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廃墟のサービスヤードに漂う空気は
ひどく重かった。
かつては
厨房から荷を搬入していたであろう広場も
いまは崩れ落ちた壁と
錆びついた器具が散乱するばかりで
人の気配を拒むような静寂に閉ざされている
ソーレンは煙草を咥え直し
壁際に身を寄せながら鋭い視線を巡らせた。
その琥珀の瞳は
わずかな影の揺らぎや
風に混じる気配すら逃さない。
煙が淡く漂う中
彼の立ち位置はまるで結界の門番であり
外界からの侵入を拒む盾そのものだった。
「俺が見張る。お前は好きにしろ。
通りの音は気にしておくからよ」
その低く乾いた声音は短い宣告のようで
誰もが安堵と緊張を同時に覚えた。
「助かります、ソーレンさん」
時也の鳶色の瞳が微かに鋭さを帯び
彼は声を落として命じる。
「ルキウス──
捕らえた者の封を解きなさい」
桃色の鳥は羽ばたきを止め
まるで儀式のように
沈黙の中で腹部に細い縦線を走らせた。
瞬きの間に縦線はぬらりと割れ
黒薔薇の花弁が音もなく開く。
そこから覗くのは
夜の底に続くかのような闇。
その深淵から、ずるりと吐き出されたのは
街路でアビゲイルを脅していた
あの大柄な男だった。
血色を失った顔は蒼白で
口端からは泡だった唾液が垂れ
衣服はぬめるように濡れている。
まるで胎内から逆流してきた異物のように
彼は石畳の上に崩れ落ちた。
時也は膝を折り
石畳に伏した男の顔を覗き込む。
呼吸はあるが、意識は遠く
心の声も掠れて意味を成さない。
(まずは拘束⋯⋯
そして、意識を戻すしかありませんね)
彼は一度アラインを見遣った。
黒髪を弄びながらも
彼は既に理解していたようで
懐から取り出した黒革のバンドで
男の両手を後ろにねじ上げ、器用に固定する
鉄の留め金が乾いた音を立て
男は呻きながらも抗えなかった。
(⋯⋯やはり用心深い方です。
何故そんな物を常に携えているのかは
訊かないでおきましょう)
時也はそう胸中で呟き、掌を開いた。
するとそこに現れたのは
小さなミントの枝葉だった。
丸く柔らかな葉の表面から
清涼な香気が立ち上る。
時也はそれを男の鼻先へと近づける。
微かな刺激が意識の深みに沁み
やがて男の瞼が震え
充血した眼球が露わになった。
濁った吐息とともに、呻きが零れる。
酒と油が混じり合ったような臭気が
口から洩れ
荒れた呼吸が廃墟に充満した。
「⋯⋯ぅ、ぐ⋯⋯鳥の⋯⋯バケモンが⋯⋯
はっ!てめぇらは⋯⋯誰だ!?
あぁ!そこに居るのは──クソ神父!」
時也は表情を崩さず、淡々と告げる。
「僕は尋問を好みません。
ですが、必要であれば致し方ありませんね。
虚偽を弄しても無駄ですよ。
僕には、心の声が届きますから。
素直に話すことが
あなたの身を守る唯一の道です」
その声音は柔らかくも冷たく
石壁に反響してなお圧を帯びる。
ソーレンは壁際で煙を吐き
紫煙を斜めに流しながら
ニッと笑みを浮かべた。
アラインは退屈そうに片膝を崩しながらも
腰に佩いた双刃──
Zwillingsrichterの片方を 抜き
無造作に指先で刃先を弄ぶ。
鋼の冷たい輝きがちらつくたび
男の視線は怯えに揺れ
動悸が目に見えて乱れる。
しかし
時也が拾い上げた心の声はまだ掠れていた。
意味の断片が途切れ途切れに流れ込むだけで
意識は混濁し、明瞭な情報には至らない。
「アラインさん、少しお力を借りても?」
時也は背後を振り返り
黒髪の青年に視線を投げた。
アラインは肩を竦め
長い指で髪を弄びながら鼻で笑う。
「時也、忘れたのかい?
ボクの異能は
相手にしっかり認知されていなければ
発動しない。
今のソイツからは
ボクの姿はまだ曖昧にしか映っていないよ」
「⋯⋯貴方を知っていて現れたはずです。
虚偽で誤魔化すのはやめてください。
拷問をしたいだけの言い逃れに聞こえます」
その言葉が落ちた瞬間
廃墟の空気は冷えた刃のように張り詰めた。
ソーレンは
煙を吐き捨てながら口角を吊り上げ
挑発するようにくつくつと笑う。
アラインは氷色の瞳を細め
青ざめた光を閃かせた。
時也は鳶色の眼を鋭く絞り
微笑を捨てて一点に焦点を結ぶ。
三人の視線が──同時に男を射抜いた。
まるで、見えぬ杭で
地に縫いとめられたかのように
拘束された男は身を捩ろうとするが叶わない
乾いた唇は震え
荒い呼吸だけが豚の呻きのように漏れ出す。
石壁に囲まれたこの狭い空間は
冷たい圧力に支配されていた。
まるで廃墟そのものが
彼を裁く〝法廷〟であるかのように──
呻き声と震えは
その場にいた誰の心も揺るがさなかった。
残酷な静寂が、尋問の始まりを告げる。
拘束された男の喉が
ごくりと大きな音を立てた。
乾ききった唇はひび割れ、血が滲む。
それでも彼は
どうにか己を奮い立たせようと
心の奥底で荒々しく叫んでいた。
(──馬鹿げてやがる!
心を読める?はったりに決まってる!
だが⋯⋯もし本当なら?
違う、違う!信じるな、俺は騙されねぇ!
少しだけ真実を混ぜて、煙に巻くんだ⋯⋯
でなきゃ、上から消される⋯⋯!
俺は⋯⋯生き残らねぇと⋯⋯っ!)
その断末魔のような思考が
時也の鳶色の瞳に淡く映し込まれる。
彼はゆっくりと身を屈め
男と視線を合わせた。
光を宿した瞳は湖面のように澄んでいながら
底には鋭利な刃を隠している。
「⋯⋯真実を多少混ぜ込む、ですか」
時也の声は柔らかだが
響きは冷ややかに石壁を打つ。
「確かに、それは──
人に嘘を信じ込ませるための常套手段。
けれど、残念ですね。
僕には、貴方の〝混ぜ物〟も
透けて見えてしまう」
男の喉がひくりと痙攣し、吐息が荒くなる。
ソーレンは壁際で煙草を燻らせ
紫煙を吐きながら口端に不敵な笑みを刻んだ
「はったりで突っ張るのもいいがな⋯⋯
こいつの前じゃ、無駄だ。
嘘は、嘘だと即バレだ。
で、どうする?まだ吐かねぇつもりなら⋯⋯
俺と神父様とで
〝楽しい遊び〟を始めるしかなくなるぜ?」
紫煙が渦を巻き、男の鼻先をかすめた瞬間
彼の背筋は硬直した。
アラインは退屈そうに欄干へもたれ
長い黒髪を指に絡める。
だが、氷色の瞳だけは鋭い光を放ち
まるで獲物の呻きを待ちわびる
捕食者のようだった。
「そうそう。
虚偽を続けたければ続ければいいさ。
その方が、ボクも
〝聖人の仮面〟を脱いで呼吸ができる。
ねぇ、時也?
キミが聴き取れない分を──
ボクが楽しんであげるよ」
アラインの指先が刃先を弄び
弾かれる度に光を反射する。
その冷ややかな煌めきは
男の瞳に映り込み
血の気をさらに奪っていった。
廃墟の空気は圧に満ち
逃げ場は──どこにもない。
鳶色の瞳、琥珀色の瞳、氷色の瞳──
三つの光が一斉に突き刺さる中
男は必死に生唾を飲み込み
心臓の鼓動だけが耳を裂くように響いていた
言葉を吐かなければ
己がどうなるかは解っている。
だが、吐けば吐いたで
背後に控える〝上〟から命を刈り取られる。
その絶望の狭間で
男は喉を鳴らし続けるしかなかった──⋯