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結婚前に契約を交わし婚姻するのが契約婚なのだが、日本ではまだあまりイメージがよくないし、そんなこと他人に公開することでもない、とは美冬も思っていた。
「……とは言え突然に結婚とかいうのも不審に思われそうだな。俺が一目惚れしたことにしておくか」
あっさりと槙野がそんなことを言うから、美冬はどきんとしてしまった。
そんな気持ちを押し隠してつい口をつくのは可愛くない言葉だ。
「好みじゃないのに?」
「俺の演技力にビビれよ?」
「大根じゃないことを祈るわ」
演技力……一目惚れされたようなことを言われてもそれは演技ということなんだ。
それだけは心に留めておかなくてはいけない、と美冬は思った。
槙野は美冬のことを気に入っているのに、それは伝わっていなくて、美冬も一目惚れと言われて、それが本当のことではなくても嬉しかったのに、伝えなかった。
誤った認識を二人で共有して、肩を並べてエレベーターに向かう。
二人が乗り込んだところで、ちょうど杖をついたおばあさんが後からエレベーターに乗ろうとしていた。
槙野はその扉を手で押さえて、おばあさんに笑顔を向ける。
「押さえてますから、ごゆっくり気を付けて」
「まあ……ありがとうございます」
見上げるほど大きい男性で、スーツ姿も迫力があるのにおばあさんは槙野ににっこりと笑った。
その後も何階ですか?と尋ねたりして槙野はとても親切だ。
美冬は見直してしまった。
……というか、少しカッコいい、と思ってしまったのだ。
途中の階で降りたおばあさんに槙野は、
「まあー、歌舞伎役者さんみたいにいい男ねえ、ありがとうねー」
と言われていた。
おばあさん的には最上級の誉め言葉だっただろうが、美冬は歌舞伎の隈取が思い浮かんでしまって笑いをこらえるのに必死だ。
──だって、似合い過ぎる!!
それを見た槙野に美冬はほっぺたを軽く引っ張られた。
「ひゃん! なにすんのっ」
「お前の笑い方、たまに腹が立つのはなんでだろうなあ?」
「いやー誉められてたよ。誉められてたってば」
ほっぺたを引っ張られて、さらに頭をがしがしと撫でられ、髪までぐしゃぐしゃにされる。
──もう! いじめっこか!
そこで満足したのか、槙野にふん、と笑顔を向けられた。
その笑顔に少しだけドキッとしたのは内緒なのだ。
エレベーターを降りたところで身だしなみを整えて、二人は病室に向かった。
今日は、槙野に祖父に挨拶をしてもらうのだ。
病室の前で美冬は先ほどぐしゃぐしゃにされた髪を整えた。
槙野も美冬に向かい合った。
「おい、チェックしてくれ。大丈夫か? ネクタイとか曲がってないか?」
「うん。大丈夫」
まさか緊張しているのだろうか?
何にも動じなさそうなのに?
「緊張する?」
「まあ、多少は? ここが一番のヤマ場だと思っているからな」
それでも二人ともこの契約婚を失敗したくないのは共有の思いだ。
「応援してるし、私でできるフォローはちゃんとするから、頑張って!」
そんな風に美冬に言われるとは思っていなかった槙野は、一瞬目を見開いた。
そうして笑顔を美冬に向ける。
「おう!」
どきっていうか、きゅんとした。
やっぱり顔は意外と整っているかもしれない。無防備な笑顔……割とかわいいんだけど。
美冬は息を整えて、病室の入り口のインターフォンを押す。
『はいはい』
のんきな祖父の声が聞こえた。
「私、美冬」
『美冬か、入りなさい』
美冬は引き戸を開けて中をのぞく。開けた扉は槙野が押さえてくれていた。
大事なものを見るかのようなその瞳に勘違いしそうになる。
「ありがとう」
美冬は槙野を見上げて笑顔を向けた。
祖父はにこにこしながらじっと二人を見ている。
「今日はどうした?」
「結婚相手を連れてきたのよ」
「ん? 結婚相手?」
祖父は後ろにいる槙野を覗き込む。槙野が頭を下げたのが美冬の視界にも入った。
「おじいちゃんが言ったんじゃないの。結婚しないのか、彼氏はどうしたってこの二年で私百回は聞いたわよ!?」
「お前百回は盛り過ぎだろう……」
「盛ったわ。でも五十回くらいは言ってるでしょう」
「それで? 連れてきたわけだ?」
祖父は面白そうな顔をして美冬と槙野を見ていて、全く信じていないように見える。
槙野はまるで好青年のような笑顔を祖父に向けた。
それには美冬は感心してしまう。
(すごいわ、やればできるのね)
「はじめまして。槙野と申します」
「美冬の祖父です」
にこりと笑った槙野は祖父に名刺を渡す。祖父は名刺に目を走らせて槙野に向かって笑った。
「すまないね。今名刺は手元になくて」
「いえ。こちらこそ病院にまで押しかけてしまい大変申し訳ございません。美冬さんがどうしてもおじい様には会わせておきたい、と言うので」
祖父は名刺をデスクの脇にそっと置く。
「美冬がそんなわがままを」
「おじいちゃんのせいだって」
「で、どこで知り合ったって?」
完全にスルーされたので美冬はふくれて面会者用のソファに座る。祖父にソファを指さされた槙野は頭を下げて、美冬の隣に座った。
すらりと長い足を見て、嫌味のように足が長いわ……と美冬は思う。
「ミルヴェイユが弊社のコンペに参加されて、その際発表をされていた美冬さんに僕が一目惚れしたんです」
そんな美冬の気持ちにはお構いなしで、槙野は感じよく話を進めていた。
しかし、それにしても、だ。
(僕!? 生まれて初めて聞いたけど!? 槙野さんが僕!? 猫被るのには程があるでしょ)
黙って肩を揺らして笑う美冬に隣にいた槙野は最初は先ほどのようにほっぺたを引っ張ろうとしたようだが、それはさすがにできなくて額をとん、と指で突かれた。
「美冬、笑いすぎ」
「だって……」
「美冬? 面白いのか?」
祖父は不思議そうな顔で美冬に尋ねる。
「面白いわ。普段と全然違うもの」