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「そ……それ、言わなきゃダメですか?」 ミルヴェイユの椿美冬から『事情』を聞いた時、槙野は笑ってしまった。
創業者である祖父に業績か結婚か迫られていて、どちらかを実施しないと社長を降ろされるんです……と項垂れていた。美冬は表情が活き活きとしていて、思っていることが全部顔に出てしまうような女性だ。
元気が良くて、正直で、そして仕事のことばかり考えている。
そうしてふと、槙野は思った。
これはもしや、お互いに条件に合うのでは?
気持ちがあってもなくても、お互いにパートナーを必要としている状況。
「槙野さん助けてくれますか?」
そう言った時の美冬は……なんというか瞳の揺れる感じすら女性だと感じた。守りたいと一瞬思ってしまったのだ。
最初は甘やかされて社長になったお嬢様なのかと思っていた。けれど、美冬はいつも一生懸命で、真剣な顔をしたり瞳をキラキラを輝かせたりする。
けれど、美冬が槙野を苦手に感じていることも槙野は分かっている。
「それなら、いっそ契約婚でもするか?」
そんなことを言ったって、絶対に了承なんかしないだろう。
美冬は槙野に対して最初から怖くて怯えていたのは分かっていたし、槙野の場合、こちらが怒っていなくても、場合によっては相手を怖がらせてしまうことがあることは過去にも経験済みだ。
だから断られる前に書類を手にして立ち上がって背を向けた。
こちらが好意を持っている相手に怖がられることほどつらいことはないからだ。
ガシッとスーツの腕を掴まれた時は何が起きたか分からなかった。
振り返ると、低い位置にある美冬の整った顔がこちらを必死な表情で見ている。
童顔だけれど、お人形のように整っている顔。
好みで言えば外れている。
槙野は仕事で成功してからは取り憑かれたように派手な女性たちと付き合った。中には良い子もいたけれど、そんな時自分の方が本気になれなかったりして縁はできなかった。
最近良いなと思う女性が、おとなしそうでたおやかな人に目が行くのは、親友の結婚の影響もあるのかもしれない。
こんなに破天荒で元気な女の子!といった感じの美冬は槙野の現在の好みからも外れる。
なのに必死な美冬はやけに綺麗で。
「なんだ?」
顔なんて見れなかった。
だからぎゅっとスーツを握った美冬の手元を見ていたのだ。
そこへ小さく聞こえた声。
「……待って……」
「なに?」
緩く髪をかきあげた槙野は美冬を見る。
すると、美冬はキッと顔を上げた。
「するわ……」
「は?」
(するって、何を?)
「するわって言ったのよ。契約婚、する」
「お前……なに考えて……っ」
気持ちなんてないくせに。
槙野のことが苦手で怖いくせに。
「自分が言ったのよ! 責任とってもらうから」
槙野はチッと舌打ちをするのを止められなかったのだけれど、華奢な美冬を思う存分抱きしめるのを止めることもできなかった。
大人しく腕の中に納まる美冬はいざ抱きしめてしまうと、もっと欲しくなった。
「全くお前は……。覚えてろよ」
だから思うさま唇を重ねて、奪うようにキスをした。もう二度とこんな機会はないかもしれないと思ったら、なおさら自分の衝動を止める事なんてできなかった。
思ったよりも甘くて柔らかい唇だった。ふんわりとして柔らかい身体は抱きしめるときゅっと自分の中に納まる。
無理に奪っているはずなのに、求めているかのように美冬が身体を預けてくるから。
美冬が頑張っているのは分かっている。そんなのは槙野が書類を確認したら分かることだ。
自分の庇護下に置くのなら、そんなことで苦労はさせない。
重い荷物は自分にも渡してもらう。それが夫婦なのだから。例え契約婚であっても、だ。
美冬だけがしんどい、つらい思いをさせるようなことは槙野はしたくない。
「だったら、お前が持っているその重荷は……俺にも渡してもらうからな!」
そう伝えずにはいられなかった。
まさかぼうっとしていた美冬が意味をほとんど理解していないとは思わなかったが。
「悪いな美冬! ミーティングが長引いた」
祖父に挨拶に行く日のことである。
そう言って病院のロビーにいた美冬に足早に寄ってきた槙野はものすごく目立っていた。
美冬は最初は怖いと思ったけれど、こうして見るとキリリとした槙野の目元は印象深くて悪くないかもしれない。
ロビーの中には槙野のその整った風貌と、スマートなスーツ姿にくぎ付けになっている女性が何人もいる。
つい、美冬は近寄ってくる槙野をじっと見てしまった。
「どうした? 怒ってんのか?」
「いえ……槙野さんって目立つのね」
「その言葉そっくり返そう」
槙野がロビーに入ってきたとき、美冬は目を伏せて時計を見ていた。長いまつ毛が目元に影を作っていて、そのうつむいた仕草が綺麗で自分のほうこそロビーの注目を集めていたのに、気づいていないのだろうか。
さらりした茶色のロングヘアにベージュのスーツと、紺色のブラウス、首元の品のあるパールのネックレス。零れ落ちそうに大きな瞳は相変わらず表情豊かだ。
槙野を見つけた時、美冬の口角が少しだけきゅっと上がったのがとても愛らしくて、そんな表情を向けられたことに喜びを感じなかったといえば嘘になるのに。
贅沢を言えば、満面の笑顔で迎えてくれたら嬉しいけれど、そんなことは夢のような話だ。
けれど、契約婚を決めたことを槙野は後悔はしていない。
契約でもなんでも、手に入れたものは大事にする主義だ。
それに槙野は割と好き嫌いがはっきりした性格でもある。美冬には好みじゃないと言ったけれど、気に入ってはいるのだ。
「そうだ。美冬、契約というのは二人だけの間の話でいいな?」
「うん。もちろん」
目の前に立つ槙野を見上げて、美冬は頷いた。
契約婚は海外ではセレブの間でも割とメジャーであったりはする。