テラーノベル
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#ファンタジー
#ダーク
遠くから、鼓膜を殴りつけるような怒号が聞こえた。乾いた秋の空気を震わせる、荒々しく不揃いな叫び声。それは訓練された騎士の洗練された号令ではない。怒りと焦燥、そして盲目的な熱狂が入り混じった、統制のない群衆のざわめきだ。
ラヴィニアは泥に塗れた顔を上げ、海緑石の目を細める。 騎士の号令ではない。自警団の荒れた声に混じり、土を踏み荒らす鈍い足音と、金属が激しく打ち据えられる硬質な響きが風に乗って届く。何かが叩き壊される音。血走った罵声。嫌な予感が、冷たい蛇のように胃の腑でのたうち、はっきりとした形を取り始めた。
白耀剣の主力は、アルベルトと共に森の奥へ姿を消した。現在、この崩壊した村に残っているのは、団長直属の精鋭騎士たちだけである。数はさほど多くない。パニックに陥った村全体を平和裏に抑え込むには、明らかに手駒が足りていない。
さらに――ソラスが使役していた自律人形たち。主である少女が森へ消え、その供給が絶たれた今も、彼らの核には”村人を守り、外敵を排除せよ”という単純な識別命令だけが呪いのように残っているはずだ。騎士と村人を区別し、決して守るべき対象を違えはしない。主を失ったまま、狂ったように命令だけを保持している兵器群が、村のあちこちにまだ残存しているはずなのだ。
最悪の推測が、確信へと変わる。
ラヴィニアは、半ば崩れ落ちた家屋の焼け焦げた柱に手を突き、軋む奥歯を噛み締めてゆっくりと立ち上がった。一気に視界が暗転し、膝が力なく震える。折れた肋骨が肺を突き刺すような激痛に、呼吸が浅く乱れた。それでも、彼女は両足で大地を踏みしめた。
足元に、騎士団の官給品である実戦用の長槍が転がっている。持ち主を失ったのか、鋭い刃は無傷のまま、鈍い銀光を放っていた。ラヴィニアはそれを拾い上げ、杖代わりに硬い土へと突き立てる。無残に折れた愛剣を腰の鞘に差し込み、血と泥を引きずるようにして歩き出した。
踏み荒らされた麦畑を抜け、村の中心部へ近づくにつれ、喧騒は物理的な暴力性を帯びて鼓膜を打つ。広場の惨状を視界に収めた瞬間、彼女は現在の絶望的な状況を即座に理解した。
半透明の腕を持つ氷の兵が、空気を凍らせながら騎士の白刃を真正面から受け止めている。土と泥で練り上げられた巨躯が、鈍重ながらも圧倒的な質量で盾ごと騎士を押し返す。関節を軋ませる木の兵が、ぎこちない挙動から致死の重い一撃を振り下ろす。その背後で、武器とも呼べない農具を握りしめた自警団の男たちが、血走った目で喚き散らしていた。
「聖女様を守れ!」
「騎士ども、そこを退け!」
「壊すな! 我らの守り神を傷つけるな!」
彼らは直接騎士に刃を向けてこそいないものの、狂信に突き動かされるまま騎士の進路を塞ぎ、陣形を乱し、無秩序に押し返している。結果として、精鋭たる直属の騎士たちは、前にも後ろにも身動きが取れなくなっていた。
彼らの剣技も連携も、王国軍でトップクラスに鋭い。だが、今は状況が悪すぎる。前方には魔力で動く無機質な質量の暴力。側背面には、決して斬り捨てることのできない統制不能な民間人。攻撃と防御、そのどちらも満足に選択できない、息の詰まるような膠着状態に陥っていた。
「下がれ! 巻き込まれるぞ!」
「押すな! 押すなと言っている!」
騎士たちの悲痛な怒声が響くが、熱狂した自警団の耳には届かない。人形たちはすでに主からの魔力供給を絶たれ、再生能力を失っている。破壊すれば確実に沈黙する。だが、致命の一撃を加えようとするたびに、村人たちが盾となるように前に躍り出るのだ。
終わりの見えない完全な膠着。そして、精神的にも肉体的にも、じわじわと騎士側だけが削り取られていく、最悪の消耗戦。
ラヴィニアは、大きく息を吸い込み、広場の泥濘へと力強く踏み出した。
「やめろ」
声そのものは、決して大きくはなかった。だが、研ぎ澄まされた刃のようなその声質に、広場で戦う騎士たちの意識が一瞬だけ、彼女の方へ引き寄せられた。血と泥に塗れた甲冑。腰に差された無惨に折れた剣。そして、長槍を握り締め、夜叉のように立つ副官の姿。
「ラヴィニア第三隊――いえ、副官!」
安堵と驚きの声が上がる。だが、戦場においてその一瞬の隙は致命的だ。氷の兵が騎士の剣を力任せに弾き飛ばし、土の兵が盾ごと陣形を押し込み、木の兵が騎士の頭蓋を砕かんと鈍い丸太の腕を振り下ろす。戦闘は止まらない。誰かが注意を逸らした分だけ、死の天秤が急激に傾いた。
ガンッ!!
ラヴィニアは、握りしめた槍の石突を石畳の地面に力の限り叩きつけた。腹の底を震わせる乾いた打撃音が、喧騒を裂いて広場に響き渡る。
「止まるな! 動き続けろ!」
空気を切り裂くような、鋭く絶対的な命令。その一声で、迷いに沈んでいた騎士たちの目の色に、軍人としての冷徹な光が戻る。ラヴィニアはそのまま、最も戦線が押し込まれている一角へ、槍を構えて肉薄した。折れた肋骨が絶叫するのを意志の力でねじ伏せ、渾身の力で槍を横薙ぎに払う。木の兵の関節部に硬い柄が叩きつけられ、ビリビリと重い衝撃が両腕に跳ね返る。バキィッ、と木片が弾け飛び、巨躯の体勢が大きく崩れた。
「包囲を広げろ! 自警団を巻き込むな! 距離を取れ!」
白耀剣の規格に則った、短く的確な戦術指示が飛ぶ。氷の兵が振り下ろした冷気の刃を、ラヴィニアは槍の柄を滑らせて柔らかく受け流し、そのまま足払いの要領で氷の脚部を刈り取った。重心を失い、地面に叩きつけられた氷の躯体へ向けて、すかさず別の騎士が追撃の剣を深々と突き立てる。
「核を壊せ! 対象はすでに再生能力を失っている!」
その明確な事実の提示が、騎士たちの動きから一切の躊躇いを消し去った。一方で、自警団の男たちはさらに激高して叫ぶ。
「やめろ! それはソラス様の兵だぞ!」
「壊すなと言っているだろうが!」
だが、ラヴィニアは決して振り返らなかった。
「下がれ! 死にたくなければ後ろへ下がれ!」
背中で怒鳴り返したその声は、もはや単なる威嚇ではなく、有無を言わさぬ絶対者の命令の響きを持っていた。村人たちの足が、その気迫に思わず竦む。
土の兵が再び騎士を押し込もうと迫る。ラヴィニアは地を這うように深く踏み込み、槍の穂先を地面すれすれに滑らせて、土くれの脚部を鋭く削ぎ落とした。泥の塊が崩れ落ち、重い躯体が大きく傾く。その隙を見逃さず、騎士たちが体勢を立て直す。
「三人一組を維持しろ! 突出せず、一体ずつ確実に落とせ!」
混沌としていた広場の動きが、彼女のタクトによって徐々に整っていく。
騎士たちはもう、無秩序に散らばらない。民衆の圧力に押し込まれない。自警団を波のように避ける滑らかな円弧を描きながら、自律兵を確実な死地へと追い詰めていく。
ラヴィニア自身も、痛む身体に鞭を打ち、決して動きを止めなかった。木片が宙を舞い、氷が砕け散り、泥の塊が崩れ落ちる。呼吸をするたびに肋骨が悲鳴を上げ、視界が白く滲む。それでも、槍を振るうたびに、指示を飛ばすたびに、泥沼だった戦況がわずかずつ、だが確実に騎士側へと傾いていくのが肌で分かった。
狂信による混乱はまだ完全に消えていない。だが、確かな統制がこの戦場に戻りつつある。その秩序の中心に、今、自分が立っている。その事実を、ラヴィニアは静かに自覚していた。
――これか。
ユスティナが、致命の隙を見せながらも、自分を殺さずに生かした理由。村人をこれ以上暴走させないため。騎士たちを無駄に消耗させないため。この狂気の連鎖を断ち切る楔として、自分をここに立たせるために。
ラヴィニアは血の滲む手で槍の柄を力強く握り直し、次なる泥の兵へと鋭く踏み込む。秋の冷たく乾いた風が、戦火と土埃に塗れた広場を、吹き抜けていった。
■
ラヴィニアがアルベルトという人間の本質を初めて知ったのは、彼の秀麗な顔立ちを見たからでも、その見事な剣筋を見たからでもなかった。”処罰”という、騎士にとって不名誉な言葉を通してであった。
まだ十歳になるかならないかの頃。冷たく厳格な石造りの騎士団本部へ、父への届け物を抱えて一人で向かった帰り道のことだ。薄暗い回廊の角を曲がろうとした時、重厚な扉の向こうから、大人たちの低い、どこか呆れたような声が漏れ聞こえてきた。
「アルベルトの奴、自分から申し出たらしいぞ」
「部下の不始末は自分の監督不行届きだ、とな」
「馬鹿正直な男だ。あんな泥を被る必要などないだろうに」
ラヴィニアは思わず足を止めた。騎士が、処罰される。その言葉の響きは、幼い子供心にもひどく重く、恐ろしいものに感じられた。
わずかに開いた扉の隙間から恐る恐る中を覗き込むと、広い執務室の中央に、一人の若い騎士が立っていた。彼は背筋を刃のように真っ直ぐに伸ばし、深く頭を垂れていた。上官からの厳しい叱責が飛ぶ中、彼は一切の弁明を口にせず、ただ岩のように静かにその言葉を受け止めている。
大人たちの話の断片から、事の次第は理解できた。規律を破り、軽率な行動を取ったのは彼の部下だ。本来ならば、その部下本人が責任を負うべき問題である。なぜ、悪いことをしていないこの人が怒られているのか。幼いラヴィニアには、その理不尽な光景がどうしても理解できなかった。
それでも、その若い騎士は一度も顔を上げなかった。声を荒げることも、誰かに責任を押し付けることもなく、ただすべての重圧を己の背中で受け止めていた。その静謐な姿が、なぜかラヴィニアの網膜に奇妙なほど強く焼きついた。
やがて処罰の言い渡しが終わり、上官たちが部屋を去っていく。ラヴィニアは柱の陰に身を隠し、息を潜めてその後の様子を窺った。
アルベルトがゆっくりと顔を上げる。そこで初めて、彼女はその顔を見た。理不尽な罰を受けたことへの怒りも、部下を恨むような悔しさも、そこには微塵もない。ただ、静かな湖面のような凪があった。それどころか、彼は部屋の外で青ざめて待っていた部下に向かって、静かに歩み寄り、こう言ったのだ。
「気にするな。次は間違えるな」
責める声ではなかった。慰めでも、上官としての建前でもなく、本気でそう言っていた。その瞬間、ラヴィニアの幼い胸の内で、曖昧だった”騎士”というものの輪郭がはっきりと形を結ぶ。
――これが、騎士だ。
腕っぷしが強いとか、剣術に秀でているとか、そういう薄っぺらいことではない。誰かの過ちを怒鳴り散らすでもなく、突き放すでもなく、己の責任として黙って背負い込める人間。それこそが、本当の意味での強さなのだと。
ラヴィニアは、柱の陰から動けなくなっていた。ふと、アルベルトがこちらの視線に気づき、目が合う。鋭い剣士の目を想像していた彼女は、その驚くほど穏やかで優しい瞳に思わず息を呑んだ。
「どうした?」
金属の触れ合う音をさせながら、彼は幼い少女の目線に合わせて、片膝を突いてしゃがみ込んだ。
「騎士団に何か用か?」
ラヴィニアは慌てて首を横に振り、無意識のうちに、小さな唇から言葉をこぼしていた。
「……騎士って、すごいんですね」
アルベルトは一瞬きょとんと目を丸くし、それから少しだけ照れたように笑った。
「そんなことはない」
「でも、さっき……」
言いかけて、言葉に詰まる。アルベルトは、自分が何を見られていたか悟ったのだろう。少し困ったように頭を掻き、真摯な声で言った。
「失敗なら誰でもする。大事なのはその後だ」
冷たい石の回廊に、彼の低く落ち着いた声が響く。
「守る側の人間は、誰かを責めるより先に自分を省みる。そうでないと、人は守れない」
その言葉は、ひとつの絶対的な真理として、ラヴィニアの胸の最奥にすとんと落ちた。同時に、顔がカッと赤らむのを感じた。その熱の正体が何なのか、十歳の少女にはまだ分からない。ただ、この人のような騎士になりたい。心の底から、そう強烈に願ったのだ。家に帰った彼女は、ドレスが泥で汚れるのも構わず、庭で無我夢中に木の棒を振り回した。
騎士になりたい。この人みたいな騎士に。
それが、彼女のすべてのはじまりだった。
血の滲むような修練を経て、彼と同じ騎士となり、隊長格にまで上り詰めてから、ラヴィニアはようやく気づくことになる。あの日抱いた無垢な尊敬の念が、いつの間にかとても深く、切実な別の感情へとすり替わっていたことに。
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