テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
あの夜の嵐のような痙攣が嘘だったかのように、部屋は不気味なほど静まり返っていた。
元貴は、若井が買ってきた真っ白なシーツに包まれ、ベッドの上でぼんやりと座っている。
かつて若井をなじり、涼ちゃんを誘惑したあの残酷で聡明な瞳は、もうどこにもない。
今の元貴の瞳は、ただ光を反射するだけの、空っぽで綺麗なガラス玉のようだった。
「……ぁ、……うぅ……」
元貴が、自分の指先を不思議そうに見つめ、口に含もうとする。
「あ、めっ、でしょ。元貴、それは汚いよ」
若井が、慈しむような手つきでその手を取り、優しく拭う。
あの日、若井は救急車を呼ばなかった。
代わりに涼ちゃんが持ってきた怪しげな解毒薬と、若井の必死の心臓マッサージによって、元貴は「肉体」だけをこの世に繋ぎ止めたのだ。
脳に回った毒のせいか、あるいは極限の恐怖による精神の逃避か。
目覚めた元貴から、すべての記憶と語彙が消えていた。
「……わ、……か……い……?」
「そうだよ、元貴。俺だよ。
……やっと、俺だけの元貴になったんだね」
若井は、元貴の首筋に顔を埋め、深く息を吸う。
以前の元貴なら、ここで冷たく笑って若井を突き放しただろう。だが、今の元貴はただ、心地よさそうに若井の髪を小さな手で撫でるだけだ。
自分を責めない、自分から離れない、自分だけを必要とする存在。
若井にとって、今の元貴は、人生で手に入れた唯一の「完璧な宝物」だった。
「……お熱いね。まるで、ままごと遊びだ」
部屋の隅、影の中から涼ちゃんの声が響いた。彼はあの日以来、当然のようにこの部屋に居座り、二人の生活を眺めている。
「涼ちゃん、……帰れと言ったはずだ」
「いいじゃないか。元貴がこんなに『可愛く』なったんだ。僕も、彼に新しい遊びを教えてあげたいしね」
涼ちゃんが元貴に近寄り、カラフルなキャンディを差し出す。元貴はそれを、無邪気な笑顔で受け取ろうとした。しかし、涼ちゃんはその手をひらりと避ける。
「ほら、元貴。欲しかったら、僕の足元まで這っておいで?」
「やめろ!!」
若井が激昂し、元貴を抱き寄せる。
元貴は何が起きたのか分からず、若井の胸の中で「……ぅあ、……えん……」と、悲しそうに声を上げた。
「……可哀想に。若井、君は彼を『守っている』つもりだろうけど、それはただの飼育だよ。
……元貴の魂は、あの日、薬と一緒に全部溶けて消えたんだ。そこにいるのは、君が作った『生きた人形』さ」
涼ちゃんの言葉は、鋭い針のように若井の心に刺さる。
若井は元貴を強く、強く抱きしめた。元貴の細い背中から、微かな鼓動が伝わってくる。
「……人形でいい。……魂なんて、いらない。……俺がいなきゃ何もできないこいつが、俺は、たまらなく愛おしいんだ」
若井は元貴の耳元で、甘い毒のように囁き続ける。
「大丈夫だよ、元貴。ずっとここにいようね。……お外は怖いから。お薬も、もういらない。……俺だけがいれば、いいんだよ……」
元貴は何も分からず、ただ若井の体温に甘えるように、その胸に顔を埋めた。
雨音だけが、三人の止まった時間を塗り潰していく。
コメント
2件
わ〜… 生きた人形… なんか、響きいいね✨️