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雨が降っていた。東京の空はいつも灰色だったが、この日はとくに冷たかった。
冷えた部屋の片隅で、美咲はじっとしていた。
カーテンは閉め切られ、外の光を拒むように部屋は暗い。
時計の針の音だけが、ぴたりぴたりと虚しく響く。
「死にたいわけじゃないの。ただ、生きてる意味がないのよ」
そんな独り言を、もう何十回繰り返しただろう。
美咲は、小さい頃から「人に期待されない子ども」だった。
両親は形だけは揃っていたけれど、家庭というよりも戦場のようだった。
父は事業の失敗で酒浸りになり、母はそのストレスを美咲にぶつけた。
泣きながら夕食を作り、誰にも褒められず、テーブルに運ぶ日々。
“お前なんか、産まなきゃよかった”
その言葉を聞いたのは、10歳のときだった。
包丁を握ったまま、母は笑っていた。
あの日の台所の匂いは、今でも鼻に焼きついている。
味噌汁の香りと、焦げた魚と、アルコールの匂い。
そして、乾いた涙のしみた制服。
中学に入っても、居場所はなかった。
家に帰っても罵声、学校でも浮いていた。
目立つ容姿を妬まれ、噂を流され、男子から身体を触られても、誰も信じてくれなかった。
“どうせ、お前にも原因あるんじゃない?”
そう言われた瞬間から、誰にも助けを求めるのをやめた。
高校生になると、美咲は“外見”を武器にする術を覚えた。
笑えば男は優しくなり、スカートを少し短くすれば、物はもらえた。
体を許せば、”愛してる”と囁かれた。
でも……
一度たりとも、”心”が満たされたことはなかった。
ベッドで隣に寝ている男の背中を見るたびに思った。
–––「こいつも、いつか私を捨てるんだろうな」–––
その予感はいつも当たった。
相手が変わっても、終わり方は同じだった。
泣くのも、怒るのも、もう疲れた。
裏切られるくらいなら、最初から信じなければいい。
愛されるフリで、生きていけるなら……
それでいいと思った。
20代になってからは、ホステスとして働いた。
指名客はついたが、やはり誰も本当の美咲を見ようとしなかった。
彼女が笑うたび、男たちは金を出した。
でもその瞳の奥の寂しさに気づく者はいなかった。
“君は綺麗だね”と、何百回も言われた。
けれど、”君は悲しい目をしているね”と言った人は、一人もいなかった。
24歳のある夜、酔った帰り道で、ビルの屋上に上がった。
風が吹いていた。
死ぬには、ちょうどいい夜だった。
足を一歩、踏み出しかけた……。
そのとき、背後で誰かが言った……。
『……飛ぶの、やめたら?』
振り返ると、そこには誰もいなかった。
でも確かに、声は聞こえた。
優しくて、温かくて、どこか懐かしい声だった。
–––「……おかしいな。誰か、見ててくれた気がした」–––
あの瞬間、美咲は、初めて「もう少しだけ生きてみよう」と思った。
けれど、それから2年が経ち――
26歳になった今、美咲の人生は、やはり変わらなかった。
空虚、虚無、倦怠。
ただ流れる日々と、絶え間ない孤独。
生きる意味は、どこにもなかった。
ただ、“出会い”だけを待っていた。
誰か、この空っぽな私を見つけて。
どんなに歪んでも、どんなに狂っていても……
私を好きだと言ってくれる誰かを。
それが、「あの人」だった。
その出会いが、人生のすべてを反転させることになると、美咲はまだ知らなかった。