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まるで長い深呼吸を思い出すかのように、森は静かに息づいていた。ざわわ、と木々を揺らす葉擦れの音が、低く長く、どこまでも連なっていく。
すぐ外側では依然として自律人形と騎士、そして自警団が入り乱れる血生臭い戦の気配が渦巻いているはずなのに。アルベルトたちの立つこの空間だけは、さながら深い水底に沈み行く静寂に包まれていた。獲物を待ち構える敵意の兆しというより、明確な森からの合図。アルベルトは、兜の奥でゆっくりと顔を上げた。
「……ここから先は、俺一人で行く」
背後に控えていた配下の騎士たちが、弾かれたように息を呑む。
「隊長、単独は危険すぎます――」
「問題ない」
アルベルトは短く、しかし一切の反論を許さない声で制した。それは単なる上官としての命令ではなく、揺るぎない確信に基づいた宣言だ。重い鎧の軋む音をできるだけ殺しながら、彼は腐葉土を踏みしめて一歩ずつ森の深奥へと進み始める。
剣は、抜かない。
左手は腰の柄の近くに自然に下ろされてはいるが、決してそれに頼ろうとはしていない。それが、己の命を奪うことなく優しく拒絶してくれたこの森への、そしてその奥にいる少女への、最低限の礼儀であるように思えた。
踏み出すたび、湿った落葉はふわりと柔らかく沈み込み、隆起していた太い根は自ら退くように足場を譲る。不思議なほど、歩みは安定していた。先ほどまで、白耀剣の精鋭たちの進軍をあれほど頑なに阻んでいた森が、今はただ静かに、彼ひとりのためだけの”道”を残している。
選別されているのだ。アルベルトは、肌でそう理解していた。身につけた武装の鋭さでも、王国の騎士という立場でもない。ただ、刃を持たない純粋な心の在り方だけを、この世界が推し量っている。
やがて、鬱蒼とした木立の隙間がわずかに開けた。分厚い枝葉の天井から、細い金糸のような光が数本、スポットライトのように苔むした地面へと落ちている。
その淡い光の只中に――少女が、立っていた。銀糸のような髪は赤黒い血と泥に無惨に塗れ、まとう外套は鋭利な刃によって裂かれ、もはや布の名残でしかない。それでも、彼女の華奢な背筋だけは、決して折れることなく凛と伸びていた。その彼女の背後に身を隠すように寄り添う、小さな影。アルベルトの視線がそこに縫い留められる。
「……エルナ?」
思わず乾いた唇から声が漏れた。村から避難したはずの少女が、ソラスのボロボロの外套を小さな両手でしっかりと握りしめ、自分自身の足で確かにそこに立っている。
焦点の合った大きな瞳。そこにあるのは、魔女に操られた人形の虚無でも、圧倒的な暴力への怯えでもない。彼女自身の魂が宿った、明確な意志の光だった。あり得ないはずの光景が目の前にある。アルベルトは小さく息を吐き出し、ゆっくりと、その視線をソラスへと戻した。
「……こうして顔を合わせるのも、もう三回目になりますね」
森の静寂に溶けるような、穏やかで低い声だった。
あの黒煉瓦の尖塔で、冷たい雨の降る中で初めて会った日。村の入り口で、圧倒的な魔力の嵐を前に剣を交え、対峙した時。
そして――今。多くの血が流れ、状況は絶望的に狂ってしまったはずなのに、彼女との間に横たわるこの静かな距離感だけが、不思議と変わらない。ソラスは血に汚れた顔のまま、空色の瞳をかすかに細めた。
「そうですね」
激痛に耐えているのか息は荒く、華奢な肩はわずかに上下に揺れている。それでも、その声には以前のような危うい揺らぎはなく、底知れぬ泉のように澄んだ響きがあった。
「あなたは、毎回、剣を振るう前に……ちゃんと顔を見て、話そうとしてくれる」
とつ、とつ、と紡ぎ出されるソラスの言葉。アルベルトは、目を伏せて短く息を吐いた。
「剣を向ける前にまず対話の道を探るのが、本来の騎士の仕事ですから」
自嘲するようなその声が、冷たい土の上に静かに落ちる。頭上の葉が、ひときわ優しくさわわと揺れた。エルナの小さな指先がソラスの外套をぎゅっと力強く握り直す。その健気な仕草を見たアルベルトは胸の内で状況を完全に理解し、安堵した。
――戻っている。この子はもう、心を絡め取られてなどいない。ソラスは自身の絶大な魔力を制御し、自分の意志を完全に解放したのだ。
「……あなたが彼女にしたことを、責めるために来たわけではありません。確かめに来ました」
アルベルトは、静かに、しかしはっきりと告げた。 ソラスの空色の瞳が僅かに驚きに揺れる。
「……確認?」
「ええ」
彼は、傷ついた銀髪の少女を真っ直ぐに見つめ返す。
「あなたが、まだ、こちら側にいるかどうかを」
秋の冷たい風が、ふたりの間をそっと通り抜ける。そして――アルベルトは、一歩だけ、前へ歩み寄った。決して、彼女の警戒を煽るような境界線を踏み越えない、絶妙な距離で立ち止まる。
「保護しに来ました」
その言葉は相手を切り裂く冷徹な刃ではなく、凍えた者を暖めるために差し出された、厚く温かい手のひらのようだった。ソラスの細い呼吸が一瞬だけ止まる。同時に、周囲を取り囲んでいた森の空気もわずかに緩んだ。極限まで張り詰めた見えない糸が、ふわりとほどけていくのが肌で分かった。
「あなたは王国の討伐対象ではありません。少なくとも、俺の中では」
アルベルトは己の決意を世界に刻み込むように、はっきりと告げる。
「ここを秘密裏に離れてもらいます。我々が必ず逃がす」
ソラスは、長く、静かにアルベルトの顔を見つめていた。その視線は、彼の言葉の裏にある嘘や罠を探るものではなく、彼がどれほどの覚悟でその決断を下したのかを、ただ静かに確かめるためのものだった。やがて、血の気の失せた彼女の唇に、かすかな、本当にささやかな笑みが宿る。
「……王国の騎士様なのに」
消え入りそうな声で、小さく言う。
「そんな――不器用な顔をするんですね」
アルベルトは、その静かな指摘に何も答えなかった。ただ大樹のように揺るがず、彼女の盾となるべくそこに立つ。その不動の姿は、彼が腰に下げるいかなる名剣よりも雄弁に、彼の誠実さを物語っていた。
「時間がありません」
「……はい」
ソラスは、ゆっくりと頷いた。
「分かっています」
そして、ほんの少しだけ、過去の凄惨な記憶の呪縛から解き放たれたような、柔らかく美しい微笑みを浮かべた。
「三回目も……あなたで、本当に良かった」
祈りにも似たその言葉が、森の最奥の昏がりへと深く、静かに沈んでいく。頭上を覆う木々の梢を渡る風は、先ほどまで白耀剣の進軍を冷酷に拒絶していたはずが、今はひどく穏やかだった。まるで巨大な生き物が静かな呼吸を取り戻したかのように、ゆったりと枝葉を揺らしている。
厚い葉の天井から細い金糸のような光が幾筋も差し込み、湿った土と枯れ葉の匂いに溶け込んでいく。すぐ外側で血で血を洗う戦いが繰り広げられているとは到底思えないほど、この一角だけが神聖なほどに柔らかな空気で満たされていた。
アルベルトはその静謐な空気を乱さぬよう、重い鎧の軋む音を極力殺しながら一歩踏み出し、腰の剣に添えていた手を完全に離した。この場所では、鋭利な刃よりも、偽りのない言葉のほうがよほど強い力を持つと、彼はすでに理解していたからだ。
「要点をお伝えします」
低く落ち着いた声の奥に、急を要する切実な決意が滲んでいる。
「このまま北上してグリフ山脈の尾根を越えれば、森の外れに出ます。そこは古い狩猟道で、王国の地図にもほとんど記録がない。白耀剣の部隊はそこを知りませんし、仮に後から追おうとしても、この森が絶対に許さないでしょう」
アルベルトは視線を逸らさず、ソラスの澄んだ空色の瞳を真っ直ぐに見据えて言う。
「尾根の中腹には小さな岩場があり、そこの水脈で一息つけるはずです。そこから降りた先には、こちらで手配した荷駄が待機しています。名目は軍の物資輸送ですが、実際は……あなたを乗せて、この地から完全に離脱させるためのものです」
一瞬だけ、言葉の重みを噛み締めるような間が空いた。
「王命に背くというわけではありません。事後報告書には、森の異常な魔力干渉により追跡は不可能、対象は所在不明と記します。それ以上の詮索をする者は、俺の隊からは決して出しません」
それは、王国の騎士としての責任と、一人の血の通った人間としての判断が、何の矛盾もなく綺麗に重なり合った声だった。ソラスは黙って彼の言葉を聞いていたが、やがてゆっくりと長い睫毛を伏せ、血と土に汚れた指先を胸の前でわずかに握りしめた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな、だがはっきりとした声だった。
「前のときも、今回も。あなたに、また余計な選択をさせてしまった」
かすかに震える呼吸。
「私が、もう少し上手に生きられていたら。こんなふうに、あなたや誰かを板挟みにして苦しめずに済んだのに」
アルベルトは即座に首を横に振った。その動きには一切の迷いがなく、むしろ彼女の自責を断固として否定する強さがあった。
「違います」
声が一段と強い熱を帯びる。
「これは、あなたの責任などではない。異端を恐れて短絡的な制圧を選んだ騎士団の――そしてこの国の責任です」
森の昏がりを見渡す彼の端正な横顔には、深い悔恨と自省の影が落ちていた。
「守るべきものを見誤り、対処の仕方を根本から間違え、結果として……あなたというたった一人の少女に、世界のすべてを背負わせてしまいました。本当に謝るべきは、我々の方だ」
ソラスははっと顔を上げ、彼の真摯な瞳をまじまじと見つめ返した。
「……ありがとう」
かすかな微笑みを湛えたその言葉に、アルベルトは何も言い訳を返さない。ただ静かに大樹のように立ち、彼女の言葉の重みから逃げずに受け止めた。その静かなやり取りの間、背後でずっとソラスの外套を握りしめていたエルナが、堪えきれなくなったように一歩前へ出た。
「……嫌だ。私も行く」
エルナは、指先の関節が白くなるほど、ボロボロの布地を強く握りしめている。
「今度は、私が一緒についていく。一人で置いていかれるのなんて、もう絶対に嫌だ」
その震える声には、哀しみよりも先に、理不尽な世界に対する強い怒りがあった。ソラスは一瞬だけ悲しげに目を伏せ、それからゆっくりと振り返り、エルナを見つめた。自身の激痛を隠すような、ひどく柔らかく、優しい微笑み。
「だめだよ」
叱るでも、冷たく拒絶するでもない。ただ、春の陽だまりのように撫でる声音だった。エルナの顔がくしゃりと歪む。
「だって……! だって、あの人たち……!」
エルナの視線が、アルベルトの方へ鋭く向く。そこにあるのは、あからさまな拒絶と警戒だった。小さな肩が強張り、無意識に足が半歩だけソラスの背後へ引かれる。
「お姉ちゃんを、あんな風にして……血を、こんなにいっぱい流させて……!」
言葉にならない激しい感情が、細い喉の奥で詰まる。
「もう、あの人たちがいっぱいいるところになんて、戻りたくない……!」
ソラスは震えるエルナの手を、泥に汚れた自身の両手でそっと包み込んだ。恐れで冷え切った指先を、自らの体温でゆっくりと温めるように。
「このアルベルトのお兄さんはね」
エルナの敵意に満ちた視線が、わずかに揺れる。
「私とエルナを、本気で助けようとしてくれているの」
静かな、けれど揺るぎない確信に満ちた声だった。
「本当は……こうしてここまで来るだけでも、お兄さんにとってはすごく危なくて、怖いことなんだよ」
エルナは血の滲むほど強く唇を噛む。
「でも、騎士でしょ……」
「うん。騎士だよ」
ソラスは小さく頷く。
「だからこそ、自分の命を懸けて、出来ることをしてくれているの」
静寂に包まれた森の中で、その言葉は不思議なほど真っ直ぐに、エルナの心に、そしてアルベルトの胸にも響いた。
「騎士だからこそ、エルナを安全に、村へ帰すことができる。私には……もう、それが出来ないから」
エルナの大きな瞳に、明確な迷いが生まれる。怒りと、理解と、どうしようもない感情の濁流がぶつかり合っている。
「でも……」
「私はね、ここから先、人の道じゃないところを歩くの」
ひどく優しく、しかし一切の曖昧さを残さない、残酷なほどの決意だった。
「エルナは、明るい人の道を歩いていいんだよ。ううん、歩いてほしいの」
その決定的な別れの言葉に、エルナの瞳からついに堪えきれなくなった涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「ずるい……」
掠れた、幼い子供のような声。
「お姉ちゃんばっかり、いつもそんなふうに……」
ソラスは、本当に困ったように、泣き笑いの顔を作った。それはかつて平和だった村の広場で見せていた、ただの”行商のお姉ちゃん”としての笑顔と何も変わらなかった。
「エルナが帰る場所を、絶対に守ってくれる人がいる。だから、安心して預けられるんだよ」
ソラスの空色の視線が、真っ直ぐにアルベルトへ向く。彼は何も言わず、ただ静かにその視線を受け止めて立っている。その姿勢には、言葉以上の絶対的な誠実さだけが宿っていた。ソラスはもう一度、エルナの柔らかい髪にそっと手を置いた。
「お願い。あの人と一緒に行って」
エルナは激しく首を振りかけ、ぴたりと動きを止めた。額に触れるソラスの掌の微かな温もり。その優しい手が、もうすぐ自分から遠く離れてしまうことを、魂の深い部分で理解してしまったからだ。
「……ソラスは?」
「私は、大丈夫」
どこまでも優しい声だった。けれど、その強がりが孕む”本当の意味”は、エルナにも痛いほど伝わってしまう。
それでも。エルナは泥だらけの袖で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと頷いた。心から納得したわけではない。それでも、大好きなお姉ちゃんが心からそれを望むのなら、と。ソラスの外套を握りしめていた指先の力が、少しだけ、本当に少しだけ緩む。それを確かめるように、ソラスはエルナの小さな手からそっと自分の手を離した。
アルベルトの分厚い背中に守られるようにして遠ざかっていくエルナは、木立に姿が隠れるまで、何度も何度も振り返った。その度に、ソラスは泥に汚れた顔に優しい微笑みを張り付け、同じ場所に立ち尽くしたまま、ゆっくりと手を振り返し続けた。
泣き出しそうな顔を必死に堪え、それでも自らの足で歩みを進める小さな背中。鬱蒼とした木々の合間に見え隠れし、やがて深い森の暗がりへと完全に溶け込んでいく。最後に揺れた枝葉が静まり、森が元の深い静寂を取り戻しても、ソラスはしばらくの間、彫像のようにそこから動けなかった。
宙に浮かせたままの手を、力なく下ろすまでに、ひどく長い時間がかかった。先ほどまで彼女の掌を包み込んでいた、あの小さな命の温もりが、まだ指先に残っているような気がしてならなかったからだ。
やがて、胸の奥に溜まっていた重い息を、細く長く吐き出す。そして、空色の瞳を真っ直ぐに北へと向けた。アルベルトが示した逃走のルート。尾根の正確な位置は、教えられずとも森が形作る影の濃淡だけで手に取るように分かった。木々の複雑な重なり方、差し込む光の角度、地面の微かな傾斜。その全てが、どんな精巧な地図や言葉よりも確かに、彼女が進むべき道筋を指し示している。
ソラスは、重い足を引きずるようにして歩き出した。彼女が足を踏み出すたび、行く手を遮る枝が自ずとしなやかに道を空け、隆起していた太い根が躓きを避けるように腐葉土の下へ沈み込む。木漏れ日の落とす影が、傷ついた彼女の足取りを労るように寄り添っていた。
この森は彼女を拒まない。完全に、彼女の意志と同調していた。