テラーノベル
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──週末、吉祥寺の小劇場。
初夏の生ぬるい風が吹く表通りとは対照的に、地下へ続く階段の先にある客席は、独特の冷気と熱気が混ざり合った空気で満たされていた。
開場直後の客席は、いつものようにとりとめもない雑音に包まれている。
決して、人気バンドのライブのような大熱狂ではない。
だが、緩やかなスロープ状の客席には、これから誰かが起こす『笑い』を待つ熱が、静かに積もっていた。
──舞台袖。
機材の並ぶ薄暗い場所で、リコが胸の前で固く腕を組みながら、地声に近い低さで呟いた。
「……やることは決まっとる」
「うん」
その隣で、ネタ帳を何度も読み返していた寿司子が、小さく、だが深く頷く。
「でも、やり方は決まってへん」
「……うん」
二人は自然と顔を見合わせた。
現れたライバル『フラットライン』と自分たちの差。そして自分たちが薄々感じていた限界。それを打破する術は、まだ霧の向こうにあって見えていない。
けれど、舞台裏の赤いデジタル時計の数字は非情に刻まれ、立ち止まる猶予など一秒も残されていなかった。
「まぁ、いつも通り行くしかないよね」
寿司子がふっと肩の力を抜き、リコは不敵な笑みを浮かべる。
「せやな。うちらのスタイルで、ぶつかるだけや」
デジタル時計が定刻を表示すると、司会の前説がホールに響く。
「おまたせしました!『UZUQ魂!』吉祥寺ライブ、開演ですっ!!
客席から割れんばかりの拍手。
「本日のトップバッターは、話題の暴走アイドルコント!『イナリズシ』ッ!」
お馴染みとなった『春の☆湯煎式』のヒット曲のイントロがスピーカーから弾けると同時に、客席から確実な厚みを持った歓声が湧き起こる。
照明の落とされた暗い舞台に、ホワイトのスポットが突き刺さるように照射された。
寿司子とリコが、示し合わせたような完璧なタイミングでセンターマイクへと飛び出した。
その瞬間──最前列の、ちょうど下手側の一点だけから、異様な熱量が爆発していた。
「オイ!オイ!オイ!オイ!!」
轟音のような掛け声と共に、暗がりの中で激しく乱舞したのは、強烈な光を放つ二本のサイリウムだった。
光源の先にいるのは、眼鏡をかけた小柄な観客。
服装はどこにでもあるチェックのシャツで、年齢は中学生か、下手をすれば小学生のようにも見える童顔だ。
だが、その身体が繰り出す『オタ芸』のキレは、尋常なものではなかった。
左右へ鋭く、まるで空気を切り裂くような軌道で振り抜かれる光の筋。身体全体のバネを使い、一ミリの狂いもなくビートを刻むリズム感。
しかも、彼はただ目立ちたくて騒いでいるのではない。その光の加速と減速、そして静止のタイミングが、メロディの展開、さらには二人のステップと完璧に噛み合っていたのだ。
「……なんやあれ、『湯煎式』のガチ勢か?」
リコがいつものように笑顔でステップを踏みながら、腹話術のように小声で漏らす。
「……すごい。悪ノリにしては、リズムが完璧すぎるよ」
寿司子も満面の笑みを客席に向けながら、その眼球だけは、激しく明滅する光の軌道に完全に目を奪われていた。
だが、奇妙な現象はそれだけでは終わらなかった。
その一人が放つ異常な熱量が、周囲の観客へと、波紋のように伝染していくのが分かった。
一人、また一人と手拍子が増えていく。客席全体の重心が、自然と前のめりになっていく。舞台と客席の間に、普段なら中盤までかかってようやく形成される『見えない熱の導線』が、オープニングの数秒で開通しようとしていた。
ダンスパートが終了し、曲がフェードアウトする。
二人はセンターマイクの前で一瞬だけ呼吸を整え、そのまま流れるようにいつもの“食レポコント”の導入へと入った。
「みんな〜♡ 今日はこちらの、老舗の回らないお寿司屋さんに来ておりま〜す♡」
アイドルのような高い声で寿司子が第一声を発すると、客席からクスリと、心地よい小さな笑いが揺れた。
そして──寿司子は、ある異変に気づいた。
さっきまで獣のように暴れていたあの小柄な観客が、今は微動だにせず、静かに座っている。
彼は二本のサイリウムを一本にまとめ、両手で包み込むようにして膝の上で垂直に構えていた。
「うわぁ〜♡ カウンターに並ぶ、キラキラしたお寿司さんたち〜♡」
寿司子がキャラクターになりきって、予定通りのネタを進行させていく。
──その瞬間。
あの男のサイリウムが、すっと、滑らかに右側へ流れた。
(……え?)
次のボケを放つ、ほんの直前。今度はその光が、垂直に上へと跳ね上がった。
ほんの数センチ、時間にしてコンマ数秒の予兆。
その姿は、オーケストラの前に立つ指揮者のようでもあり──。
(……来る。客席が、今、ボケを待っている)
なぜか、確信めいた直感が寿司子の背筋を走った。あの光の動きが、客席の『笑いたい』という空気の膨らみを可視化しているように見えたのだ。
寿司子は反射的に、いつもより“間”をキュッと詰めて言葉を叩き込んだ。
「わたし、美味しいお店は詳しいんですよ〜♡だって、毎日『ぐるなび』見てるから〜♡」
「自分の足で探さんかいっ!」
間髪入れずにリコのツッコミが炸裂する。
──ドッ!
いつもならパラパラとした笑いで終わるはずの序盤で、地鳴りのような笑いが広がった。
寿司子の目が、舞台の照明を受けてわずかに見開かれる。
(……今の、タイミング、完璧だった)
最前列のサイリウムが、今度はゆっくりと、胸の前で小さく円を描いた。
寿司子は逆に、今度はほんの半拍だけ、あえて次のセリフを言わずに『余白』を置いてみた。
「あれぇ? この大トロさん……」
客席の笑いが消え去り、次の言葉を渇望する瞬間まで、贅沢に時間を引き延ばす。
「私の衣装のピンクとお揃い〜♡テカテカ脂っこいのもお揃い〜♡」
案の定、十分に溜まった空気の後に放ったボケは、先ほど以上の爆発力を持って客席を揺らした。
「アイドルならスキンケアせんかい!」
笑いが幾重にも重なり、劇場の天井を叩く。
(……分かる。分かるよ)
寿司子は心の中で興奮に震えていた。
あのサイリウムは、ただ振られているのではない。客席全体の呼吸、緊張と緩和のバイオリズムを完全に読み切り、それを光のナビゲーションとして二人に提示しているのだ。
「……リコ」
ネタの合間、背中を向ける一瞬の隙に、寿司子は相方の名前を呼んだ。
「……せやな。アイツ、ただのオタクちゃうわ」
二人は視線だけで、言葉以上の戦術を共有した。
(これ、客席の波だよね)
(……アイツが、客の呼吸をナビゲートしとる。乗るで、寿司子!)
(リコ、しっかり合わせて!)
限界だと思われていたネタの精度が、リアルタイムで書き換えられていく。客席の反応を限界まで吸い上げ、最も効果的なタイミングで言葉を放つ。
イナリズシの漫才は、そのまま最高速度で最後のオチへと走り切った。
「とっても美味しかったで〜す♡ 潰れるまでに、また一度は来たいと思いました〜♡」
「縁起悪いこと言うなっ!もぅ食レポやめちまえっ!」
──ドカン!!!
本日一番の爆笑。
割れんばかりの拍手と歓声。
「イナリズシでしたっ!ありがとうございました〜!」
舞台を降りる二人の背中に、これまでとは明らかに違う『客席と完全に一本の線で繋がった』という、確かな手応えの余韻が残っていた。
──続く
コメント
3件
サイリウム振ってた人は何者なんでしょう……🤔 只者じゃない空気が伝わってきて、ドキドキしてました。 次回も楽しみにしています😊
第28話、めっちゃ熱かった!あのサイリウムを振ってた観客、ただのオタクじゃなくて完全に“客席の指揮者”みたいになってるのがやばい。寿司子がその光の動きを読んで間を調整するシーン、脳汁出たわ。イナリズシのネタの質が一段階上がった感じがして、次がもっと楽しみになった🔥