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廃墟となって久しいホテルは
もはや過去の華やぎを思い出すことさえ
忘れ去ったかのように、静まり返っていた。
陽を浴びすぎて褪せた石壁は色を失い
窓枠には硝子が残らず
吹き込む風が裂けたカーテンを震わせる。
その布切れだけが
かつてここが
音楽と灯りに彩られていた場所であることを
わずかに証言している。
四人と一羽は
その裏手にあるサービスヤードへ
足を踏み入れた。
石畳はひび割れ
裂け目からは雑草が遠慮なく顔を出している
夏の湿り気を帯びた青臭い匂いが
崩れかけた壁の間に漂っていた。
錆びついた鉄扉は半ば倒れかけ
蝶番が軋んで風に震える。
人目を忍ぶには
これ以上ないほど適した場であった。
アラインはようやく
腕に抱きかかえていたアビゲイルを下ろし
冷えた石壁に背を預けた。
腕から解き放たれた少女は
まだ全身に震えを残していた。
泣き腫らした瞳の縁は赤く
細い肩が絶え間なく上下している。
ソーレンはそんな彼女を一瞥すると
煙草を咥えたまま煙を深く吸い込み
吐息と共に鋭い声を投げた。
「──で?
そろそろ俺にも解るように説明してくれよ。
新入りの嬢ちゃんが
なんでお前に抱かれながら泣いてたんだ?」
琥珀色の瞳が光を帯び
低い声が廃墟の静けさを震わせた。
その視線は鋭い刃のようにアラインを貫き
曖昧な答えを許さぬ気配を放つ。
時也は近くに転がっていた木箱に手を伸ばし
袂の内から取り出した
清潔なハンカチを広げて敷いた。
その上に少女を座らせるために
彼女の小さな手を取る。
微笑を崩さず、けれどその所作は
空気を整えるような穏やかさに満ちていた。
アビゲイルは促されるままに腰掛け
震える吐息をひとつ吐き出す。
アラインは長い黒髪の一房を指に巻き取り
ひどく退屈そうな声音で語り出した。
「ノーブル・ウィルが運営している孤児院──
ラルシュ・ド・ノーブル・ウィル。
街角で炊き出しを行い
貧しい人々にパンとスープを配るついでに
孤児を保護している。
桜からも時折
余剰の食材を分けてもらっているから
知っているだろう?
だが──
その活動を面白く思わない連中がいる。
人身売買で稼いでいるマフィアさ。
僕らが孤児を引き取れば
奴らの〝商品〟が減る。
だから妨害を仕掛けてくる。
⋯⋯先ほど街でアビゲイルに出会った時
たまたまその一味と鉢合わせした。
彼女は捕らえられ
僕は脅される羽目になった。
事情は、それだけだよ」
ソーレンは短く煙を吐き出し、瞳を細めた。
その仕草は苛立ちを覆い隠さず
白煙が廃墟の空気に溶ける。
時也は隣でアビゲイルの肩に軽く触れ
彼女がまだ無事であることを確かめると
鳶色の瞳をアラインへと戻した。
「ですが──
その犯人はルキウスが捕縛しています。
今も彼の腹の内に拘束されたままです。
⋯⋯そこまでできるとは
僕にも想定外でしたが」
その言葉に
アラインは皮肉げに口角を歪めた。
「まったくだよ。
派手な見世物をしてくれたおかげで
僕はアビィを抱えて走らされる羽目になった
普通に信じられると思う?
鳥の腹が割れて大男を丸呑みするなんてさ。
顔を覚えられていないといいけど⋯⋯」
桃色の翼を広げたルキウスは
アラインの皮肉をものともせず羽音を整え
毅然と答えた。
「今後は静粛に──
危険因子の排除に努めます」
アビゲイルはその羽毛にそっと頬を寄せ
潤んだ瞳を細める。
「でも⋯⋯おかげで本当に助かりましたわ。
ありがとう、ルキウス」
少女の声には震えと共に感謝が溢れていた。
ソーレンは一拍置き
煙草の火を見つめながら
低く吐き捨てるように言った。
「⋯⋯なるほどな?
俺らが狩りに出た直後に
そんなことになるとは──
これも嬢ちゃんの
〝加護〟ってやつなのかもしれねぇな」
その言葉に
アラインが僅かに眉を上げ、興味を示した。
「ほう。
キミたち──掃除に出ようとしてたのか」
時也は声を和やかに保ちながらも
瞳の奥だけを鋭く光らせる。
「はい。
新しく桜に訪れた転生者の一人が
その組織から逃げてきたと判りました。
酷く悪趣味な仕打ちを
受けていたようですので⋯⋯
少しお灸を据えに行こうと
ソーレンさんと出かけるところでした」
「ふふん、相変わらず甘いねぇ。
組織の情報、どこまで掴んでるんだい?
それで乗り込む気だったのか?」
アラインの声音は嘲弄めいて響いた。
「何も──僕たちは掴んでいませんよ」
時也は穏やかに答えたが
その鳶色の瞳は一瞬で刃に変わる。
「だからこそ
まずは優秀な情報屋に会おうと
思っていました。
⋯⋯まさか、その方が情報だけでなく
アビゲイルさんを救い
組織の仲間まで捕えてくださっているとは。
確かに彼女の加護も働いたのでしょうね」
アラインは唇の端をわずかに吊り上げ
氷色の瞳に遊びの光を宿す。
「良かったね、アビィ?
怖い思いはしたけれど──
君は時也の役に立ってるじゃないか」
その言葉に
アビゲイルの頬は羞恥に赤らんだ。
推しと〝同じ顔〟から向けられる賛辞。
少女は両手を膝に揃え
声を震わせながら心の奥を呟いた。
(⋯⋯時也様のことになると
やはりアライン様の機嫌は
すぐ良くなられますのね⋯⋯!
さすが、時也様最推しですわね!)
安堵と羞恥とを同時に抱え
アビゲイルは長い吐息を落とす。
廃墟の空気は冷たかったが
その冷気の中で
彼女を包んでいたのは
仲間たちの温もりに他ならなかった。