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それは伝説にも残らないほどに遠い昔の話。いや、作り話なのかもしれない。
かつて、この世界では『魔国』と『聖国』という二つの国が争っていたという。
聖国の女王エリーゼは、20歳の若さにして人類最強の聖力を持つ聖女。そんな彼女は魔国との平和協定を結ぶために魔国を訪れていた。
全てが漆黒に塗られた大広間、そこにある黄金の玉座に座するのは、魔国の王……すなわち魔王であった。
「ほぅ……エリーゼ女王よ。つまり貴様はオレと婚姻を結ぶという事か」
漆黒の髪に真紅の瞳を持つ魔王は、堂々と一人で玉座の前に立つエリーゼを見上げる。
長い金髪に碧眼、真っ白なドレスを身に纏う人類最強の聖女。その美しく凛とした立ち姿は、冷酷非道な魔王の心をも惹きつける。
「はい。それが平和協定を結ぶ事と同意義となります」
魔王は立ち上がり、今度はエリーゼを見下ろす形になる。
聖国の女王を娶るのは悪い話ではない。エリーゼを懐柔してしまえば、二つの国の実権を握る事は容易い。魔王は口の端を上げて笑う。
「よし、いいだろう。面倒な婚礼は無しだ。婚姻は口付けのみで交わす」
「……はい」
魔王はエリーゼの頬を両手で包むと躊躇いもなく唇を重ね合わせる。しかし魔王は口付けと同時に何かを仕掛けてきた。
一瞬の口付けだが、エリーゼの意識が一瞬にして真っ白に吹き飛ぶ。これは魔法ではない。呪いの類だと理解した時にはもう遅かった。
だが次の瞬間、魔王が目を見開いて苦痛に顔を歪ませる。エリーゼが、隠し持っていた短剣で魔王の胸を深く突き刺していた。
「貴様……最初から……」
「あなたの魂胆は分かっています。永遠に転生できないように、あなたの魂を封印します」
短剣が突き刺さった魔王の胸からは血の代わりに聖なる光が溢れ出る。やがてそれは魔王の全身を消滅させようと取り込んでいく。しかし魔王もこのままでは終わらない。
「クク……もう遅い。すでに貴様の魂に呪いをかけた。未来永劫、貴様は逃げられぬ……!!」
光に飲まれて消えていくかと思った魔王だが、全身から放った魔力でその光を全て弾き返した。
エリーゼは脱力してその場に座り込むが、自分の身に何が起きたのか分からない。
「呪い……ですって……?」
婚姻の口付けの際に、すでに魔王はエリーゼに呪いをかけていた。何度生まれ変わろうとも決して解けない永遠の呪いを。
最後に魔王は勝ち誇った笑いを浮かべながら、その答えを口にする。
「溺愛の呪いだ」
そして、時は現代。
エリーゼはベッドの上で目を覚ました。春先とはいえ朝は肌寒く、薄い毛布一枚では全身が冷えて震えてしまう。
セイクリッド国で名高いフェーリス公爵家の長女でありながら、屋敷から隔離された馬小屋のような質素な建物で暮らしている。
(また、あの夢……最近、よく見る)
伝説上の魔王と聖女が婚姻を結ぶシーン。いつも最後に魔王に『呪い』をかけられたところで目が覚める。
夢の中の聖女は『エリーゼ』と呼ばれていたので、もしかしたら自分は聖女エリーゼの生まれ変わりなのかもしれない……そんな事を本気で思う。
そんな事を家族に言えば妄想だと笑われる事は分かっている。エリーゼは着古した地味なワンピースに着替えると小屋の外に出る。
屋敷には行かずに、中庭の奥にある物置小屋に入るとホウキとバケツを手に持って再び外へと出る。すると、目の前には白いドレス姿の女性が腕を組んで立っていた。後方に二人の侍女を引き連れている。
「あら、お姉様。今日は掃除ではなくて草刈りよ」
口の端を吊り上げて意地悪そうにエリーゼを見下すのは妹のセレン。20歳のエリーゼとは1歳違いの19歳、長い金髪と碧眼という容姿も姉妹でそっくりであった。
代々、聖女が生まれる家系の中で、聖なる力を全く持たずに生まれたエリーゼはフェーリス公爵家の恥として幼い頃から虐げられてきた。そのため聖職に就けずに家の雑用ばかりのメイドのような扱いをされている。
「草刈りなら昨日もやったけど……」
「全然できてないわよ! お屋敷一周、綺麗に全部終わるまで朝食はあげないからね!」
セレンが後ろを向いて歩き出すと、侍女たちも何も言わずにその背中を追う。エリーゼはもう何日も朝食を食べていない。それでも、そんな日々はもう慣れてしまった。
一生、屋敷の外には出られないのかもしれない。そんな生活でも不満はなかった。それは無意識にエリーゼが外の世界を恐れているからかもしれない。
(あれが前世の夢なら、私には呪いが……きっと私は、外に出てはいけない運命)
長い期間の孤独が、エリーゼに現実的とは言えない、空想のような恐怖感を植え付けていた。
そんなエリーゼの暮らしに転機が訪れたのは、ある日、突然の事だった。
フェーリス公爵家の屋敷の前に、前触れもなく隣国の王家の馬車が停まった。その馬車から降りてきたのは、黒衣に黒のマントを纏った、黒髪で黒い瞳の漆黒の男性。
正門の前でその男を出迎えるのは、フェーリス公爵家の当主ホルス……つまりエリーゼとセレンの父。
「アゼル王様、遠方はるばるお越しいただきまして……」
「挨拶はいい。聖女を迎えに来た。早く出せ」
「は、はい……」
ホルスは低姿勢で構えるも冷や汗が止まらない。デヴィール国の王、アゼル……冷酷非道と言われるアゼル王は、伝説の魔王の生まれ変わりとも揶揄されるほどに悪名高い。武力を行使することも厭わないだけに決して敵に回せない。
そんなアゼルが『この世で最強の聖女を娶る』と言いだしたのだ。そして必然的に『最強の聖女』が生まれる家系であるフェーリス公爵家の娘に白羽の矢が立った。
その時、エリーゼは珍しく屋敷の中に入れられて、侍女たちの手によって綺麗な白いドレスに着替えさせられた。
(なんで、こんな格好をするの……?)
食べ物も衣類も全て質素なものしか与えられなかったエリーゼは突然の事に戸惑う。すると部屋にセレンが入ってきた。
「あら、お姉様。私ほどじゃないけど、それなりに綺麗ね」
「セレン……今日は何があるの? お屋敷の中も外も騒がしいみたいだけど」
「おめでとう、お姉様。王様と結婚できるのよ」
「え? それは、どういう……」
その時、部屋に貴婦人が入ってきた。年齢は40代だが長身で色気があり若々しい。彼女の名はネージュ。エリーゼとセレンの母であり、姉妹の金色の長い髪と碧眼は母親譲りであった。
ネージュは腕を組み、威圧的な視線をエリーゼだけに向ける。その態度はセレンとそっくりだ。
「エリーゼ。あなたはデヴィール国の王、アゼル様に嫁ぐのです」
「デヴィール国の王様に、私が……?」
突然の事で状況が飲み込めない。そもそも母親に会うのも久しぶりなのだ。そしてエリーゼもアゼルが悪名高い王である事は知っている。
ネージュの隣で、同じようにして腕を組んでセレンは笑う。
「良かったじゃない、お姉様のおかげで、家の評判も上がるし国も安泰よ」
「で、でも、なんで私が……?」
聖なる力を持たない唯一の出来損ないが花嫁に選ばれるはずがない。そうなると意図的に選んだとしか思えない。その疑問の答えをネージュは淡々と語る。
「アゼル様は最強の聖女をご所望です」
「それなら、私よりもセレンの方が……」
「セレンを魔王に嫁がせる訳にいきませんからね」
最強の聖女がアゼルに嫁ぐ代わりに、セイクリッド国とデヴィール国の間で平和協定が結ばれて将来的に敵対する事がなくなる。そのために両国から、フェーリス公爵家の娘を嫁がせるという命令の通達がきていた。つまり国家どうしの強制的な政略結婚である。
しかし両親としては、将来有望な聖女のセレンを異国の魔王に差し出すよりも、不要なエリーゼを手放す方が都合が良かった。
今もエリーゼを見るネージュの瞳は氷のように冷たい。
「エリーゼ、あなたが嫁ぐのです。家と国のために聖女のふりをしなさい」
つまりエリーゼはセレンの身代わりであった。しかしエリーゼは聖なる力を持たない。
聖女でもないエリーゼがアゼルを欺けるとは思えないが、アゼルが欲するのは聖女の能力そのものではないらしい。それならば能力を使えなくても問題ない。能力がなくてもエリーゼは最強の聖女の『血筋』なのだから。
それでもエリーゼは悲観的にならなかった。役立たずの自分が初めて家と国の役に立てるのなら、魔王に嫁ぐ事だって厭わない。
(でも、魔王と呼ばれるアゼル様……アゼル様って……)
エリーゼは妙な胸騒ぎを感じていた。アゼルとは会った事がないが、その名前はどこかで聞いた事がある気がする。それは遠い昔、むしろ前世か、夢の中か……そんな朧げな記憶の中にあった気がするのだ。