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夜の風が肌に貼りついていた。玄関のドアを閉めたとき、家の空気はまだ背中にまとわりついている気がした。
足だけが勝手に動いて、気づけば自販機の前にいた。
──冷たいものを飲みたかったんじゃない。ただ、家の中じゃ呼吸できなかっただけだ。
小銭を落とし、炭酸を一本押す。
缶が落ちる音と、機械の唸り声。
そのすぐあと、もうひとつ、足音。
「……おまえ、まだここ住んでたんだ」
その声に、手が止まる。
振り向かなくても分かった。日下部だった。
Tシャツに薄い上着。ジャージのズボン。風呂上がりか、部屋着のまま出てきたような格好だった。
「……は?」
声が乾いていた。意味も聞き返せず、ただそう漏れた。
「いや、たまたま。オレんち、近くだからさ」
「昔みたいだな。コンビニの帰りに、よくこうやって──」
「……何しに来たんだよ」
「転校? ああ、いろいろ。まあ……こっちの方が都合よかったんだろ、親的に」
遥は缶を拾い上げ、開けた。シュッと音がした。
泡の弾ける感触が、喉に刺さって気持ちいい。
「……元気そうだったな、今日」
「いや、なんつーか……よく喋るなって思ってさ。前より」
遥の手が、かすかに止まる。
「知らねえだろ。前がどうだったかなんて」
「いや、知ってるよ。……ずっと見てたわけじゃないけど」
「……」
「声、低くなったよな。ちょっと」
日下部の言葉は、どこまでも自然だった。
なのに、遥の背中を撫でるように刺してくる。
「……そういうの、いちいち言わなくていい」
「そっか。悪い」
「ただ、久しぶりだなと思っただけ」
日下部は缶コーヒーを買って、開ける。
ふたり並んで、しばらく無言だった。
「……まだ、あの家なんだな」
遥は、缶を傾けたまま動かない。
言葉の意味は、わかっていた。
口にしないくせに、ちゃんと刺してくる。
それが、日下部だった。
「──それだけ、言いに来たのかよ」
「いや。たまたま通りかかっただけだって。信じねぇか?」
「……別に」
日下部は苦笑して、缶を軽く振った。
「ま、信じなくていいよ。でも、ちゃんと見てたよ。今日の教室で」
「おまえが誰にも引かずに言い返してるの、意外だった」
遥は答えなかった。
代わりに、ぐっと缶を飲み干して捨てる。
「じゃ、帰るわ。……また明日、学校で」
日下部はそれだけ言って、歩き出す。
背中越しに、軽く手を上げただけの別れ。
遥はそこに残されたまま、しばらく缶の投入口を見つめていた。
──知ってる。あいつは、あの家のことを。
だけど知らない。“今”のことは、何ひとつ。
それが怖いのか、苛立つのか、自分でもよくわからなかった。