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松明が叩きつけられ、炎が揺れる。洞窟内にセリオンの声が響いた。
「あんたは馬鹿なのか!? ホブゴブリンだけじゃねえ、何十匹いると思ってんだ! いくら俺たちがゴブリン討伐の経験があっても、ここまでの数を同時に相手なんて出来ないだろうが、常識で考えやがれ!」
ヒルデガルドを押し退け、彼は一本道を引き返し、洞窟の外へ出ようとする。
「おいおい、薄情だな。逃げるつもりか?」
「……当たり前だろ。だから──あんたらとはここでお別れだ」
懐から何かを取り出して、彼女たちの足下へ放り投げる。転がったのは小さな玉だ。短く紐が伸び、転がった松明の火が燃え移ると煙を吐き出した。
「っ!? ヒルデガルド、この煙はまずい!」
黄色がかった煙をまき散らすのにイーリスは焦った。痺れの効能がある毒の煙玉。彼はじりじりと後退りながらニヤリとして。
「悪いね、もともと俺は盗っ人でな。冒険者なんざやってるのも他の連中から金目のモンを奪うためだ。殺しは専門外だが、さすがにあの数から逃げ切れる保証もない。あんたらには囮になってもらうことにする。……じゃあ、あばよ!」
暗闇の中を逃げ去っていくセリオンの背中を見つめたイーリスが、苦悶の表情で「このクズ! 逃げるな!」と叫んだが、彼はそんな言葉を聞いても止まったりはしなかった。生きている者こそが勝者。死ねばそこまでの話。ゴブリンたちの餌食になれば証拠も残らないだろう。逃げたことを多少責められたとしても、彼が裏切ったと考える者などおらず、しばらくしたら忘れられる。
ヒルデガルドが感じたのは、あまりに弱者を蔑ろにする世界だということ。魔物がいなくなったとしても、脅威は依然として人間同士の中にある。どれだけ努力してもなくならない犯罪行為には反吐が出そうだった。
「困った奴もいたものだ。イーリス、大丈夫か」
一瞬、洞窟の中を風が駆け抜けた。煙は瞬間に弾かれ、膝をつくイーリスの肩にヒルデガルドがぽんと手を置くと、全身の痺れが嘘のように消えていく。
「……だ、大丈夫だよ。何をしたの、ヒルデガルド?」
「解毒しただけさ。しかし、セリオンのおかげで得をしたな」
襲い掛かろうとしていたゴブリンたちも本能的に煙が危険だと察知して下がったので、不意を打たれることもなかった。だが風で煙が消えると彼らはにじり寄ってくる。ホブゴブリンも後方で武器を握り締めて様子を見ていた。
「ヒルデガルド。セリオンの行いを認めるわけじゃないけど、さすがに敵が多すぎる。放っておきたくない気持ちも分かるけどボクたちだけではどうにもならない。……どちらかが時間を稼いで助けを呼ぶしかないよ」
「フム。では君が行ったほうがいい。だがなぜそんな話を?」
イーリスは首を横に振って、小さなため息をつく。
「ボクが残るって言いたかったんだ。どうせ馬車はセリオンが乗って逃げるだろうし、今のを見るかぎりボクよりも魔導師として優秀だろ。残念ながらブロンズにいるのは実力なんだ、悲しいけど。……ここは任せて、時間くらいは稼いでみせる」
仕事の選り好みをしたのも事実だが、かといってシルバーランクになれるほど優秀なわけでもない。どこまで行っても平行線。見える景色の変わらない場所に立ち続け、冒険者としては新米にも追い抜かれる始末。
楽しいのか? ふと考えたことがある。自分は魔導師になりたかった。しかし、残念なことに師はおらず、独学でやってきたものの行き詰って、冒険者になれば少しは経験も積めるのではないか。運が良ければ誰かに拾ってもらえるかもしれない。そんな甘い考えでいたのをいまさらになって後悔する。
偉そうなことばかりを口にして、結局依頼してくれた相手の命を守るどころか、同業者に裏切られたところを助けられてしまった。冒険者としても三流な自分が情けなくなる。どうせヒルデガルドが時間稼ぎとして犠牲になっても徒歩で町へ辿り着くまでにゴブリンたちに追いつかれて終わりだと感じた。
だが逆に自分が残れば彼女なら……そう思った。
「ボクの夢は大賢者様のように人の役に立ち、大魔導師になることだった。この状況じゃあ、とても叶わない夢だけど……仲間を一人逃がすくらい、きっと出来るはずだ」
死を覚悟しているイーリスを見て、ヒルデガルドは嬉しくなる。か弱いとしても正しさを貫ける人間こそ自分の仲間には相応しい、と。
「君は良い子だな、イーリス」
ゴブリンに向かって腕を伸ばし、パチンと指を鳴らす。瞬間、青白い光が放たれて周囲に強烈な冷気が渦巻いた。ゴブリンたちが襲い掛かろうと踏み出した直後、その全身は凍り付き、大群は氷塊となって通路を塞ぐ。
屈強なはずのホブゴブリンでさえ冷凍されていた。
イーリスには何が起きているのか理解できなかった。目の前で明らかに敵うはずのない大群を相手に、たった一度の──それも息をするように簡単な所作の──魔法で、ゴブリンたちはいわば駆除されたのだ。ほんの数秒のあいだに。
「これはいったい……。そ、それに君、髪の色がおかしくないか? さっきまでは綺麗な深紅だったのに、今は灰と青の混ざったような……」
「ム、ほんとうだ。確かに色が抜けてるな」
自分の髪を一本抜いて確かめ、薬の効力が思ったよりも早く切れたのを不満に思う。調合は完璧だったはずなのに、と白いため息がでた。
「まあ丁度いい。本来の姿で改めて自己紹介しようか」
氷塊を背に手を胸に当てながら優しく微笑んで──。
「──私の本来の名はヒルデガルド・イェンネマン。人々は私のことを大賢者と呼んでいる。君を最初の弟子として迎えさせてくれないか、イーリス」