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公務を終え、夕闇が街を包み始める頃、私は足早に屋敷へと向かっていた。
頭の中にあるのは、領地の複雑な問題でも、執務室に山積した書類のことでもない。
ただ、屋敷で私の帰りを待っているであろう一人の女性───リリアのことだ。
彼女が淹れてくれる、あの苦さを砂糖で消した香りの良いコーヒーと何にも染まっていない屈託のない微笑み。
それだけが、乾ききった私の心を潤す、唯一の救いになりつつあった。
彼女の存在そのものが、私の硬く冷たい日常を溶かす陽だまりだった。
だが、馬車へ乗り込もうとした私の前に、不快なほど強い芳香と共に一人の女が立ちはだかった。
「お疲れ様ですわ、ベル伯爵」
扇で口元を隠し、艶然と、しかし瞳の奥に湿った悪意を湛えて笑う女。
ゼノス公爵の妻、イザベラだ。
「……公爵夫人。何か私に用か」
私は努めて事務的に、氷のような声を放った。
しかし、彼女は怯むどころか、楽しげに目を細めた。
「あら、そんなに邪険になさらないで。先ほど、うちの夫と貴方の可愛らしい奥様が、仲睦まじくカフェでお茶を楽しんでいるのを見かけましてね。あまりに微笑ましかったものですから」
「……」
彼女は一歩、私の懐へ蛇が這うように踏み込んできた。
耳元で囁かれる粘り気のある声が、不吉な予感を呼び起こす。
「彼女、貴方に恋をしているみたいだけど……それは貴方も同じのようね?」
「……なんの事だ」
私は表情一つ変えずに問い返したが、内面では心臓が不規則な鼓動を打っていた。
「こんな『鉄の仮面』が、あんなにも脆く、甘く蕩けているらしいじゃない。一度は見てみたいものね。伯爵が愛に狂う姿を」
私は何も答えず、ただ彼女を冷たく射抜いた。
だが、イザベラの唇は、さらに深い絶望を形作るように吊り上がった。
「でも残念ね? 彼女のその献身的な態度の正体が、何なのか貴方はご存じなのかしら?」
「……何が言いたい」
「ふっ……彼女、うちの旦那から貴方の『過去』を聞いたんですって」
「……っ!」
心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
全身の血が、一気に足元から引いていく感覚に襲われる。
隠し通してきた、あの惨めで醜い幼少期の記憶。
それを、彼女が知ったというのか。
「彼女は今、貴方に『恋』をしているのではないわ。ただ、惨めな貴方の生い立ちに同情し、『可哀想な人』を保護している気分に浸っているだけ。そう言っていたらしいわよ?」
「彼女は、そんな人ではない。デタラメを言うな」
反射的に言葉が漏れた。
信じたくなかった。
あの温かな眼差しが、偽りだなどと。
「ふふ……優しい人だものね。傷ついた獣を見捨てられない、聖女のような憐憫。……滑稽だと思わない?ただの『同情』だなんて」
「……黙れ」
「あら、ごめんなさい。でも、彼女の善意を搾取し続けるのは、高潔な貴方にとって、さぞかし心苦しいことじゃないかしら?」
彼女はそれだけ言うと、獲物を仕留めた捕食者のような満足げな笑みを残し、闇の中へと去っていった。
一人残された私は、拳を血が滲むほど強く握りしめた。
リリア。
私に温かな食事を運び、ほつれたぬいぐるみを直してくれた彼女。
あの真っ直ぐな瞳。
私の全てを肯定してくれるような言葉。
(あれは、愛ではなかったのか……?)
私が勝手に彼女の無垢な優しさに甘え、彼女に「善意」という名の重荷を背負わせていたのか。
思い返せば、彼女はいつも私を笑顔にしようと心を砕いていた。
それは私を好いていたからではなく、私という「壊れた人間」を哀れみ、修復しようとしていただけなのか。
元々、彼女は売られた身だと言っていた。
私という人間に縛られ、義務感から優しさを振りまかなければならない状況。
私の存在そのものが、彼女のその自由を奪い、優しさを搾取していたのだと思い至り
胸を掻き毟られるような自己嫌悪に陥った。
◆◇◆◇
屋敷に戻り、玄関ホールで煤けた外套を脱ぎながら、執事に今日の公務の内容を淡々と報告する。
その声は自分でも驚くほど低く、生気がなかった。
すると、後ろから扉が開く柔らかな音が響いた。
「……ベル様、お帰りになられていたんですね。お疲れ様です」
いつもと変わらぬ、鈴を転がすような清涼な声。
振り返ると、そこには灯火に照らされた、いつも通りの穏やかな彼女がいた。
だが、今の私には
その一言一言が「可哀想な人を励まさなければならない」という彼女の痛々しい義務感に聞こえて、胸が引き裂かれそうになる。
彼女の微笑みの裏にあるのは愛ではなく、私への「憐れみ」なのだと。
ゼノスと何を話したか、彼女は私に隠そうとした。
それは、私を傷つけまいとする彼女なりの残酷なまでの「同情」だったのだろう。
「……あまり、そいつとは関わるな。油断のならない男だ」
顔を見ることさえできず、それだけを絞り出すように告げると、私は彼女を置き去りにして階段を駆け上がった。
背後に残された彼女の困惑した気配が、冷たい風のように背中に突き刺さる。
自室に戻り、扉を固く閉めて暗闇に身を沈めた。
サイドテーブルの上には、彼女が丁寧に直してくれたあのぬいぐるみがある。
指先で触れれば、彼女が込めた温もりが今も残っているような気がして、それが余計に私を苦しめた。
(……本当の自分を知られれば、他人は去っていく)
あるいは、奇妙な同情に形を変えて、私を心の底で蔑むのだ。
彼女の清らかな優しさを、これ以上私の身勝手な想いで汚してはならない。
あの女の言う通り、彼女を解放するには私から彼女を遠ざけるしかない。
私は静かに、天蓋付きのベッドに横たわった。
広すぎる寝台。
隣には、もう二度と彼女の温もりを求めてはならない。
私は再び、重く凍てついた孤独の檻の中へと、自ら鍵をかける決意をした。