テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
太陽が水平線の向こうに半分沈みかけている薄暮の中、迎えに来た自衛隊の輸送ヘリに向かって、空母ヒミコの飛行甲板の上を雄平は歩いていた。その横をペンドルトン提督が名残惜しそうな表情で歩いていた。
「やはりすぐに日本に帰りますか、ミスター・ヒノ?」
「はい、自衛隊と防衛省のお偉いさん方がすぐに戻って報告しろとうるさくて。それに守山艦長と玉置一尉のご家族にも、説明に行かなければいけませんから」
「そうですか、ではここでお別れですね」
待機しているヘリの近くでは空母ヒミコの乗員が十人程整列して待っていた。雄平を見送るためだ。ペンドルトン提督はそこで立ち止まって雄平に握手を求めた。雄平がかしこまって応じると、提督は声を落として言った。
「明日の夜明けには上海港に着けるでしょう。そしたら、常盤一尉が早く日本に戻れるように進言しておきます」
「あはは……そんな事まで知っていらしたんですか?」
「うっふふ。ミスター・ヒノが待ちきれないでしょうからね」
「では今度こそ、お別れです。お世話になりました!」
姿勢を正して敬礼し、くるりと踵を返してヘリに歩み寄る雄平の背中を、提督の声が追いかけて来た。
「ミナとの間にベイビーが出来たら絶対に知らせなさい! 写真を忘れずに!」
周りにいた乗員たちがたまらずぷっと吹き出す。雄平は真っ赤な顔で叫び返した。
「提督! こんな所で、そんな事を、そんな大声で!」
しかし提督は子供の様に「キャハハハ」という笑い声を上げながら、さっさと走り去ってしまった。
「やれやれ、最後の最後の最後まで、あの人にはかなわないな、まったく」
そして雄平は今度こそ、ヘリに乗り込んだ。
翌朝、もうすぐ日が昇る時刻、美奈はミューラー中佐と交代するためにエルゼとラーニアの病室に行った。音を立てないようそっとドアを開け、ミューラー中佐が目をこすりながら部屋から出てきた。
クラーケン殲滅のニュースはもう世界中で繰り返し報道されていて、エルゼとラーニアは昨晩、テレビで流れるそのニュースを何度も何度も飽きる事なく見つめていた。
夜明けには万能艦隊がここ上海に到着するはずだった。エルゼもラーニアもずっと起きていて出迎えると言い張っていたが、結局睡魔には勝てず、夜中に眠り込んでしまった。
「偉そうな事を言ってもまだ子供だな。ぐっすり寝ているよ」
苦笑しながらそういうミューラー中佐に美奈は言った。
「ふふ、ご苦労さま。私がついているから、ボブは早く休んで」
ミューラー中佐が廊下を去って行き、美奈が代わりに病室に入る。そして美奈は全身の血が凍りつくような驚愕に震えた。エルゼとラーニアのベッドのすぐ横に人影があった。
「誰?」
ドアをはねのける様にして開き、部屋に飛び込んだ美奈に目に映ったのは、あの青年だった。女の様に美しい金髪、白い肌、そして青い目。エルサレムで、そしてウルムチで姿を見せ、煙の様に姿を消したあの男。
男は両手に何か光る物を持っていた。それは淡いオレンジ色の光を放つ球体にように見えた。男はそのまま美奈の言葉には応えようとせず、庭園に面したガラスのドアに向かってすたすたと歩きだした。
とっさにベッドに視線を向けた美奈は、再び全身の血が逆流するような感覚を味わった。ベッドの脇、二人の頭の側にある、心電図などを示すモニターの画面上に走るグラフの線が全て横に一直線になっていた。それはエルゼとラーニアが死亡している事を示していた。
「待ちなさい!」
美奈は歩き去っていく男に叫ぶと同時に、ベッド脇の壁にある非常通報ボタンを叩きつけるように押した。ウィンウィンウィンと、甲高い警報音が建物全体に響き渡った。
それでも男は足を止めようとはしなかった。美奈は腰のホルダーから拳銃を抜き男に銃口を向けて再度叫んだ。
「止まりなさい! 今度こそ撃つわよ」
荒々しく廊下側のドアが開いてミューラー中佐と看護士の一団が駆けつけて来た。ミューラー中佐はすぐにエルゼとラーニアの状態に気づき、看護士たちに救命措置を指示すると、美奈の側に駆け寄った。
「ミナ、これはどうしたんだ?」
「あの男が……」
美奈は銃口の先で、意に介する素振りもなくゆっくりと庭園側のガラスのドアに近づいていく、あの男を指して答えた。
「二人に何かしたのよ!」
ミューラー中佐も拳銃を抜き「動くな!」と叫びながら、男の右脚、太ももあたりを狙った引き金を引いた。パンという乾いた音がして、観音開きの二枚のドアの真ん中のサッシ部分に火花が散った。
美奈とミューラー中佐は一瞬自分の目を疑った。男は既にガラスの向こうにいた。そしてそのガラスのドアが開いた形跡はなかった。すぐさまドアに駆け寄った二人は両手でドアの存在を確かめる。
そこには確かにガラスがあった。ミューラー中佐が放った銃弾はサッシ部分に穴を開けていた。だが、ドア全体のガラスはどこも破れていず、そこに存在している。では、あの男はガラスをすり抜けたとでも言うのか?
美奈とミューラー中佐はガラスのドアを押し開け、庭園に飛び出た。のんびりとした足取りで歩いている、あの男の背中が数メートルの距離にあった。
ミューラー中佐が再び引き金を引く。今度は男の背中を狙って。だが男は身じろぎすらしなかった。放たれた銃弾は男の背中の直前で、空中で、停止し、地面にぽとりと落ちた。
「あなた、何者? あの二人に何をしたの? 答えなさい」
信じられない光景を見た、そのショックに必死で抵抗しながら、美奈は胸の奥底から声を振り絞った。男はようやく足を止め、両手にあの光る球体を一つずつ胸の高さに捧げ持った姿勢のまま、振り返った。
「契約の完了をさせて頂いたのです。さっき、ようやくあの二人の乙女たちからご了承を頂けましたので」
男はまるでオペラ歌手のような張りのある、澄んだ声で言った。美奈の隣でミューラー中佐がつぶやく。
「こいつ頭がいかれてるのか?」
その時美奈は、自分がさっきから男と日本語で会話している事に気づいた。美奈は自分の拳銃の銃口をことさら突きつけながら男に言った。
「英語が話せるなら英語でしゃべりなさい!」
ミューラー中佐がいぶかしそうな表情で美奈に訊く。
「今何を言った?」
「あいつに英語で話せと言ったのよ。ボブ、あなたは日本語を話せないでしょ?」
ミューラー中佐は眉をしかめ、首から上だけを美奈の方に向けて、不審そうな口調で言った。
「ミナ、君は何を言っている? 奴はさっきから英語でしゃべっているじゃないか」
「え?」
今度は美奈が呆然とする番だった。あの男がおもむろに告げた。
「私が人間のどの言語で話しているのか、という点ならお気遣いには及びません」
その時美奈もミューラー中佐も、男の唇が全く動いていない事に気づいた。ミューラー中佐が思わずつぶやく。
「まさか……テレパシー……」
「はい」
その男はクラシックな英国風のスーツの上着の裾を風にはためかせながら、少し頭をうなずかせて答えた。
「私は、あなた方がテレパシーと呼ぶ手段で、あなた方と意思疎通をしています。ですから私が何語で話しているかという点は問題にはなりません」
「貴様は宇宙人か何か、そうなのか?」
ミューラー中佐が右手だけで構えていた拳銃のグリップに左手を添えながら言った。不覚にも拳銃を持つ手が小刻みに震えだしていた。その男はかすかな笑みを顔に浮かべながら言った。いや、思念を美奈とミューラー中佐の頭の中に送り込んできた。
「いえ、私はこの星に長らく住まう者です。あなた方人類とこうして直接お会いするのは久しぶりですが。そう、あれは遠い昔、ナザレのイエスという方を誘惑し損なった時以来ではないでしょうか」
一応キリスト教徒であるミューラー中佐の方が、その言葉に早く反応した。
「ナザレのイエスだと……貴様は誰だ? 貴様の名は?」
男は思慮にふけっている様な表情になって小首を傾げて答えた。
「最初は熾天使ルキフェルと名乗っていました。ですが、その後様々な土地で様々な方々から、いろいろな名前で呼ばれてきました。あなた方には、どの名をお伝えするべきでしょうか……」
男はその宝石のように澄んだ青い目を美奈とミューラー中佐に向けた。思考を読まれているのだと悟って、美奈は無駄な事だとは思いつつも左手を広げて自分の顔を覆った。数秒後、男は視線を上げて伝えた。
「なるほど。あなた方にはこう名乗ればご理解頂けるはずです。私の名はサタンと申します。魔王サタンと」
「ふざけないで!」
悲鳴のような叫び声とともに美奈は拳銃を連射した。だが全ての銃弾は男の体の直前の空中で静止し、そのまま垂直に地面に落ちる。弾丸を打ち尽くした美奈は、腰のホルダーから予備の弾倉を引き抜き交換しようとした。
だが何度も訓練を重ねて熟達しているはずの、弾倉交換という単純な動作がうまくいかなかった。弾倉を拳銃のグリップの下から差し込もうとして、カチカチと金属がぶつかる音だけがむなしく響く。美奈はあらん限りの精神力を振り絞って男に向かって怒鳴った。
「エルゼとラーニアが、あの子たちが悪魔と取引なんかするはずがない!」
「いえ」
男は相変わらず落ち着いた口調の音に聞こえる思念で応じた。
「確かに私と契約を交わされたのです。あの二人の乙女は」
ようやく弾倉が拳銃に収まり、美奈は改めて銃口を男に突きつけて詰問した。
「あの子たちが、悪魔なんかに何を頼んだというの?」
「私はこのように、テレパシーという物であなた方人類と意思疎通をしますし、この乙女たちも当時はまだ幼子でしたから、はっきりとそういう言葉や概念を用いたわけではありませんが……」
男は一瞬目を閉じ、考えるようなそぶりを見せた後、再び思念を伝えてきた。
「乙女たちは私にこう依頼なさったのです。世界中の人間を、人類を一つにしてくれ。協力して助け合うようにしてくれ。そのような内容のご依頼でした。二度と自分たちのような目に遭う子供が出ないように、そのために、と」
窒息したような小さな悲鳴が美奈の口から洩れた。男は、一転高らかに笑った表情になり、舞台役者の演技の様な大げさな身振りで体を左右に揺らしながら、思念を送り続けた。
「なんとも愉快な話ではありませんか? 普通そんな事は、自分の信じる神だの救世主だのに願うものでしょう? それを私に、悪魔の王たる私に依頼なさったとは! 私はもう何万年もあなた方人類とお付き合いをさせて頂いていますが、こんな愉快な依頼を受けたのは初めてなのですよ」
ミューラー中佐が震える声で尋ねた。
「なら、貴様が手に持っているのは、エルゼとラーニアの魂なのか?」
「はい。おっしゃる通りです。ご存じでしょうが、私たち悪魔は契約の代償として人間の魂をもらい受けます。ご覧ください。この高貴な輝きを。私は自分だけ元の体になりたいとか、そういう願いを言われるのだろうと予想しておりました。それが人類を、とは! そのような気高い内容の依頼をなさるだけあって、素晴らしい高貴な魂です。そうは思われませんか?」
その男、いや魔王サタンは、晴れやかな笑顔から一転して憂鬱そうな表情になり、沈んだ口調に聞こえる思念を送った。
「とは言え、正直この私も頭を抱えてしまいました。なにしろ、あなた方人類は殺し合い、戦争をするために生まれてきたような種族ですからね。その人類を一つにする、そんな事がどうしたら可能なのかと……」
サタンはしばし地面に視線を落とし、しかし再び晴れやかな笑顔に戻って伝えた。
「しかし人類の歴史を振り返ってみて、私はふと気づいたのです。あなた方人類は共通の敵という物を前にした時、驚くべき団結力をお見せになる事が、歴史上幾度もありました。では、全人類共通の敵という物が出現したらどうなるだろうか? いや、我ながら良い思いつきでした」
「まさか、クラーケンの事を言っているのか」
ミューラー中佐の声は、もう隠しようもない程、震え、引きつっていた。サタンは答えた。
「はい。あなた方がクラーケンと呼んでいた、あの金属生命体は遠い宇宙から呼び寄せた私の使い魔です」
ミューラー中佐は無駄だと分かっていても、拳銃の引き金を引いた。銃弾はまたしてもサタンの顔面の直前の空中で静止し、むなしく地面に落ちた。ミューラー中佐は絞り出すような苦しげな声で怒鳴った。
「万能艦隊の活躍も、勝利も、全て貴様の筋書き通りだったとでも言うのか? エルゼとラーニアの魂が欲しければ、さっさと奪って持っていけばいいだろう。なぜそんな回りくどい事をした?」
「あなた方は私ども悪魔の事を少し誤解なさっていらっしゃるようですね」
サタンは穏やかに微笑んだ表情に戻って思念を送り続ける。
「私ども悪魔は、正式な契約に基づく約束は絶対に果たすのです。それこそ、いかなる労力、犠牲を払ってでも。もし一度でも約束を違えたという前例が出来てしまったら、魂と引き換えに私どもと契約を交わそうとする人間はいなくなってしまいますので」
「嘘だ!」
狂ったような血走った叫び声とともに、美奈の拳銃が再び火を噴いた。弾倉が空になるまで連続して撃ち出された銃弾は、やはりサタンの直前の空中で停まり、字面に落ちた。サタンは少し困ったような表情で伝えた。
「私には理解いたしかねます。悲しみ、嘆き、怒り……あなた方はどうして、そのような負の感情に強く支配されていらっしゃるのですか? ほら、あの人々の歓喜の声が聞こえていらっしゃるでしょう?」
戒厳令が解除された上海市内では、膨大な数の市民と滞在している外国人が港に殺到していた。凱旋してくる万能艦隊の姿を一目見ようと前の晩から上海港に詰めかけていた。その人々や車の放つ喧騒は、病院の庭園にまでかすかに届いていた。サタンは続けた。
「今日はあなた方人類にとって、記念すべき歴史的な日ではありませんか。歴史上初めて、全世界の人類が、人種、民族、宗教、その他もろもろの違いを乗り越えて一つに団結し、手を取り合って苦難に打ち勝ったのですよ。そして、この二人の乙女たちの願いが遂にかなった日でもあるのです。なにをそんなに嘆き、苦しまれる必要があるというのですか?」
美奈の手からぽろりと拳銃が離れ地面に転がった。ミューラー中佐も両手をだらりと垂らしていた。サタンはエルゼとラーニアの魂を持った両手を胸の前で交差させて、うやうやしく頭を下げた。
「では親愛なる人類の皆様。百年後か、千年後か、再びお会いできる日を心よりお待ちしております」
サタンの背後に光が伸びた。それは光で出来た白鳥の翼のように見えた。左右六枚ずつ、計十二枚の光の翼に包みこまれるように、サタンの姿はその場から、すっと消え去った。
ミューラー中佐は手にした拳銃を地面に放り投げ、側にある樹木の幹に何度も拳を叩きつけながら、つぶやいた。
「俺たちは……人間は……人類は、それほどまでに愚かな生き物だというのか……くそ! くそ!」
病室の中では、看護士たちが救命を断念し、エルゼとラーニアの体の上に頭まですっぽりと覆うように、純白のシーツをかけた。指をからめ合ったままの二人の手を引き離そうと苦闘していた女性看護師を、年配の医師が肩をつかんで止め、黙って頭を横に振った。
朝日の光が庭園の側から差し込んできた。と同時に、港の方から数えきれない多くの歓声が、どよめく波音のように響いて来た。万能艦隊の姿が港から見え始めたようだった。
美奈の押し殺した慟哭の声が、遠くから響く歓声にかき消される中、一筋の朝日の光は病室の中に伸び、二つのシーツの間からはみ出て固く握り合った、エルゼとラーニアの手を暖かく照らした。