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日暮ミミ♪
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***
わたしが”BLENDA”に入社して、もうすぐ一ヵ月が経とうとしている。
業務の流れを覚えつつわたしは、少しずつ仕事が楽しく感じ始めていた。
そんなある日、チームリーダーの篠原さんから「まずは1社くらい担当持ってみる?」と提案があった。
自分はまだまだだと思っていたわたしは、その提案が嬉しくて、思わず「はい!」と即答しまった。
そこで、わたしは篠原チームが担当する取引先名簿を見せてもらった。
“あいうえお順”に並ぶ社名を上から辿って見ていると、わたしはその中から、心の奥底から拒否反応を示す社名を見つけてしまった。
「オリオンカンパニー······」
わたしがそう呟くと、篠原さんは「あぁ、オリオンカンパニーね。元々は、戸田主任のチームが担当してたんだけど、最近うちのチームで担当する事になったんだ。」と言った。
心がザワザワして、胸がノイズのような複雑な音を立てる。
そんなわたしの様子を見た篠原さんは「オリオンカンパニーが、どうかしたの?」と尋ねてきた。
「···実は、前に働いていた会社なんです。」
「そうなんだ。今まではそこまで業績が良い会社ではなかったんだけど、つい最近新しいプロジェクトを始動してから、ノッてきてるんだよ。」
篠原さんのその言葉から”新しいプロジェクト”というワードが、やけにわたしの神経を逆撫でする。
(もしかして、その新しいプロジェクトって······)
「オリオンで始動し始めたプロジェクトって、もしかして”リサイクルプロジェクト”ですか?」
わたしがそう訊くと、篠原さんはパッと明るい表情を浮かべ「そうそう!」と言った。
(やっぱりか······)
わたしがそう思いながら、複雑な表情を浮かべていると、篠原さんは何かを悟ったのか「もしかして、オリオンカンパニーで何かあったの?」と、俯き加減のわたしの顔を覗き込んだ。
「···実は、そのプロジェクトの発案者は、わたしなんです。」
「えっ!そうなの?!」
「はい。でも、プロジェクトリーダーになるはずが、突然下ろされてしまって······」
わたしはそう言い、苦笑いを浮かべる。
すると篠原さんは、微かに眉間にシワを寄せながら「それって、理不尽な理由で?」と訊いてきた。
その問いにわたしが静かに頷くと、篠原さんは怒りにも似たムッとした表情を浮かべ、「何かおかしいと思ったんだよなぁ。」と言い始めた。
「そのオリオンカンパニーの今のプロジェクトリーダーがさ、船田さんって人なんだけど、発案者だって割には、内容をあまり理解してないというか、詳細まで話す事が出来なくて頼りないんだよ。でも、プロジェクトの内容は素晴らしいから、こっちも歩み寄ってはいるんだけどさ。」
篠原さんは愚痴を零すように早口でそう言うと、「本当は芽吹さんが発案者だったからなのか!」と、一人で納得していた。
「それならさ、オリオンカンパニーの担当、芽吹さんがやってみる?」
突然の篠原さんの提案に「えっ!」と、わたしは戸惑った。
出来れば前職場とは関わりを持ちたくない。
担当をする事になれば、打ち合わせで船田さんと顔を合わせる事にもなる。
もう二度と見たいとは思わない憎らしい顔だ。
「こう言っちゃなんだけど、どちらかといえば、うちの会社の方が立場的には上じゃない?うちの商品を扱ってもらっている身ではあるけど、逆に言えば、うちの商品が無いと、あちら側は困るわけだからさ?」
そう言う篠原さんの言葉を聞き、(確かに···)と、納得してしまう。
すると篠原さんは、こう続けた。
「うちからしたら、たくさんある取引先の一つで、正直オリオンカンパニーは中小企業の中でもランクは下の方だし、芽吹さんがもし担当するなら、やりたいようにやっても大丈夫だよ。」
「わたしの、やりたいように······」
「うん。だから、強気でいっても問題ない。オリオンカンパニーをギャフンと言わせるチャンスじゃない?芽吹さんに酷い仕打ちをした事、後悔させてやりなよ。」
篠原さんの言葉でわたしの心にかかっていた靄が見る見る内に薄れていく。
わたしは篠原さんに背中を押してもらい、”オリオンカンパニー”の担当を受け持つ決断をしたのだった。
「やってやれ!芽吹さんの実力を見せ付けてやるんだ!」
心強い篠原さんの言葉に、わたしは「はい!頑張ります!」と拳に力を込めた。
すると、「雫さん。」と控えめにわたしを呼ぶ声が聞こえ、わたしはふと声がした方へ顔を向ける。
そこには、スーツのポケットに手を入れ、片手だけ手を上げる雨城さんの姿があった。
「あ、雨城課長。お疲れ様です!」
雨城さんの姿に元気良く挨拶をする篠原さんと、ゆっくりとこちらへ歩み寄り「お疲れ様。」と穏やかな口調で言う雨城さん。
わたしも雨城さんに向かい「お疲れ様です。」と挨拶をすると、雨城さんは「何だか盛り上がっていたみたいですね。」と言い、目を細めて表情を綻ばせた。
「はい、1社だけ担当を受け持たせていただける事になって。」
わたしがそう言うと、篠原さんはすかさず「芽吹さん、呑み込みも仕事も早いんで、そろそろ1社くらいなら担当持ってもらっても問題ないかなと思いまして!」と言った。
「さすが雫さんですね。」
雨城さんの褒め言葉にわたしが照れて何も言えずにいると、雨城さんは「雫さん、今少しだけお時間よろしいですか?」と訊いた。
わたしは「あ、はい。」と返事をすると、篠原さんの方を向く。
篠原さんは「問題ないですよ。行ってらっしゃい!」と快く承諾してくれ、わたしは「では、少しだけ席を外します。」と告げてから、椅子から立ち上がった。
「少しだけ、芽吹さんをお借りしますね。」
篠原さんにそう告げた雨城さんは、わたしに「行きましょうか。」と一言言ってから歩き出した。
そして、雨城さんが向かったのは、喫煙室の隣にある小休憩所だった。
小休憩所は自動販売機が並び、背もたれがついていない椅子が置いてある小さな部屋だ。
「申し訳ありません、仕事の邪魔をしてしまって。」
「いえ、大丈夫です。それで、何かありましたか?」
わたしがそう訊くと、雨城さんは口を噤み、珍しく返答に困っている様子だった。
そんな雨城さんの様子にわたしの頭の上にはクエスチョンマークが浮かぶ。
すると、雨城さんは一歩わたしに歩み寄り、そしてわたしの頬に触れてきた。
「···ただ、雫さんに会いたくなって、来てしまいました。」
そう言う雨城さんの言葉に、わたしは驚き、瞳孔を開かせる。
まさか雨城さんの口から、そのような言葉が出てくるとは思いもしなかった。
「えっ、わたしに···会いに来てくれたんですか?」
「はい···、少しだけ会って戻るつもりが···、雫さんが篠原さんと楽しそうに話してるのを見て、嫉妬してしまいました。」
少し照れくさそうにそう言う雨城さんは、情けないとでも言うように切ない笑みを浮かべ、わたしを見つめていた。
――――嫉妬してしまいました。
(雨城さんが、嫉妬してくれたの?)
そう思うと、わたしの顔から頭の天辺までが熱くなっていくのを感じた。
その時、遠くから人の話し声が聞こえて来て、それに反応した雨城さんは不意にわたしの手を引き、部屋の隅にわたしを包み込んで身を潜めた。
どこかの部署の男性二人が話しながら小休憩所を通り過ぎ、隣の喫煙室へ入って行ったようだった。
「危なかったですね。」
そう言い、いつもは紳士的な雨城さんが見せる少年のような微笑みに、胸がトクンと跳ね上がる。
気付けば、わたしは雨城さんに抱き締められているような形になっており、場所が社内という事もあり、何だか悪い事をしている気分で、それでも嫌な気はしなかった。
「悪い事をしているわけではないのに、つい隠れてしまいました。でも···、今は悪い事をしている気分です。」
雨城さんが小声でそう言い、悪戯に微笑む。
それに対してわたしも「わたしもです。」と言い、何だかおかしくなってクスッと笑ってしまった。
「···もっと、悪い事をしてもいいですか?」
わたしを見つめながらそう言う雨城さんは、わたしの頬に手を添えると、親指でクッと顎を少しだけ上へ上げた。
それから雨城さんは、顔の角度を変えながら顔を寄せ、鼻先が触れるくらいの距離まで近付くと、「僕は課長失格ですね。」と呟き、そっとわたしに唇を重ねてきた。
最初は雨城さんの大胆な行動に驚いたが、拒否を示すどころか受け入れてしまっている自分にも驚きつつ、わたしはゆっくりと目を閉じた。
感じるのは、雨城さんの薄くて柔らかい唇の感触だけ。
そしてそっと唇が離れたと思うと吐息が漏れ、雨城さんはわたしの額に自分の額をつけると、鼻先が触れる距離で見つめ合い、わたしたちは照れ笑いを浮かべた。
雨城さんとの初めての口付けは社内の小休憩所で、それも隣の喫煙室には人が居る状態だった。
胸の鼓動が高鳴り、スリルがある中での口付けに、わたしは恋に落ちた気分になっていた。
いや、気分ではない。
最初はただの恋人ごっこのはずが、わたしは本当に雨城さんに恋に落ちてしまっていた。
それからわたしたちはもう一度だけ短いキスをして、くすぐったい気持ちを抱いたまま各オフィスへと戻ったのだった。
その次の日。
わたしは休日の朝をベッドの上で迎え、まだ寝惚け眼で閉まるカーテンの隙間から漏れている陽射しをぼんやりと眺めていた。
すると寝室のドアが開き、そちらに視線を向けると、開いたドアから既に私服に着替えを済ませている雨城さんが姿を現し、「目が覚めましたか?」と尋ねた。
「はい、今起きたばかりです。今、何時ですか?」
わたしは横向きに体勢を変えると、まだ回り切らない口調で雨城さんにそう訊く。
雨城さんはこちらへゆっくりと歩み寄って来ながら「そろそろ10時になる頃です。」と答えた。
「もう10時になるんですね。寝過ぎてしまいました。」
まだ開き切らない重たい瞼を擦りながら、わたしがそう言うと、雨城さんはわたしのすぐ傍まで来て、ベッドの端に腰を下ろした。
「疲れが溜まってるんですよ。休日なんですから、ゆっくり過ごしてください。」
雨城さんはそう言うと、そっとわたしの額にキスを落とした。
それからわたしの頬に手を添え、わたしを愛おしそうに見つめる。
わたしは自分の頬に添えられた大きくて温かい雨城さんの手に自分の手を重ねると、目を閉じてその温かさをじっくりと感じ取った。
「今日は、家でゆっくりしますか?」
雨城さんの問いにわたしは瞼を開けると、「んー···、」と唸り、それから「今日は天気が良さそうなので、どこかに出掛けたいです。」と答えた。
よく考えてみれば、これまでの休日を雨城さんと一緒にゆっくり過ごした事はなかった。
雨城さんはあまり口には出さないが、普段雨城さんは本来の任務の為に出掛けているのだ。
それだけ、毎日どこかで誰かの命が尽きているという事になる。
雨城さんは、わたしにはそんな素振りを見せる事は無いので、ついつい雨城さんの本来の姿を忘れてしまいそうになる程だ。
「それじゃあ、今日は出掛けましょうか。」
「いいんですか?」
「雫さんと一緒にデートらしいデートをした事はありませんからね。どこに行きたいですか?」
雨城さんにそう訊かれ、わたしは両手を雨城さんの手に添えながら「そうですね〜。」と考える。
そして、一番最初にふと思い浮かんだ場所があったのだが、まずわたしはその場所は口には出さず、一度飲み込んだ。
それから次に思い浮かんだのは···――――
「水族館に行きたいです。」
わたしはそう言うと、雨城さんを見上げた。
「水族館ですか、いいですね。」
「実は、わたし水族館デートってした事が無いんです。だから、一度は···最期くらいは、行ってみたいんです。」
わたしの言葉に雨城さんは優しく微笑みを浮かべると、「それじゃあ、水族館で決まりですね。」と言った。
そこから、雨城さんに腕を引いてもらいベッドから起き上がったわたしは、その勢いのままどさくさに紛れて雨城さんに抱きついた。
わたしから抱きついていったのは初めてかもしれない。
そのせいか雨城さんは驚いているように感じたが、それでもわたしを優しく受け入れ、抱き締め返してくれた。
そんな些細な事さえ、最近は幸せに感じてしまう。
それは余命があと僅かだと分かっているせいだろうか。
その後、わたしはデート仕様の洋服に着替えた。
上は淡いラベンダー色のサマーニットに、ミモザ柄の白いフレアスカートを穿き、化粧も入念に仕上げた。
最後に華奢でシンプルなピアスをつけ、準備万端だ。
「今日も可愛らしいですね。」
わたしのデート仕様の姿を見て、雨城さんは今日も褒めてくれる。
わたしは素直に「ありがとうございます。」と言うと、雨城さんの方から差し伸べられた手を握り、その手を繋いで自宅を出たのだった。
それから車に乗ってわたしたちが向かったのは、市外にある”アクアパーク水族館”だ。
晴天で休日という事もあり、家族連れやカップルも多く見られた。
その中の一組であるわたしたちは、入口前にある窓口で入場券を購入し、入口を潜り中へと進んで行く。
すると、暗い館内の中に入ってすぐ目の前に、大きく高さもある水槽が現れ、青い光が揺らいでいた。
「わぁ···凄い!綺麗···!」
わたしは、その魅力に溜息混じりの感動の声を漏らしてしまう。
その大きな水槽には、ジンベイザメやエイ、その他にも割と大きめな魚たちが優雅に泳いでいたのだ。
雨城さんの手を引き、惹き込まれるように水槽へ近付いて行くわたしは、水槽のすぐ傍でジンベイザメや魚たちに見惚れるように見上げていた。
それから奥へ進んで行くと、明るめの照明のフロアがあり、小さい水槽がたくさん並ぶ中では、熱帯魚や淡水魚、チンアナゴなどを見る事が出来、そのまた奥へ進むと幻想的な空間にクラゲが揺らめく水槽があった。
そして、その先には屋外へ出られる出口があり、外へ出ると丁度ペンギンが飼育員さんの後に続き歩く”お散歩タイム”が行なわれていた。
「可愛い〜!」
観客の誰もがそう投げ掛ける皇帝ペンギンの列の一番後ろには、サービス精神旺盛で個性的なペンギンがおり、いちいち両サイドの観客の方を見ながら一足遅れて歩く姿が可愛らしかった。
「あのペンギン可愛いですね!」
「そうですね、サービス精神が旺盛ですよね。」
わたしは雨城さんと微笑ましくそう話しながら、ハンドバッグからスマートフォンを取り出し、そのペンギンの写真を撮った。
その後はイルカショーが始まるまでの待ち時間を使い、水族館と隣接しているフードコートで軽食を取り、イルカショーが始まる少し前に場所を移動した。
実は社会人になってからイルカショーを見るのは初めてだった。
幼い頃に父と一緒に行った記憶はあるが、その記憶も遠い昔の為、霞み始めている。
調教師の女性と息を合わせ、豪快なジャンプを見せてくれるイルカたちのショーが始まると、場内に歓声が響いた。
そのジャンプの勢いで散る飛沫が掛かりそうになった時には少し焦ったが、それもまた良い思い出だ。
イルカショーを見終えると、ゾロゾロと場外へ出る観客たちと共にわたしたちも外へと出る。
わたしはもうそれだけで、充実した一日を過ごせた気分になっていた。
「イルカショー凄かったですね。」
「イルカ可愛かったですよね!調教師さんの合図であんな事が出来るなんて、どれだけの時間を費やして頑張ってるんだろうなぁ。」
わたしがそう呟くように言うと、雨城さんは「”可愛かった”だけで終わらないのが、雫さんらしいですね。」と言い静かに笑う。
それを聞き、(それって、雨城さんから見たら、わたしらしいんだぁ。)と自分では気付かない一面を雨城さんに教えて貰えた気がした。
駐車場に戻り車に乗り込むと、雨城さんはシートベルトを締めながら「雫さん、次はどこへ行きたいですか?」と訊いた。
その雨城さんの言葉から、わたしが思い浮かんだのは、一番最初に”行きたい”と思ったある場所だった。
「何処でも、いいんですか?」
「はい、雫さんが行きたいと思うところなら、何処でも。」
雨城さんにそう言われ、わたしは少し躊躇ったが、どうしても行っておきたい場所を口に出す事にした。
「それじゃあ···、父のお墓参りに行ってもいいですか?」
そのわたしの一言から、雨城さんが運転する車は、父が眠る霊園へと向かい始めた。
最後に父のお墓参りに行ったのは、一年と少し前だ。
久しぶりに父に会いに行く気分でわたしは窓の外を流れる景色を眺めていたが、それはいつもとは少し違う気分だった。
お墓で眠る父に会いに行くのは、きっとこれが最後になるだろう。
次に会うその時は、きっとこの空に広がる雲の上だ。
“アクアパーク水族館”を出発してから、約一時間半。
長かったようであっという間だったドライブは、父が眠る霊園に到着した。
わたしは、ここへ向かう途中に寄ってもらっていた花屋で購入した、白と黄色の花を持ち、父が眠るお墓へと進んで行く。
その後ろには、しっかりと雨城さんがついて来てくれ、わたしは後ろに雨城さんの存在を感じながら霊園の階段を登って行った。
そして到着する”芽吹家之墓”の前。
わたしは花を持ったまま、墓前で少しの間、立ち止まって父の事を思い出していた。
思い浮かぶ父の顔は、目を細めて笑う優しい表情ばかり。
わたしは、トラックを運転する父の助手席に座りながら、”最後の雨”を聴くのが好きだった。
「お父さん、久しぶり。」
そう声を掛け、わたしは一歩前に足を踏み出すと、墓前でしゃがみ込み、花を供えた。
本当は墓石の掃除をしようと思っていたのだが、綺麗で状態が良く、最近祖母が訪れたのだろうと思い、掃除するのをやめた。
ロウソクを立て、マッチで火をつけ、墓石を見上げる。
そこには、居るはずも無い父の姿が視えるような気がして、わたしは薄っすらと笑みを浮かべた。
すると、わたしの隣に雨城さんがやって来て、わたしと同じようにしゃがみ込む。
それから墓石を見上げると、雨城さんは「初めまして、雨城と申します。娘さんとお付き合いさせていただいております。」と父に話し掛けるように言葉を口にした。
わたしは胸の前で手を合わせると、目を閉じた。
そして、父にこう話し掛けた。
(お父さん、わたしももうすぐ、そっちに行くからね。)
心の中で父にそう話し掛けたわたしは、目を開けると再び墓石を見上げる。
すると、そこには視えるはずもない父の姿が視えるような気がして、その父は悲しい表情を浮かべていた。
「お父さんと話せましたか?」
雨城さんは、優しい口調でわたしにそう問い掛ける。
わたしはその問い掛けに「はい、話せました。」と答えると、「雨城さん、今日はここまで連れて来てくださり、ありがとうございます。」と感謝を述べた。
そして、その帰り道の車内は静かだった。
沈黙は流れていたが、嫌な沈黙ではない。
ただ一緒に居るだけで心地良い、穏やかな沈黙だ。
自宅近辺になると、空はオレンジ色に染まり、時刻は18時を回っていた為、今日は外食をしてから帰宅する事にした。
「雫さんは、何が食べたいですか?」
ハンドルを握り締め、前を向きながら雨城さんが言う。
わたしは少し考えてから、普段二人ではあまり食べない物を食べようと「ラーメンなんかどうですか?」と提案してみた。
すると雨城さんは「そういえば、二人でラーメンを食べた事無かったですね。」と言い、わたしの提案にノッてくれたのだ。
そこで向かったのは、魚介スープが美味しいラーメン屋の”蓮華”だ。
有名なラーメン店から暖簾分けしてオープンした”蓮華”には、一度だけ行った事があるのだが、わたしの中では”美味しかった”記憶が強く残っていたのだ。
“蓮華”は自宅から徒歩で行ける距離にある為、一度自宅の駐車場に車を置いてから、二人で歩いて向かう事にした。
オレンジ色の空が次第に群青色に染まっていき、月光が主張し始める。
わたしはそんな空を見上げながら、この時間帯の短い散歩も悪くないなぁと思った。
お昼時はサラリーマンたちが並び待ち時間がある”蓮華”だが、この時間帯は待ち時間無く店内に入る事が出来た。
「いらっしゃいませ〜!2名様ですか?」
見たところ30代後半くらいのご夫婦で経営されている”蓮華”は、”奥様”の方がホールを担当しており、わたしたちを出迎えてくれる。
雨城さんが「はい、二人です。」と答えると、ホール担当の”奥様”が「では、こちらの席へどうぞ!」と窓際のテーブル席へと案内してくれた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声がけ下さい。」
そう言い、お冷を二人分運んで来てくださる”奥様”は会釈をしてから、まだ片付けられていないカウンター席の片付けをしに向かって行った。
「雫さんは、いつも何ラーメンを食べているんですか?」
メニュー表を手に取りながら、雨城さんが言う。
わたしは雨城さんがメニュー表を開いたタイミングで「わたしは、味噌ですかね。」と答えた。
「雨城さんは、何ラーメンがお好きですか?」
メニュー表に並ぶラーメンの写真を眺めながら、わたしがそう訊くと、雨城さんは少し考えるような仕草をした後で「そういえば、ラーメンって食べた事が無いかもしれません。」と答えたのだ。
「えっ!35年間で一度もですか?」
「はい、多分初めてです。」
まさかの事実にわたしが驚いていると、雨城さんは何だか嬉しそうにメニュー表を眺めながら「ラーメンの初体験を雫さんと共に出来るなんて、嬉しいですね。」と言っていた。
それから「すいません!」と声を掛け、わたしたちが注文したのは、塩ラーメンと味噌ラーメンだ。
ホール担当の”奥様”は、「塩ラーメンと味噌ラーメンですね!かしこまりました!」と言い、テーブルから離れて行くと、厨房でラーメンを作る”ご主人”に注文を伝えに行った。
注文をし終えた後、雨城さんはメニュー表を元に戻しながら「今日は充実した一日でしたね。」と言った。
その雨城さんの言葉に「はい!」と頷いたわたしは、「とっても楽しかったです!」と言いながら、感情が溢れ出すままに笑みを浮かべた。
「水族館に行けて良かったです。良い思い出になりました。」
「そう言っていただけると、僕も嬉しいです。」
「イルカショーも凄かったですけど、あのペンギンが可愛かったですよね〜!」
わたしがそう言い微笑むと、雨城さんは表情を綻ばせ「そうですね。」と同調した後に「でも、僕には雫さんが一番可愛らしく見えましたよ。」とサラリと言ってのけた。
「え、えぇ?!わたしですか?!」
「はい、あんなにはしゃいでいる雫さんは、初めて見たので。」
そう言い微笑む雨城さんの言葉に今日の自分を思い返し、わたしは恥ずかしくなってくる。
確かにわたしは、自分でも大人げ無くはしゃいでしまった自覚はあったからだ。
「正直言うと、はしゃいでいる雫さんがあまりにも可愛らしかったので、雫さんばかり見ていて、他に見た記憶があまりないんですよね。」
そう言って照れ笑いを浮かべる雨城さんは、手のひらを後頭部に回し「はははっ。」と笑っていた。
褒められ慣れていないわたしは、話題を自分から逸らそうと「そういえば、」と何かを思い出した振りをして「先程も言いましたが、今日は父のお墓参りに付き合ってくださり、ありがとうございました。」と改めて雨城さんにお礼を言った。
「いえ、僕も雫さんとご一緒出来て、良かったです。」
雨城さんはそう言うと、改まるかのように手を膝の上に乗せ、優しい表情を浮かべた。
「本当は掃除もしようかと思っていたんですが、先に祖母が来て綺麗にしてくれていました。」
「お祖母様ですか?」
「はい、多分そうだと思います。わたしには母は居ませんし、確か父に兄弟は居ないので、掃除をするのは祖母くらいかと。」
わたしがそう言うと、雨城さんは微かに切ないような表情を浮かべ「お祖母様には、会いに行かなくていいんですか?」と尋ねた。
しかし、わたしは視線を落とし、出来るだけ穏やかな口調で「いいんです。」とだけ答えた。
祖母とは、もう何年も会っていない。
最後に会ったのがいつなのか、覚えていないくらいだ。
祖母は言葉に棘のある人で、幼い頃から祖母の事は苦手だった。
父が仕事で留守の間は祖母にお世話にはなっていたが、どうしても祖母の事を好きにはなれなかった。
祖母は何かと愚痴が多くなり、母とわたしを比べるような言葉を口にしたり、「あんたの母親はねぇ、」と母の悪口ばかり言っていて、幼いながらに不快に感じていた事をよく覚えている。
祖母からしたら、勝手に家を出て、わたしを置き去りにした母の事が気に食わないのは当然で、仕方の無い事なのは理解しているのだが、そんな祖母の言葉から逃げるようにわたしは祖母が今でも住んでいる実家には寄り付かなくなっていたのだった。
すると、「お待たせしましたぁ!」とホール担当の”奥様”がオボンに乗せたラーメンを両手で持ち、運んで来てくれた。
わたしたちは、それぞれそのラーメンの器を受け取り「ありがとうございます。」と言うと、ホール担当の”奥様”は「それではごゆっくりどうぞ!」と明るく言って、再び片付けへと戻って行った。
「それでは、いただきましょうか。」
「はい。」
そう言って、手を合わせるわたしたちは「戴きます。」と声を揃え、割り箸を手にする。
わたしの注文した味噌ラーメンと雨城さんの塩ラーメンが、魚介の良い香りとコク深い味噌の香りを放っており、空腹のところを更に食欲がそそるのだった。
それから美味しいラーメンを堪能したわたしたちは、ラーメンで熱が籠った身体が冷める間もなく、お店を出た。
「初めてのラーメンどうでしたか?」
「ラーメン美味しかったです。また行きたいですね。」
そう話しながら歩く7月の蒸し暑い夜道に、突然生温い水滴が頬を掠める。
何かと思い空を見上げると、いきなり雨が降り始め、わたしは雨城さんに手を取られ、手を引かれるままに駆け出した。
急いで自宅マンションまで走ったが、短い距離でもずぶ濡れになってしまう程の雨で、雨城さんとわたしは突然の雨にエントランスから外を眺めた。
「凄い雨ですね。」
「今日、雨予報でしたっけ?」
「いえ、予報外の雨なので、もしかしたら何処かで指令が下りたのかもしれません。」
その雨城さんの言葉に、何だか少し胸が痛む。
そうだった。
雨が降る時は、何処かで誰かの余命が告げられた時だった。
わたしは他人事には思えず、切ない気持ちを抱きながら、雨が降る夜の風景を見つめた。
「雫さん、風邪を引いてしまうと困るので、すぐにお風呂に入りましょう。」
雨城さんのその言葉でハッとしたわたしは、外から目を逸らすと「そうですね。」と答え、わたしは自分の腰に添えた雨城さんの手に導かれるままにエレベーターに乗り、自宅がある7階まで上った。
自宅に着いてからは、雨城さんが素早くバスタオルを取りにバスルームへ向かい、玄関で待つわたしの元へ戻って来ると、フカフカのバスタオルを優しくわたしの頭に被せ、濡れた髪の毛を拭いてくれた。
「すぐにお風呂沸かしますね。」
バスタオル越しのすぐ傍で雨城さんの優しい低音が響く。
わたしは先程の切ない気持ちを引きずったまま、俯き加減で雨城さんの服の袖を摘んだ。
「雨城さん。」
わたしがそう呼ぶと、雨城さんはわたしの髪を拭く手を止め、顔を傾けながらわたしの顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
わたしは雨城さんの問い掛けに視線を上げ、雨城さんを見上げると「今日、一緒にお風呂に入りませんか?」と言った。
いつもなら恥ずかしくて言えないような言葉だが、今のわたしは少しでも一人になる時間が恐くて、心の思うままに言葉を口に出せてしまっていた。
雨城さんは少し驚いたようだったが、すぐに優しい笑みを浮かべ「いいですよ、一緒に入りましょう。」と答えてくれた。
一通りわたしの髪の毛を拭き終えた雨城さんは、その後すぐにお風呂を沸かしてくれた。
そして雨城さんは、わたしがいち早く湯船に浸かれるようにバスルームへと促してくれる。
今日の湯船はいつものライム色とは違う、乳白色のにごり湯だ。
これも二人で初めて入るにあたっての雨城さんの気遣いだろうか。
(勢いのままに一緒に入りたいなんて言っちゃったけど、よく考えてみれば、わたしたちはまだお互いの裸を見た事が無いんだよね。)
わたしは冷えた身体をにごり湯にゆっくりと浸からせていきながら、そんな事を思い、今更ながらに恥ずかしくなってきてしまった。
それからわたしが湯船に肩まで浸かり終えたタイミングで、浴室のドアが開いた。
湯気が立つ中で雨城さんの姿がハッキリ見えるわけではないが、わたしは伏し目がちになりながら浴槽の奥の方へと移動する。
そして浴室に入って来た雨城さんはドアを閉めると、「お湯加減はいかがですか?」と尋ねながら、湯船に足を入れ、わたしが入る浴槽の反対側にゆっくりと肩まで湯船に浸かっていった。
「温かいですよ。身体が冷えていたので、最初は少し熱く感じましたが、丁度良いです。」
わたしはそう答えながら、そっと雨城さんの方へ視線を上げて見る。
雨城さんはわたしと向き合うように湯船に浸かっており、上半身が胸から上の部分しか見えていないにも関わらず、初めての雨城さんの裸に、わたしはかなり緊張してしまった。
「予想外の雨に濡れてしまいましたからね。」
そう言う雨城さんの言葉から、先程の切なさが呼び起こされる。
わたしは湯船の中で三角座りをしながら膝を抱えると、「予想外の雨って事は、何処かにわたしのような人が増えたという事ですよね?」と、恐る恐る訊いた。
雨城さんはわたしの言葉に、1テンポ遅れて「···そういう事に、なりますね。」と言いづらそうに答えた。
「わたし···、恐くなったんです。本当は、今日一日が充実していたので、あとはもう思い残す事は無いかな、なんて···一瞬思ったんですけど。まだ実感は湧いていないのに、いざその日の事を考えると、やっぱり···恐くて。」
わたしがそう言うと、雨城さんは「それは、当然の感情ですよ。」と言い、わたしにそっと手を差し伸べてくれた。
わたしは差し伸べられたその大きく綺麗な手のひらの上に自分の手を乗せる。
すると、雨城さんはわたしの手を優しく握り締め、自分の方へと引き寄せた。
そうして、わたしは雨城さんの脚の間に入り、雨城さんに後ろから包まれるような形となって落ち着いた。
わたしは今、雨城さんに寄り掛かるように湯船に浸かっている。
後ろからわたしを包む広く厚い胸板に血管が浮き上がる男らしい腕。
わたしは全身で雨城さんの存在を感じながら、緊張の中にも胸が高鳴るようなときめきも感じていた。
「雫さん、一つ訊いておきたい事があるんですが、宜しいですか?」
すぐ後ろの耳元で響く雨城さんの穏やかな声に、わたしは密かに鼓動を跳ね上がらせながら「はい、何ですか?」と返事をした。
「雫さんの最期の日の前日、つまり、8月27日なんですが、その日はどうしましょうか?お休みを取って、何処かへ出掛けたり、何かご希望はありませんか?」
優しさを感じる雨城さんからの問い掛けに、わたしは小さく首を横へ振ると「いえ。」と答える。
そして続けて、こう答えた。
「前日は、いつも通りに過ごしたいです。朝起きたら、まず雨城さんの淹れてくれたカフェラテを飲んで、雨城さんの運転する車に乗って出社して、いつも通り仕事をして、仕事が終わったら雨城さんと一緒に帰宅して、二人でキッチンに並んで料理をして、食卓に向かい合って座って食べて···、夜寝る前は雨城さんの弾く”最後の雨”を聴いてから、雨城さんに包まれながら眠りたいです。」
わたしがそう言い終えると、雨城さんのわたしを包む腕に力が込められるのを感じた。
雨城さんはわたしを抱き締めると、わたしの右側の頬に顔を寄せ、「分かりました。」と静かに快諾してくれた。
そして、わたしはそっと雨城さんの吐息を感じる右側に顔を向ける。
すぐ傍にはゼロ距離程の雨城さんの整った顔があり、雨城さんの薄く潤む唇が視界に入ってきた。
そこから視線を上げると、その視線の先には雨城さんの優しくわたしを見つめる澄んだ瞳があり、その奥のチョコレート色をした瞳孔にはわたしを映し出していた。
雨城さんの優しげな顔を見ると、何だか穏やかな気持ちになっていき、それから途轍も無く甘えたい心情に襲われた。
お互いに何も言葉を発する事無く見つめ合う時が流れ、そこからどちらからとも無く顔を寄せ合い、顔の角度を変える雨城さんに合わせるように、わたしも顔を上げながら、雨城さんの頬に手を添えた。
自然と重なり合う唇は微かに冷たく、まだ身体の芯まで温まっていない事を知らせるようだ。
すぐに唇を離した短いキスだったが、お互いに目が合い、まだ足りないという気持ちを掻き立てられるかのような、雨城さんのその妖艶な瞳にわたしは頬に添えていた手を首の方まで伸ばした。
その瞬間にまるで我慢の糸が切れたかのようにお互いを求め合い、唇を重ねるわたしたちは、先程の、いや、今までのキスとは比べ物にならない程激しく、吸い付くようなキスを繰り返した。
まだ冷えていたと思った唇は、見る見る内に熱くなっていく。
そして、わたし自身も身体の奥深くから熱が込み上げてくるのを感じていた。
しかし、わたしは少し調子に乗り過ぎてしまったようだ。
(······あれっ?)
一気にクラ付く頭と揺らぐ視界。
その瞬間、わたしの異変にすぐ気付いた雨城さんは、唇を離すと「···雫さん?」とわたしの顔を覗き込んだ。
(あぁ···、これはダメなやつだ。)
そう思った瞬間に、わたしはフッと意識が飛んでしまった。
気付けばわたしはバスタオルに包まれながら、リビングのソファーの上に寝そべっており、まだぼやけ見上げた視界の中には、わたしに向けて涼やかな風を送る白いエアコンの姿が見えた。
「大丈夫ですか?」
そう言ってわたしの傍にしゃがみ込み、心配そうにわたしを見守る雨城さんは、わたしの額に冷水で冷やしたタオルを置いてくれた。
「すいません······」
わたしが自分を情けなく思いながら、そう謝ると、雨城さんは微かに首を横に振り「申し訳ありません。僕がやりすぎてしまいました。」と言い、小さく頭を下げた。
「いえ、わたしも少し調子に乗ってしまいました。」
わたしはそう言うと、恥ずかしさから笑って誤魔化す。
すると、雨城さんもわたしにつられて、クスリと笑っていた。
「ついつい、雫さんを求め過ぎてしまいました。」
「それは、わたしも同じです。」
そう言って、わたしたちは照れ笑いを浮かべ合った。
何とも情けなく恥ずかしい展開ではあったが、まだぎこちなさを残すわたしたちらしいとも思ってしまう。
それからしばらく休ませていただき、クールダウンしたわたしたちの耳に、突然何かが破裂するような大きな衝撃音が飛び込んできた。
「えっ、今の何ですか?」
驚きながら、少し身体を起こすわたしに、雨城さんは「あぁ。」と、その音の正体を知っているようだった。
「雫さん、起きられそうですか?」
「はい、もう大丈夫です。」
「では、こちらへ。」
そう言ってソファーから起き上がるわたしに、すぐ傍に置いてあった自分のワイシャツをわたしに羽織らせる雨城さんは、わたしがソファーから立ち上がる手伝いをしてくれた。
それから鳴り続ける大きな衝撃音を確認しようと、雨城さんに連れられベランダへと出る。
すると、そこからは···――――
「わぁっ···!綺麗ぇ···!」
マンションのベランダから見えるずっと向こう側に、キラキラと煌めく花火が上がって見えたのだ。
「今日が花火大会なのをすっかり忘れていました。」
そう言いながら、雨城さんは隣でわたしの肩に腕を回す。
何度も打ち上がる豪快で綺麗な花火に見惚れていると、何処からか「あ〜ら!あんたたちも見てたのぉ?」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。
その声にふと右側を向くと、そこにはお隣のベランダから顔を出し手を振る、賢司さんと純一さんの姿が見えたのだ。
「あっ!賢司さん!純一さん!」
わたしは久しぶりに見る賢司さんと純一さんの姿に心が弾み、笑顔で手を振り返した。
すると、「あら、やだ!」と言いながら、口元を手で隠す賢司さんが「あなたたち、もしかして事後?」と訊いてきたのだ。
「やだぁ!賢ちゃん、そんな事ストレートに訊いちゃダメよぉ!お隣さんには、お隣さんの事情があるのよ!」
そう言う純一さんの低音が響いたと思えば、賢司さんもハッと何かを悟るかのように「あら!ごめんなさい!」と謝っていた。
わたしも自分で気付くのが遅れてしまったが、わたしは今、バスタオルにワイシャツ姿だったのだ。
はたから見れば、どう見ても”事後”のように見えてしまうだろう。
「あ!いや!違うんです、賢司さん!これは!」
わたしは恥ずかしさから誤解を解こうと必死になったが、賢司さんは「別に恥ずかしがる事ないじゃな〜い?とっても大切な事よ!」と言い、全く誤解が解けぬままになってしまった。
「それより、みんな!花火、今のうちに見ておかないと、終わっちゃうわよ〜!」
純一さんのその言葉で、再びみんなの視線が花火に戻る。
「綺麗ね〜!」
「ここで花火大会が見れるなんて、最高ですね!」
「でしょ〜?これがこのマンションの一番の良いところなのよぉ!」
そんな会話をしながら、4人で見る初めての花火大会。
わたしの瞳には、しっかりと七色に煌めく花火が焼き付き、その最中に雨城さんがわたしの肩を抱く温もりもハッキリとわたしの身体は覚えたのだ。
今日は本当に最高の一日だった。
途中、思わぬハプニングもあったが、それさえも良い思い出に感じられる程、充実していて幸せな一日だった。
わたしがこの先、いつかこの肉体から離れる時がきても、この日の事はずっと忘れないだろう。
魂だけになってもこの思い出が消える事はない。
そう確信したのだった。
コメント
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第6話、読み終えました…!もう、胸がいっぱいです😢💕 水族館デートからお墓参り、ラーメン、そして突然の雨に一緒にお風呂…一つ一つのシーンが本当に優しくて、でも雫さんの「最後」を意識した言葉が切なく刺さりました。特に「最期の前日はいつも通りに過ごしたい」という台詞、涙が出そうになりました…。 そして最後の花火、隣のベランダから賢司さんと純一さんが出てきたのには思わず笑顔に。事後と誤解される流れ、最高でした😂 雨城さんの「嫉妬しました」からのキスシーンもドキドキしましたが、何より“お墓参りで初めてお父さんに雨城さんを紹介する”という静かな尊さが、このお話の根っこにある優しさを表している気がします。 冴木さん、本当に素敵なエピソードをありがとうございます。続きが気になって仕方ないです…!