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「ところで」
医師は、思いがけないことを言った。
「西原さんには、一部、記憶障害があるようなのですが」
「……それは?」
「倒れたこと自体は、それほど心配はないと思いますが、彼は、ほかのことはともかく、あなたのことを知らないというのです。それから、墓地にいた理由も」
そんな……。愕然とする伸に、人のよさそうな医師は、申し訳なさそうに言った。
「彼は、未成年ですし、その……」
医師の言わんとすることはわかった。つまり、血縁者でもない胡散臭い男に、ユウの身柄をゆだねることは出来ないと。
いたって真っ当な話だと思う。虚しい思いを隠して、伸は言った。
「彼の母親に連絡しました。もうこちらに向かっていると思います」
「そうですか」
医師は、ほっとしたような顔をした。
本当にユウは、自分のことを忘れてしまったのか。ということは、行彦としての記憶も?
どういう理由でそうなったのかわからないが、初めて伸の顔を見た瞬間、彼の中で大きな変革があったように、墓の前に立ったときにも、同じようなことが起こったのかもしれない。
確かめたかったが、怖くて、ユウと顔を合わせることが出来なかった。面と向かって、お前など知らないと言われたら、いったいどうすればいいのか……。
結局、伸は、有希の母親が到着するまで、病院のロビーに座り続けた。
「安藤さん」
声をかけられ、顔を上げると、以前レストランで会ったときよりも、ずっと簡素な服装とメイクの、有希の母親が立っていた。あわてて立ち上がり、頭を下げる。
「すいませんでした」
それから、ユウがいる病室まで案内した。そして、母親が病室に入るのを見届けてから、伸は一人、病院を後にした。
ユウとの短い日々は、美しい夢だったのだ。ずっと孤独に生きて来た自分に対する、神のささやかな贈り物だったのかもしれない。
本当に、夢のような毎日だった。かつては、身が引きちぎれそうなほどに、今では当たり前のように、毎日、行彦のことを思い、行彦との思い出だけを心の支えにして生きて来た。
きっと自分は、そうやって一生を終えるのだと思い、それでかまわなかった。だが、思いがけず、ユウが目の前に現れ、すべてが変わったのだ。
無邪気でかわいいユウと心を通わせる幸せ、美しく官能的なユウの体に、我を忘れて溺れる淫らな時間。こんな日々が永遠に続けばいいと思ったが、心のどこかで、そんなはずがないと感じてもいた。
終わりは、あまりにも早くやって来た。だが、仕方がない。これでいいのだ。
ユウには、いや、有希には、自分など必要ない。彼の人生には、自分などいないほうがいいのだ。
彼の前には、無限の可能性が広がっている。自分が、それを狭めることなど許されない。
彼には、しっかり者の母親がついている。自分なんかが、彼の人生に関わるなど、おこがましい限りだ。
どうということもない。今まで、長い間過ごして来た、慣れ親しんだ、もとの生活に戻るだけだ。
夕方遅くに、マンションに帰り着いた。鍵を開け、中に入る。
「あぁ……」
ドアを閉めたとたんに、口から情けない声が漏れた。よろよろと部屋に上がり、床にへたり込む。
部屋のどこを見ても、そのすべてにユウの思い出が染みついている。
「ユウ!」
伸は、声を上げて、長い時間、泣き続けた。
目を開けると、その人が見下ろしていた。心配そうな顔。見覚えはなかったけれど、どこか寂しげな雰囲気を漂わせたその男性に、不思議な懐かしさのようなものを感じた。
医師に、自分が墓地で倒れて、救急車で運ばれたと聞かされたが、全く記憶になかった。その人は、いつの間にかいなくなっていて、その後、迎えに来た母とともに、車で家まで帰って来たのだった。
母に、その人が自分の恋人なのだと聞かされ、少し驚いたが、嫌な気持ちはしなかった。三十代半ばだと聞いたが、有希の目には、せいぜい二十代後半くらいにしか見えなかった。
恋人同士ならば、写真があるだろうと思い、スマートフォンをチェックしてみたのだが、そういう写真は一枚もなく、ひどく不思議に感じた。
唯一、記憶にない写真があった。高台から遠くの海を写したものだったが、それは、自分が倒れたという墓地から撮ったものらしかった。
母から、その人の知り合いの墓参りに行ったのだと聞かされたが、デートで墓参りだなんて、ずいぶん変わっていると思う。その後、どこかに行くつもりだったのだろうか……。
体は、なんともなかったけれど、母が心配するので、次の日の日曜日は、家でゆっくり過ごした。確かに、今まで一度も倒れたことなどなかったので、自分でも驚いた。
救急車で運ばれたそうだが、救急車に乗ったのも初めてだったので、何も覚えていないのは、ちょっぴり残念な気もする。
スマートフォンの中に、恋人だという「伸くん」の電話番号があったので、かけてみたけれど、何度かけても「伸くん」は出なかった。
翌朝、制服を着てダイニングルームに行くと、いつものように、母が朝食の支度をしていた。どんなに遅く帰って来ても、母は必ず起きて、有希と一緒に朝食を取るのが習慣だ。
「おはよう。体調はどう?」
「おはよう。元気だよ」
母が微笑む。
「たいしたことなくて、よかったわ。安藤さんと、連絡は取れたの?」
「うぅん。電話をかけても出ないんだ」
「そう……」