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月子はどこか不機嫌な岩崎を気遣い、そっと部屋の襖を開けた。
岩崎は、部屋着に着替えることもなく文机に向かって頭を抱え込んでいる。
何か難しい事を行っている様に見えた月子は、黙ってお握りの乗った皿を入り口近くに置くと邪魔にならないよう立ち去った。
襖をそっと閉めたが、あれだけのお握りだけでは、きっと足りないだろう。茶も必要だろう。と、慌てて居間へ戻り、岩崎様に食べ物を取り揃えようとしたのだが……。戻ってみると、食事をしているはずの二代目とお咲の姿がない。
さっきまでいたはずなのにと、月子は驚くが、よくよく見れば、二人揃って布団の中で寝息をたてていた。
二代目は、そもそも寝ていた。お咲も、疲れが出て寝てしまったのだろうか。
すると。
「梅ーー子ーー!」
「にくーー太ーー郎ーー!!」
布団の中から、めちゃくちゃな声がする。
二代目が寝言を言い、お咲も続いて、あぁーあぁーーと、唄声のようなものをあげている。
二人とも相当眠り込んでいるようだと月子は、吹き出しそうになりつつ、重箱の中身を詰めなおして岩崎の為に一人分の弁当を用意した。
茶と一緒に盆に乗せ、居間をそっとぬけだすと再び岩崎の部屋へ向かった月子は、廊下に空の皿が出されてあるのを見る。
岩崎が、お握りを食べたということで、やはり、空腹だったのだと月子は確信し、邪魔にならないよう襖をそっと開けると弁当が乗った盆を差し入れる。
岩崎の都合の良い時に食べるだろうと思い、その場から立ち去った。
それから簡単に食事を済ませ、片付けをし、戸締り、火の元の確認などなど休む前の決まり事を終え、月子も部屋で眠りについた。
襖を隔てた向こう側、岩崎の部屋は、いつまでも明かりが灯っていた。
そして、朝──。
月子が台所へ行ってみると、二代目が、お咲に指示をだしながらパタパタ動き回っていた。
「おっ!月子ちゃん!もっとゆっくりしてればいいのに!味噌汁できてるよっ!」
瓦斯台《がすだい》に乗った鍋から、湯気と共に芳しい香りが流れている。
お咲は、たどたどしくも各々の箱膳に茶碗や箸を並べていた。
「あ!!田口屋さん!申し訳ありません!」
月子が起きる前になんと二代目が朝餉の支度をしていた。
大失態と月子が慌てていると、眠そうな様子の岩崎が現れた。
「えぇぇ!!!京さんっ!!!なんだいっ!そ、それっ!ひげ、髭!なんでっ!!」
ひいいーーと、悲鳴をあげる二代目に、
「二代目、お前何をやってるんだっ?!」
岩崎も驚いている。
「おひげはね、お咲が抜いちゃったんだよーー」
どこかしょんぼりしながら、お咲が二代目へ言った。
「抜いたぁぁっっ?!」
裏返った声を出す二代目に、岩崎は、少し呆れた。
「何を驚いている。昨日から、髭は無い。二代目、お前も見ているはずだが?」
「えぇぇ!!!そうなのかいっ?!昨日から?!」
気がつかなかったと、二代目は一人おののき、岩崎は静かにしろと叱りつけ、台所は騒然となる。そこへ、居間の柱時計がボーンと鳴った。
「いかん、遅刻してしまう」
「ほい!弁当!」
「すまんな!二代目!」
曲げわっぱの弁当箱を手渡された岩崎の動きが止まり、直ぐにいらん!と言い放つ。
「えー!京さんの好きな卵焼きも入ってるぜ!」
「二代目!お前が食べろ!」
岩崎は全力で弁当箱を突き返すと、食事はかまわんと言い放ち、出勤の準備の為に再び部家へ戻ろとするが、
「月子は、ゆっくり朝餉を食べなさい。あと、昼からお咲を音楽学校へ連れて来てくれ!」
大声でまくし立て、岩崎は遅刻すると言いながら出勤準備に取りかかろうとする。
言われた月子は、演奏会の事を思い出した。そうだ。突然の繰り上げにより、皆、大わらわになっていたのだ。陣頭指揮をとるはずの岩崎は特に今日から忙しくなる。
学生達への対応、演奏の指導もあるはずだ。加えて、そう、お咲の練習も始まる。
ああ、そうだったと、これから始まる忙しさを月子は思う。
「おしっ!俺が学校まで送り届けるわ!」
二代目が岩崎へ言った。
一瞬、不本意そうな顔を見せた岩崎だったが、やむを得まいと呟くと、どたどた廊下を進んで部屋へ着替えに行った。
こうして、岩崎は朝餉無しで、バタバタと出勤した。
見送りながら、月子は、もう少し早く起きなければと落ち込んだが、それを察したのか一緒に見送っていた二代目が、
「月子ちゃん!うるさいのもいなくなったし、飯にしようぜ!」
軽い口調で月子を誘い、続けて、弁当を作ってやってくれと言って来る。
「俺の作った弁当じゃあ、だめなんだよ。あれはなっ、月子ちゃんが作った弁当がいいってことさ」
まいったねぇ、のろけてくれて、などなど、二代目は調子づき、味噌汁が冷めちまう!と、バタバタ廊下を走り台所へ向かった。