あの日から毎日、狂ったように刀を打ち続けた。それはもう鉄穴森さんに「〇〇少女が勝手に先々進むせいで私の仕事が少なくなったじゃないですか」「協調性がない人は好かれませんよ」なんて、ちくちく愚痴を言われるほどに。
それでも、あの日の時透さんの微笑みと言葉を思い出すと、動かずにはいられなかった。
その結果が今。仕事を早く会わらせすぎたせいで、ぽっかりと時間が空いてしまった。
─…やることが、なにもない。
空に広がっていく赤い夕焼けをぼんやりと眺めながら、私はふっと息を吐く。
生憎、鉄穴森さんは何かの用事で出掛けてしまったし、道具の手入れも終わらせてしまった。
せっかくだから前の里で会ったきりの炭治郎さんにも挨拶しておきたかったが、音柱様の稽古に参加したばかりらしく今は会えそうにない。
時間は有り余るほどあるというのに、視界いっぱいに広がる屋敷の景色を眺めること以外にすることがないという生き地獄のような現実に、私はまたもや深いため息を零す。
『時透さんも忙しそうだしなぁ……』
小さく息を吐きながら何も考えずにただただ目だけを動かしていると、不意に周りの空気がお気に入りの毛布に包まれているかのように心地よくなり始めた。
隊士たちの声や木刀を打ち合う音がどこか遠くに感じられ、意識だけがふわりと浮いていく。それと同時に、薄っすらした淡い眠気が体をよぎった。
あ、だめだ、眠い。
そう思った瞬間、体中の力が抜けてぺたりと床に倒れ込んでしまった。瞼が下がっていく。
暖かくて、ひんやり。
そんな不思議で心地よい感覚を最後に、私の意識は途切れた。
─…どれくらい経っただろうか。
知らない場所――ではない。馴染みのある空気。だが、いつもと違う気配があった。
「起きて」
低く優しい声が耳のすぐそばで聞こえてきた。誰かに体を軽く揺さぶられている気がする。
『ん……』
眠気を含んでいる自身の目を擦りながら、私はうっすらと瞼を開けた。
視界の端に映る空は黒く染まっていて、白く細かな光がキラキラと夜空を照らしている。
そんなどこか神秘的な景色を眺めながら、喉奥から湧き上がってくるあくびを奥歯で嚙み殺し、肌を撫でる夜風の心地よい感触に思わず目を細めたその瞬間。ぼんやりとした視界の中で誰かの影がうっすらと浮かび上がってきた。
誰だろう。と更に目を細め、現実の輪郭を取り戻した次の瞬間。私の体は、一気に覚醒した。
『……へ?』
「起きた?」
先ほどと同じ低い声が自身の鼓膜を揺らした。さっきよりもより近く、鮮明に。
まさかの。よりにもよって。
『時透…さん……?』
こちらを見つめるビー玉のように大きくて澄みきった目の前の彼の青い瞳が、口をぽかんと開けて驚く私を映し出す。こくんと彼が頷いた拍子に軽く揺れた黒い髪は、お風呂上りなのか少し濡れていて、ところどころ首筋に貼りついている姿が妙に色っぽかった。
『な、ななななんでここに…!?』
「ここ僕の屋敷」
さらりと告げられた言葉に「アッ」と言葉にならない叫びが喉の奥でつっかえた。
そういえばそうだ。なんてところで寝てしまったんだ私は。
サァーッと血の気が引いていくのを感じながら、私は勢いよく立ち上がる。
『本当にすみませんでした以後気をつけます失礼しま……アッ』
叫びながら頭を下げ、急いでその場を去ろうとしたその瞬間。自身の着物の裾を踏んづけてしまう感覚とともに、景色が傾いて、空と地面がぐるりと入れ替わった。感情が追いつくよりも先に、世界がスローモーション再生されたかのように動きが遅く感じ始めた。
―…あぁ、やばい。転ぶ。
自分の服の裾に自分が躓く。しかも好きな人の前で。そんな世界で最も恥ずかしくて救いようのないタイプの転倒に目を閉じ、すべてを諦めた次の瞬間。
「……っと」
重力に引かれていたはずの体は、いつの間にか時透さんの腕の中に抱きとめられていた。
“え?”と思うよりも先に、彼の体温が着物の布越しに伝わり、心臓の鼓動のように規則正しい吐息がすぐそばで聞こえてくる。状況の展開が上手く呑み込めず、困惑したまま恐る恐る顔を上げると、視界が勝手に時透さんの顔だけに焦点を合わせた。
肩が触れるどころか抱きしめられているような体制、そんなあまりの距離の近さに胸の奥がぶわりと揺れ、落ち着きのないリズムで鼓動が跳ね始める。
「大丈夫?」
驚きで固まる私を抱きかかえたまま時透さんはまるで何事もないかのようにさらりと言ってのけた。こっちは心臓バクバクで、寝起き特有のぽやぽやと困惑で爆発寸前だというのに。
そんな冷静すぎる彼の目に晒されている自分が消えてしまいたくなるほど恥ずかしい。
『す、すみません。ありがとうございました』
何かの余韻を持ったようにフルフルと震える唇で何とか謝罪と感謝の言葉を告げ、ゆっくりと彼から体を離す。もっと他に何か言わなきゃっと思うのに、自身の心臓の音がうるさすぎて、思い浮かぶ文字は言葉にする前にどこかに吹き飛んでしまった。
何とも言えない沈黙が私たち二人の間を埋める。時透さんももう自室に戻るだろう。これ以上話すことがないのかと思うと、言葉に出来ない寂しさに胸がギュッと締めつけられた。
そんなことを感じるくらいなら何か言えばいいのに。そう思うのにそれすらできなかった。
「……何か話す?」
すると突然、張り詰めた空気を押し分けるように、ぽつりと言葉が落ちた。
驚いて顔を上げると、縁側に座ってこちらに見つめる時透さんの姿が視界に入った。
その場から去ろうとせず、私のことを待ってくれるその姿に、何かが弾けたように激しい喜びが心に沸き起こって自然と口角が緩んでいく。
『……はい!』
私のわがままに気付いてしょうがなく一緒に居てくれるだけだろうが、彼のその優しさが嬉しくて胸がじんわりと温かくなった。
最初は「小鉄くんたちの怪我の具合はどうか」から始まって、「なんで刀鍛冶になろうと思ったのか」など、時透さんは思いのほかたくさん喋りかけてくれて、それに私が答えるというのが続いた。会話の合間に生まれる何気ない一言に毎回胸の奥がじわっと熱くなって、変な声が出ないようにするのが大変だった。たぶん、彼には気づかれていたけど。
『時透さんは?やっぱり代々鬼殺をやっている名家の出なんですか?』
ふと、会話の流れで聞いてみた。確か彼は“始まりの剣士の子孫”なのだと、某鎹鴉が言っていた気がする。炎柱様である煉獄家のように、呼吸を受け継いで、今世まで辿り着いてきたのだろうか。
「いや、鬼殺について知ったのは11歳のころ」
そんなことを考えている間に放たれた彼の言葉に、私は耳を疑った。
「それまではずっと鬼殺隊とは離れた場所で双子の兄と暮らしてた」
「鬼に殺されて死んじゃったけど」
静かなその一言に、私はヒュッと息を呑んだ。指先に力が籠り、爪が肌に食い込む。
─…過去の話。それもきっと時透さんにとって最も痛ましく、悔いの残る記憶。
「僕が鬼殺隊に入ったのはその後だよ」
独り言に近い声で話す彼の表情に落ちた暗い影を見た瞬間、ハッと我に返る。
鬼殺隊に入隊している半分以上の人たちは、鬼に身内や大事な人を殺された人たち。
そんな辛い過去を思い出させるような質問をしてしまった自分に血の気が引き、急いで謝罪の言葉を紡ごうとした瞬間、被せるように時透さんが口を開いた。
「つい最近まではそんな兄のことも忘れてたけどね」
まるで別の人のことを喋っているかのように淡々とした口調で言葉を紡いでいく彼は、いつもと同じ何を考えているのか分からない表情を浮かべたままぼんやりと虚空を眺めていた。場を明るくしようと声を高くすることも逆に感傷に浸るように低くすることもなく、一定の調子で自身の記憶のことや兄との思い出を話す時透さんを黙って見つめる。
「思い出せたところで結局、何もしてあげられなかったけど」
まるで記録用の音声のように、淡々と続けられる声。
そんな言葉のあと、しばらくまた沈黙が落ちた。時間が止まったような静けさの中、互いの呼吸だけが聞こえ、胸の奥で何かが壊れそうに震える。
両親を失い、その一年後に双子の兄も失った。そのショックで記憶を無くし、何もかも忘れたまま刀を握って、今までずっと一人で鬼の頸を斬ってきた。
それが彼の“これまで“だと理解したとき、心に鈍い痛みが走り、小さな刃のような痛みが胸に突き刺さった。
手を伸ばしたら、壊れてしまいそうで。声をかけたら、遠ざかってしまいそう。そのくらい、彼の声も所作も、淡くて、掴みどころがなかった。
『……“思い出してくれた”。私だったらそれだけでとても嬉しいです』
一呼吸分置いたあと、私は慎重に言葉を吐く。精一杯平静を装ったつもりだったが、声の震えは隠せなかった。
本当はもっと違う言葉を選びたかったのに。私は優しい言葉も、気の利いた慰めも、炭治郎さんみたいにうまく伝えられない。だって普通の会話すらもまともに出来ないんだもん。
『思い出せてよかったですね』
結局、声にできた言葉はそれだけだったが、私の中では一番の本音だった。
コメント
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まじくうのスト文才がありすぎてこっちまでドキドキしてくる🥹💕 友達に恋してる時の人間のIQってチンパンジーなみって聞いたけど、夢主ちゃんそんな感じ?笑
今回もとてもドキドキしました! 次回も楽しみにしています!
夢主ちゃんが転げそうになったとき 時透さんが支えてたのこっちまで めちゃはわはわした^> <^