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雲一つない抜けるような青空が広がった、ある日の午後。
ベル様が公務で不在だったため、私は少し気分転換を兼ねて、一人で街へ買い物に出かけることにした。
賑わう市場の活気に包まれ、色とりどりの野菜や布地を眺めながら歩いていると
私のすぐ前を歩いていた一人の紳士が、抱えていた大きな紙袋を不注意にも破いてしまった。
バリッ、という鈍い音と共に、中に入っていた林檎やオレンジが、石畳の上にコロコロと転がっていく。
「大変! お手伝いしますわ」
私は反射的に駆け寄り、ドレスの裾が汚れるのも構わずに、地面に散らばった林檎を一つひとつ拾い集めた。
「おっと、これは失礼。助かりました、お嬢さん」
ふと顔を上げたその紳士の姿に、私は思わず息を呑んだ。
整った顔立ちに、大人の余裕を感じさせる優雅な微笑。どこかで見覚えがある──。
(あ、そうだわ。この前の社交界で、ベル様とお話ししていた……)
「……もしかして、ゼノス公爵様……でしょうか?」
私の問いに、彼は「おや」と愉快そうに目を細めた。
「あの時の、ベルの美しい奥様でしたか。これは奇遇だ」
彼の言葉には、人を惹きつける親しみやすい不思議な響きがあった。
公爵は「せめてもの礼をさせてほしい」と私を誘い、私たちは近くにある落ち着いた佇まいのカフェで、ひと時のお茶をすることになった。
温かい紅茶の芳醇な香りが漂う中、ゼノス公爵は遠い目をして、静かに語り始めた。
話題は、私がずっと胸の奥で気にかけていた「ベル様の過去」についてだった。
「君は不思議に思わないかい? なぜ彼があれほどまでに頑なに感情を押し殺し、『冷酷』などと呼ばれるまでに自分を律するようになったのか」
「……それは、私が一番知りたいことでもあります。ベル様は、本当はとてもお優しい方なのに、世間の噂があまりに痛ましくて」
私がそう答えると、公爵はどこか皮肉めいた、けれど悲しげな笑みを浮かべた。
「優しい?……まあ、確かに根はそうだろうね。だが彼の両親はひどく厳格でね。ベルンシュタインの男たる者、常に冷徹な強者であれと、歪んだ教育を施されたようだ」
「……ようだ、というのは?」
「彼から昔、酒の勢いで聞いたことがあるんだよ」
公爵はカップを置き、声を潜めた。
「……特に彼は、幼い頃から少し周囲とは変わっていた。可愛いものや、甘いお菓子といった、当時の彼らに言わせれば『女子供が好む軟弱なもの』に強く執着してね」
公爵の話によれば
幼いベル様が大切にしていたぬいぐるみやお菓子は、ことごとく両親の手によって「弱さの象徴」として目の前で捨てられ、壊されてきたのだという。
「泣けば叩かれ、笑えば弛んでいると罵られる。彼は自分の心を殺すことでしか、あの家で生き残る術がなかったんだ。好きなものを好きと言えば、それを人質に取られる。だから彼は、何も望まない『鉄の仮面』を被るようになった。……可哀想な男だよ。戦場でさらにその心は削れ、今や愛という感情の出し方さえ忘れてしまったのだから」
公爵の同情するような口振りを聞いているうちに、私の心まで鉛のように重く、苦しくなっていく。
(……そんな。あまりに、あまりに悲しすぎるわ。ベル様は、ただ自分を守るために、あの冷たい仮面を被るしかなかったのね……)
胸が締め付けられるような激しい痛みに、私はティーカップを握りしめた。
ベル様がなぜ、あんなに不器用に、けれど切実に甘えてくるのか。
なぜ、私を壊れ物を扱うように、あんなにも大切に触れてくれるのか。
その理由がすべて繋がった気がした。
「……教えてくださって、ありがとうございます。公爵様」
私は椅子から立ち上がり、公爵を真っ直ぐに見据えた。瞳には、迷いのない決意が宿っていた。
「ベル様のことは……これからは私が、守りたいと思っているんです。彼の本当の心を、私が。だから、安心してください」
「ほう……面白いことを言うのだね」
ゼノス公爵は唇の端を面白そうに持ち上げるように笑った。彼の灰色の瞳が、好奇心に揺れている。
「君はまだ若いのに、随分と覚悟が決まっているようだ。あの冷徹な伯爵に、恋でもしていたりして、ね」
「っ! そ、そんなのじゃありません……! 第一、ベル様とは……その、政略による便宜上の夫婦であって、本物の夫婦ではありませんし……」
慌てて否定すると、彼はクスッと、すべてを見透かしたように笑った。
「……まあ、君なら。もしかしたら彼の凍てついた心を、完全に溶かせるかもしれないな」
ゼノス公爵の言葉に背中を押されつつ、私は屋敷へと戻った。
玄関を潜るまで、何度も深呼吸を繰り返して、昂る気持ちを落ち着かせようとした。
(私だって……ベル様にお世話になってばかりでは嫌だもの。内側を知ってしまったからには、私が、あの人の鎧を脱がせてあげたい)
◆◇◆◇
屋敷に戻ると、ちょうど公務を終えたベル様が戻られたところだった。
玄関ホールで、煤けた外套を脱ぎながら、執事に今日の公務の内容を淡々と報告している。
「…ベル様、お帰りになられていたんですね、お疲れ様です」
声を掛けると、彼はこちらに視線を向けたが、やはりその表情からは感情を読み取ることはできない。
「……今戻った。外出していたのか」
「はい。実は、先ほど偶然にもゼノス公爵にお会いしまして。果物を落とされて取るのを手伝っていたら、そのお礼にと、少しカフェでお茶をしていたんです」
その名前を出した瞬間、ベル様の端正な眉がかすかに、けれど確実に動いた。
「……大丈夫だったのか。奴に何か不躾なことをされなかったか」
「え、はい。公爵様はとても親切にしてくださいましたし。それに、ベル様のことについて……少しだけお話を」
「私の話?」
彼の瞳が、内側から鋭く光る。
探るような、どこか警戒するような色だ。
「ふふ、ちょっとした世間話ですわ。ベル様が昔から立派な方だったとか、そういうお話」
公爵から聞いた、あの胸の痛む過去をここで言ってもいいものなのか。
いや、きっと彼はそれを知られることを嫌がるだろうと、私は悩んだ末、心に留めておくことにした。
「……そうか」
ベル様はそれ以上深く追及してくることはなかった。
けれど、去り際に一瞬だけ足を止め、低い声で
「……あまり、そいつとは関わるな。油断のならない男だ」
それだけを言い残すと、彼は足早に階段を登り、自分の部屋へと消えていってしまった。
最近、関係はいい感じだと思っていたのに、なんだかまた冷たくなってしまった気がする。
気のせいなら、いいのだけれど。
その背中は、公爵の話を聞いた後では、以前よりもずっと小さく
そして孤独を背負っているように見えて、私はいつまでもその場で見送ることしかできなかった。