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静かな夜だった。耳を澄ませば、自分の心臓の音だけが、鼓膜を打ちつけてくる。
良規は、天井を見つめていた。
電気もつけず、ベッドに横になって、目だけを動かしている。
眠る理由もなければ、目を覚ましたい理由もなかった。
ただ、今日も死ななかった。
それだけが、彼の一日だった。
彼が“人間らしく”生きていた時間は、たぶん6歳までだった。
父親は暴力的だった。
母親は、その父の暴力から逃げられなかった。
泣くことを覚えた頃には、もう殴られる痛みにも慣れていた。
夜中に壁越しの叫び声が響く。
ドアを開けたら、母が泣きながら服を引き裂かれていた。
その視線の先で、良規は”どうすればいいのか分からなかった”。
ただ、じっと見ていた。
あのときから、彼の心のどこかが“凍った”。
7歳。
母が家を出た。
置き手紙には、ただ一言。
“ごめんね。幸せになって”
意味が分からなかった。
幸せって何? ごめんって何?
置き去りにされた息子は、やがて児童相談所に保護され、施設に入れられた。
施設での暮らしは、孤独の延長線だった。
“普通”の子どもたちは、仲間を作り、先生に甘え、笑っていた。
でも良規は違った。
無表情で、他人の顔色を窺い、いつもひとり隅にいた。
誰とも言葉を交わさず、誰の目も見なかった。
だけど、”観察”はしていた。
食べ方、歩き方、笑い方、怒り方。
人間がどんなふうに感情を出すのか……
それだけを、冷静に、じっと見ていた。
まるで、人間のフリをするために。
中学に上がった頃、同じ施設の年上の少年に暴行された。
夜中、布団の中に潜り込んできて、口を塞がれた。
誰にも助けは求めなかった。
声を出せば、殴られると分かっていたから。
その日以降、良規は”感情”を完全に閉ざした。
笑うことも、泣くことも、怒ることも、やめた。
教師にも友達にも、表面上は”いい子”に見せた。
だけど、心の中ではずっと、こう思っていた。
–––––––––––『人間は、醜い』––––––––––––-
高校は進学校に入った。
勉強はできた。
感情を切り離せば、機械のように知識を吸収できる。
優等生として通った3年間。
誰も、彼の本当の姿を知らなかった。
必要最低限の会話、笑顔の模倣、無難な距離感……
全部、彼が”観察”して真似たものだった。
けれど、心はいつも空洞だった。
誰かと繋がることが、怖かった。
近づかれたら、また裏切られる。
愛を向けられたら、また逃げられる。
それなら、最初から孤独でいればいい。
大学では心理学を専攻した。
“人間”を研究したかった。
他人の痛み、歪み、狂気、愛情……
それらを学問として知ることで、少しでも”理解”できる気がした。
だけど、講義を聞いても、書籍を読んでも、心には何も届かなかった。
なぜなら彼は、生まれてこのかた……
“誰かから本当に愛されたことが一度もない”のだから……。
社会人になっても、日々は虚無の繰り返しだった。
企業のマーケティング部で働き、数字と向き合う毎日。
スーツを着て、笑顔を作って、雑談して、帰宅する。
でも心の中では、”この人生、いつ終わってもいい”と、常に思っていた。
帰り道に橋の欄干を見ては、何度も体を乗り出した。
けれど、いつも足が止まった。
死ぬ勇気もなければ、生きる理由もない。
彼は、ただの“空っぽな存在”だった。
そんな時……
いつもの帰宅ルートとは違う駅で、ふと、彼女を見かけた。
夜10時すぎ、改札を抜けた先のベンチに、一人の女が座っていた。
顔はよく見えなかった。
けれど、その佇まいに、強烈な“孤独”を感じた。
–––––-–—『この人も、壊れかけてる』–––––––––
なぜか、そう思った。
そして……
彼女がスマホを取り落とした瞬間。
良規は思わず、手を伸ばして拾っていた。
『落としましたよ』
たった、それだけ。
けれど、女は驚いたように顔を上げた。
その目は、まるで深い深い闇の底で、わずかに光を求めていた。
そして彼は、確信した。
–––––––『この人は、自分と同じだ』––––––––––
空っぽで、誰にも愛されず、壊れて、壊れて、それでもまだ、どこかで“誰か”を求めている。
そのとき、良規の中で“なにか”が確かに動いた。