます。ルシンダに気でもあるのですか?」
クリスが鋭い目でユージーンを睨みつける。
「前にも言ったように、私もルーの兄のようなものだ。たしかに彼女が僕にとって特別な存在であることは認める。でも、決して恋愛感情ではないよ。そこは信じてほしい」
「……分かりました。でも、あまりルシンダに馴れ馴れしくしないでください」
「なぜ?」
「なぜって……! 無礼を承知で言えば、不愉快だからです」
感情の昂りを抑えるためか、クリスが拳を堅く握る。
そんな彼を煽るかのように、ユージーンがふっと笑いを漏らした。
「不愉快? それは不思議だな。仮に僕がルーに懸想しているとしても、伯爵令嬢の相手としては願ってもない相手だろう? 僕より上の条件なんて、国内ではアーロンくらいだ。家族だったら僕がルーを好きなことを喜びこそすれ、嫌がるのは不可解だな。それは本当に兄としての気持ちなのか? 君こそ一人の男として、ルーが気になっているのでは?」
ユージーンの真紅の瞳がクリスを射抜く。
「何を言って──!」
「君がルーをどう見ていようと口は挟まないけれど、ルーを悲しませることは許さない。……でも、ルーの幸せのためなら、いくらでも手を貸そう」
「…………」
「さて、伝えたいことは伝えたから僕は戻るよ。君は今日はこのまま屋敷に帰るといい。ルシンダには僕から伝えておこう。じゃあね」
ユージーンはそう言ってひらひらと手を振り、元来た道を戻っていった。
クリスはそんなユージーンの後ろ姿を、何も言わずに見つめていた。
◇◇◇
結局あのままクリスは屋敷へと帰ってきた。
壁に掛けられた亡き実妹マリアの肖像画と、義妹であるルシンダの絵を並べてみる。
両親はマリアによく似ているからという理由で引き取ったようだが、こうして比べてみると、マリアとルシンダは全く似ていない。年齢の違いのせいだけではなく、まとう雰囲気が異なっている。
「マリアとは、全然違うじゃないか──」
そう呟いた瞬間、クリスは自分の胸に鈍い痛みが走るのを感じた。
ルシンダは、妹なんかじゃない──。
最初は、ルシンダを妹だと認めたら、マリアの存在が薄れてしまうように思えて認められなかった。認めたくもなかった。
でも、マリアの死で傷つき荒んでいた心をルシンダに慰められて、少しは歩み寄ってもいいと思うようになった。
毎日を少しずつ一緒に過ごすようになって、ルシンダの内面を知り、優しくて一生懸命で、どこか変わったところのある少女がいつの間にか大切な存在になっていた。
マリアの代わりではなく、ルシンダそのものが、かけがえのない存在だった。
自分に懐いてくれるルシンダを庇護してやりたい。
義理の両親には恵まれなかったかもしれないが、そのぶん自分が兄として守ってやろう。
これは兄としての責任感なのだと、ずっと疑うことがなかった。
ルシンダを思うと溢れてくるこの温かな感情は、妹を思いやる家族愛なんだと。
でも、ユージーンとの会話で、気付いてしまった。
自分の本当の気持ちに。
ルシンダを兄としてではなく、一人の男として愛していることに。
幼い頃から自分の心の隙間を埋めてくれた特別な存在。
妹だなんて思えない。思いたくない。
ルシンダと出会えたことは心から幸せだと思っているが、兄妹ではない別の関係を望んでしまうのは過ぎた願いだろうか?
ルシンダから兄としてではなく、一人の男として愛されることを望むのは許されないことだろうか?
「……もう、こんな時間か」
気づけば、外では陽が沈みかけ、部屋の中もすっかり薄暗くなっていた。
そろそろルシンダが帰宅する頃だろうかとソファから時計を見上げると、ちょうどドアをノックする音と、心配そうなルシンダの声が聞こえてきた。
「お兄様、具合が悪くなってしまったんでしょう? 入ってもいいですか?」
「……ああ、構わない」
クリスが入室を許可すると、ルシンダが扉を開けて部屋の中へと入ってきた。その手には、何かが盛り付けられた皿を持っている。
「お兄様、ベッドで寝ていなくても大丈夫なんですか?」
「ああ、もう大丈夫だ。……その皿は?」
「あ、お見舞いにいいかと思って、りんごを剥いてきたんです。よかったら食べてください」
ガラス製の器の中に、くし切りにされたりんごが五切れ並び、その横にフォークが添えられている。
「最近、課題で忙しかったんでしょう? 今日はゆっくり休んでくださいね」
ルシンダがりんごの入った器をテーブルに置く。
夕日に照らされた横顔は思っていたより少し大人びて見え、なぜか胸が締めつけられた。
ルシンダがこちらを振り向くと亜麻色の髪がふわりと揺れる。思わず伸ばした手を引っ込めるのが惜しくて、そのままルシンダの手を取り自分の頬に当てた。
外が寒かったせいか、厨房で水を使ったせいか、ひんやりとしている。
「……冷たくて、気持ちがいいな」
「えっ、大丈夫ですか? やっぱり熱でもあるんじゃ……」
「そうだな、熱が出てきたのかもしれない」
クリスが小さく笑う。
「……ルシンダは、僕のことが大事か?」
「急にどうしたんですか? 大事に決まってます」
はっきりと言い切ったその言葉を聞いて、クリスはたまらずルシンダを抱きしめた。
今まで、ルシンダの誕生日にだって、こんな風に抱きしめたことはない。
「えっ、お兄様、本当にどうしたんですか? 不治の病とかじゃありませんよね⁉︎」
何か勘違いをしているルシンダが焦って腕から抜け出そうとするが、クリスがルシンダの肩に顔を埋めると大人しくなり、小声で尋ねてきた。
「……もしかして、具合が悪くて心細くなっちゃいましたか? もう少し側にいましょうか?」
ルシンダが手を回して、クリスの背中をそっと撫でる。
すると、ここ最近塞ぎ込んでいた気持ちがすっと晴れていくのを感じた。
ああ、あの日、ルシンダがユージーンと抱き合っているのを見たとき、自分はきっと嫉妬したのだ。
義理とはいえ家族である自分よりも親しげにルシンダに触れていることが許せなかった。
恋仲なのかと考えると、胸が苦しくて張り裂けそうだった。
自分ではない誰かがこの温もりを独占するのを想像するだけで頭がおかしくなりそうだ。
でも、いいのだろうか。兄妹という境界を飛び越えてしまっても。
……構うものか。元より血の繋がりなんてないのだから。
「……すまない。もう少しだけ、このままで──」
クリスはそう懇願するように囁きながら、もう妹としては見れなくなった大切な少女を、さらに強く抱き寄せた。