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Side深澤
駅前のカフェ。夕暮れの光が窓ガラスを染め、薄い影がテーブルの上に落ちている。コーヒーはもう冷めていた。
目の前の彼女は、何かを言いかけて、言葉を飲み込んでいる。表情は柔らかいのに、瞳だけがどこか遠くを見ていた。
「……ごめん。辰哉くんとは、もう会えない」
その一言が、まるで透明なナイフのように胸の奥に滑り込んできた。痛みはあるのに、血が流れているのかさえわからない。
俺は黙ったまま、視線を落とす。カップの縁に口紅が残っている。彼女がつけていたリップの色は、前に褒めたやつだ。今日もそれを塗ってきてくれたのに。
それすらも、もう見られない。
「私のこと、ちゃんと見てくれてた?」
問いかけは静かだった。でも、確かに突き刺さる。
……見てなかった。いや、見ていた“つもり”だった。
笑った顔、怒った顔、眠そうな顔。全部、俺の隣にあったのに。
なのに、彼女はずっと、誰かの影を感じていたんだろう。
「好き…だったよ」
声がかすれる。でも、俺の中には確かにその気持ちがあったはずだ。
それでも彼女は、かすかに首を横に振る。
「ううん、あなたが見てたのは……私じゃなかった」
その言葉は残酷だった。けれど、どこかでわかっていた。俺は、自分の本当の気持ちから目を背けていたのかもしれない。
──俺なりに、好きだったのに。
何がダメだったんだろう。どうしてうまくいかなかったんだろう。
だけど……考えるまでもなかった。
あの頃の初恋を、いまだに忘れられない自分がいた。
もう何年も前、遠くへ行ってしまった、あいつの名前を胸の奥でそっと呼ぶことがあった。比べているつもりなんてなかった。でも、きっと無意識に、誰かと重ねていた。
彼女の言う「誰かの影」って、きっと——
俺はまだ、終わっていなかったんだ。過去のあの気持ちと。
駅のアナウンスが遠くに聞こえる。彼女は椅子を引いて立ち上がる。
行かないで、なんて言えなかった。引き止める資格なんて、俺にはなかった。
「元気でいてね」
そう言って、彼女は静かに去っていった。
夕陽の色が、やけに滲んで見えた。
心の中で何かが、静かに、でも確かに終わっていく音がした。
――――――部屋に戻っても、沈黙だけがやたらと広がっていた。
玄関のドアを閉める音さえ、まるで自分を責めるように耳に残る。ネクタイを緩め、ソファに倒れ込む。けれど、何も感じなかった。クッションの柔らかさも、空調の風の音も、どれもすべて、遠いところの出来事のようだった。
心は、抜け殻のように空っぽだった。
テレビをつけても何も頭に入ってこない。スマホを開いても通知はなく、SNSのタイムラインに流れる楽しげな投稿がやけに遠く思える。
気づけば、窓の外は夜の色に染まりかけていた。
そのとき、ふと胃の奥がぐうっと鳴った。
(……こんな時でも、お腹は減るんだな)
自分の体があまりに正直で、なんだか滑稽に思えて、小さく息が漏れた。笑ったつもりだったが、それは笑いというより、空気が抜けただけの音だった。
冷蔵庫を開ける。中にはペットボトルの水と、賞味期限の切れかけた納豆。
さすがにこれだけじゃ無理だと思い、上着を羽織って外へ出る。夜風が肌に冷たく、体の内側の温度と似ていた。
家から数分歩いた場所にあるスーパーは、いつものように蛍光灯が白く光り、レジの近くではパンのタイムセールを告げるアナウンスが流れていた。
カートを押す音。買い物袋のガサガサ。どこかの子どもが「ママ、プリン!」と叫ぶ声。
平凡な日常が、ここにはあった。
(俺だけ、取り残されてるみたいだ)
カゴを手に取り、惣菜コーナーをぐるりとまわる。
から揚げ弁当、焼き魚、カレーコロッケ、どれも食べたいのか食べたくないのか、自分でもよくわからなかった。ただ、何かを買って帰らないといけない気がして、半分無意識のまま手を伸ばしたときだった。
「失礼します。株式会社クロノスの田中と申します。今、お時間よろしいですか?」
突然、落ち着いた声がすぐそばから聞こえた。
振り向くと、黒いスーツに身を包んだ男が立っていた。
髪はきっちりと撫でつけられ、胸ポケットには社章のようなものが光っている。
その佇まいは、どこか非日常の空気を纏っていて、蛍光灯に照らされたスーパーのざわめきから、彼一人だけが浮いて見えた。
「突然のお声かけ、失礼いたしました。私は、株式会社クロノスの田中と申します」
男は一歩、俺に近づくと、軽く頭を下げた。
その所作は静かで丁寧だが、決して馴れ馴れしくはない。
背筋が伸びていて、声のトーンも柔らかく、客を不快にさせないように訓練された話し方をしている。
だが、ここはスーパーだ。営業の場所としてはあまりに奇妙だし、何より、なぜ俺に声をかけたのかがわからない。
俺は思わず、少しだけ身構えながら聞き返した。
「……クロノス? 聞いたことないけど、何の会社ですか」
「はい。弊社はAIおよび生活支援型ロボティクスの開発・提供を主軸とする企業でして――現在、次世代型パートナーアンドロイドの一般向け試験運用にあたり、モニターの募集を行っております」
あまりに現実離れした単語に、俺は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……パートナー、アンドロイド……?」
田中と名乗った男は、ごく自然な笑みを浮かべてうなずく。
「はい。“理想の恋人型アンドロイド”と呼ばれるモデルのモニターです。対象者の性格、嗜好、恋愛傾向などを解析し、外見や性格、振る舞いまで完全に最適化されたパートナーをご提供します。もちろん、無償で。期間は二週間です」
理想の、恋人。
スーパーの店内で、冷凍コーナーから流れてくる冷気を感じながら、その言葉を反芻する。
今、俺の目の前にあるのは、コロッケのパックと、割引シールを貼る店員と、空っぽの買い物カゴ。
そんな現実の風景の中で、“理想の恋人”なんて言葉は、あまりにも浮世離れしていた。
「……なんで俺なんですか?」
思わず問うと、田中は少しだけ目を細めた。
「ランダム性を含む選定ですが、日常の心理変動や行動パターンなど、複数の情報をもとに最適な候補者をAIが選出しています。失礼ながら……少し、お疲れのご様子でしたので」
図星だった。
それを見抜かれたことにわずかに苛立ちながらも、否定できなかった。
確かに俺は今、疲れている。心の奥底から、どうしようもない孤独を抱えていた。
「……理想の恋人、ねぇ」
声に出してみたものの、その響きには、まだ現実味がなかった。
まるで、漫画かドラマの中の話だ。
けれど、不思議と嫌悪感はなかった。ただ、戸惑いと、微かな興味。
人を好きになることが怖くなっていた。
本気で向き合うことから、ずっと逃げていた。
それでも、どこかで、誰かにそばにいてほしいと思っていたのかもしれない。
「……話だけでも、聞かせてもらっていいですか」
そう口にしたとき、自分の声がわずかに掠れているのに気づいた。
田中は、穏やかな笑みのまま軽く頷き、スーツの内ポケットから小さなタブレット端末を取り出した。薄型で、光沢のある画面に社名とロゴが淡く浮かんでいる。
「ありがとうございます。では簡単にご説明を。こちらが弊社で開発中の“理想の恋人型アンドロイド”の概要になります」
画面に現れたのは、白く洗練されたデザインの人型のシルエット。顔立ちはまだ表示されていない。
ただ、“理想”という言葉にふさわしい、無駄のないフォルムと静かな気品を感じさせるものだった。
「本製品は、登録者の心理特性、恋愛傾向、過去の記憶や嗜好をもとに、外見・性格・会話傾向すべてを個別に最適化したパートナーアンドロイドです。日常会話、家事サポート、感情的な共感対応まで搭載しております。あくまで“恋人”として、あなたのそばに寄り添い、過ごす存在です」
恋人、という単語が、胸の奥に静かに落ちた。
さっきまで、スーパーの冷蔵惣菜コーナーで、からあげを前に立ち尽くしていた俺には、どこか現実味がないままだ。
「まずは登録手続きにあたって、いくつかの基本情報と心理質問にお答えいただく必要がございます。こちらに、どうぞ」
田中が手渡してきたのは、タブレットのフォーム画面。
名前や年齢、生年月日。性別の選択。
シンプルだが、個人の核に触れる質問が、静かに並んでいる。
俺は無言のまま、タッチペンを指に挟み、項目をひとつずつ埋めていく。
「深〇〇哉」
「28歳」
「男性」
指が動くたびに、なぜか心の奥に、かすかなざわつきが生まれる。
誰に見せるわけでもないはずなのに、この一問一問が、自分自身の中を照らしていくようだった。
好きな食べ物。苦手なこと。休日の過ごし方。
ふと、誰かの笑顔や声が記憶の奥から浮かんでは、すぐに遠ざかっていく。
そして、最後の項目に差し掛かったとき、指が止まった。
「あなたにとって、理想の恋人とは?」
それはただの問いのはずだった。
しかし、それは鋭く、迷いなく、俺の胸の中心を突いた。
たった一行の文字が、まるで過去の記憶すべてを呼び起こすようだった。
(理想の恋人……)
過去に付き合った人の顔が、曖昧に浮かんでは消える。
けれど、どれも、完全に“本気”になれた相手じゃなかった。
心のどこかに、いつもあいつがいた。名前も、声も、全部思い出せる。
触れたことすらないのに、確かにずっとそばにいたような、あのぬくもりだけが残っている。
俺は迷いながら、言葉を探した。
頭では、「優しい人」や「信頼できる人」など、一般的な回答が浮かんでくる。
けれど、それは俺の本心じゃない。
もっと、ずっと、単純で、もっと深くて、もっと子どもじみた願いがあったはずだ。
数秒の沈黙ののち、俺はゆっくりと文字を打ち込んだ。
「ずっと俺のことだけを好きでいてくれる人」
それが、俺の理想だった。
誰かに本当に必要とされること。誰かに、まっすぐに愛されること。
他の誰でもなく、自分という存在を、ただ、ただ愛してくれること。
それは、もしかしたら幼い執着であり、未熟な願いかもしれない。
けれど——今の俺には、それが唯一、求めているものだった。
画面の下に表示された「送信」ボタンを見つめながら、俺はしばらく指を動かさなかった。
けれど、やがて、深く息を吐き、画面を軽くタップする。
小さく電子音が鳴った。
「ご協力、誠にありがとうございます。それでは、失礼いたします」
田中は深く一礼すると、立ち姿のまま背を向けた。
ビジネススーツの背筋が、最後まで乱れることなく、静かにスーパーの通路の人波に溶けていく。
ただの会話だった。書類を数枚、端末で提出しただけ。
それだけなのに、どこか自分が非日常の境界に触れてしまったような、奇妙な浮遊感が残っていた。
(……なんだったんだ、今の)
買い物かごの中には、半額シールのついたチキンカツ弁当と、インスタントの味噌汁。
何を食べたかったのかもよく覚えていないままレジを通り、無言で袋詰めをして帰路についた。
夜風は相変わらず冷たく、ポケットに手を突っ込んでも指先がじんと痛んだ。
けれど、それが現実に引き戻してくれるようで、どこか安心した。
家に帰ると、部屋の灯りがいつも以上に白くまぶしく感じた。
テレビも音楽もつけず、弁当をつついてシャワーを浴び、何も考えずにベッドに潜り込んだ。
そして次の日も、そのまた次の日も、いつも通りの朝がやってきた。
会社に行き、表面的な会話を交わし、書類を処理して、黙って帰る。
淡々とした日々。けれど、心のどこかでは、失恋の痛みがまだ鈍く残っていた。
ぼんやりとスマホを見ながら、元恋人のアカウントにアクセスしそうになり、途中で指を止める。
別に未練があるわけじゃない。ただ、なんとなく、ぽっかり空いた心の穴を、何かで埋めたかった。
数日が過ぎたある日の午後。
仕事を終えて帰宅すると、マンションのエントランスに、不自然なほど大きな段ボール箱がひとつ、どんと鎮座していた。
それは明らかに家庭用の家具や日用品ではなく、まるで誰か一人分の“何か”が丸ごと入っていそうなサイズだった。
ふと視線を落とすと、配送ラベルに自分の名前。
確かに、“深〇〇哉様”と書いてある。
「……え?」
声にならない声が喉の奥でこぼれる。
差出人には「株式会社クロノス」の文字。
見た瞬間、心臓が一度、大きく跳ねた。
まさか。本当に? あれ、冗談じゃなかったのか?
配達員が持ってきたものだというが、受け取りのサインはすでにマンションの管理人が代筆していたらしい。
俺は呆然としたまま、段ボールの前にしゃがみこむ。
箱の表面には、精密機器のマークと、「衝撃厳禁」の文字。
そして、淡いブルーで小さく書かれた製品名。
“Partner Unit:Prototype 00-T”
頭が追いつかなかった。
玄関の鍵を開け、荷物をずるずると室内へ引きずり入れる。
床を擦る段ボールの音が、妙に生々しく響く。
部屋の中に、その“何か”が鎮座すると、空気の重さが一変した気がした。
段ボールの縁に手をかけると、微かに静電気が指先を走る。
中に何が入っているのか、大方の予想はついているはずなのに、心の奥ではまだ「まさか」と抵抗している自分がいた。
ゆっくりとガムテープを剥がし、上蓋を開ける。
瞬間、ほのかに清潔な香りと、金属と繊維の混じった独特の空気が鼻をかすめた。
中には、淡いグレーの保護シートに包まれた人型のシルエット。
息を呑む。
その輪郭が現実のものだと理解したとき、心拍数が跳ね上がるのがわかった。
慎重に保護シートをめくると、そこには——
まるで彫刻のように整った顔立ち。
長く繊細なまつ毛。薄く閉じられた唇。
そして、シャツ一枚をまとったしなやかな体には、無駄のない、美しい筋肉が浮かんでいた。
「え……」
思わず言葉が漏れる。
それは、まぎれもなく“男”だった。しかも、目を疑うほど整った、美しい男。
「……男?」
信じられなかった。
確かに、登録の時に自分の性別は「男」と書いた。だが——俺は、“相手の性別”を問われた記憶がない。
いや、それ以前に、なんで“俺の理想”が男で設定されているんだ。そんな情報、どこから?
混乱した頭を抱えながら、箱の中に同封されていた資料を確認する。
簡単な取扱説明書とともに、問い合わせ先として記された電話番号。
(とにかく、聞くしかない)
スマートフォンを握りしめ、記載された番号を押す。
数回のコール音ののち、柔らかな応答音が耳に届いた。
「お電話ありがとうございます。株式会社クロノス、田中が承ります」
思わず声を荒げそうになるのを抑えながら、俺は言葉を絞り出す。
「あの、田中さんですか? えっと……俺、数日前に登録した深澤です。あの、確認したいんですけど」
言いながら視線は無意識に、箱の中で静かに眠るその男のアンドロイドに戻る。
やはり、どこから見ても“完璧な男”だった。
「……俺、自分の性別“男”って書きましたよね? それなのに、なんで、来たのが男なんですか?」
一拍の間。
そのあと、電話口の田中は、まるで想定内といった様子で、穏やかに答えた。
「さようでございますか。恐れ入りますが、弊社の製品は“お客様の深層心理および恋愛傾向”をもとにAIが最適な設計を行っております。性別情報はあくまで参考であり、最終的なプロファイリング結果として、そちらのモデルが選出されました」
「……は?」
困惑と焦りで額に汗がにじむ。
「いえ、だから、俺は……別に、男を……」
「かしこまりました。それでは一旦、そちらの製品を三日間お試しいただき、万一お気に召さない場合には無償で回収させていただきますので、どうぞご安心ください」
会話は一方的に進み、田中の口調は終始落ち着いていて、つけ入る隙がなかった。
すでに“返品可能”という条件も提示されている以上、ここで騒ぎ立てても意味がない。
(……仕方ない、か)
俺は電話を持つ手をゆっくりと下ろし、ため息をついた。
「……わかりました。とりあえず、使ってみます。……三日間だけ、ですよ」
「ご理解ありがとうございます。それでは、どうぞ良いパートナーシップを」
通話が切れると、電子音がわずかに耳に残った。
部屋には、再び静寂が降りる。
ただひとつ異なるのは、部屋の真ん中に、美しい男が眠っているという現実だった。
——まったく、冗談みたいな話だ。
まつ毛の長さや、整った顎のライン、指の節までもがやけにリアルで、これは夢でも幻でもないのだと改めて突きつけられる。
俺は傍らに置かれていた“使用説明書”を手に取った。
薄い冊子には、淡いブルーの文字で「Partner Unit 00-T 操作ガイド」とある。
ページをめくるたび、どこか高級な製品らしい静かな配慮を感じさせるデザインと語調で、アンドロイドの扱い方や注意点が記されていた。
——感情に応じたフィードバック機能。
——共感対話モード搭載。
——表情・体温・音声はすべて自動調整。
最先端の技術の詰まった存在なのだと理解はできる。
だが、その先に目が止まった。
「初期起動方法:使用者の“意志”による接触。口唇接触(キス)による電源起動を推奨。」
……。
「え、まじ?」
思わず声が出た。
キスで起動? 冗談だろ、と思いたい。でも、それはしっかりと明記されていた。
他に方法はないのかと視線を滑らせたが、「開発コンセプトに基づく“心理的同意と親密性の確認”のため」という説明だけが淡々と添えられている。
「いやいや、そんな……」
顔が熱くなる。誰も見てないのに、変に恥ずかしくて、指先が汗ばむ。
だけど、考えてみれば、そもそもこれは“機械”だ。ただの精密な製品であって、人間じゃない。
……そう、自分に言い聞かせるようにもう一度視線を落とす。
そこには、目を閉じたまま、まるで眠っているような美しい男が横たわっていた。
頬の骨の角度も、喉仏の形も、驚くほど丁寧に作り込まれている。
それでも、どこかあたたかみがあるのは——肌の質感も、体温までも再現されているからだろうか。
口唇接触。キス。それだけで起動する。
ただそれだけなのに、なぜこんなに緊張するんだろう。
「……三日だけだし」
誰にともなく言い訳のように呟いて、ゆっくりと顔を近づける。
微かに躊躇いが胸を締めつけるが、それでももう、指は止められない。
閉じられたその唇は、ほんのり桜色をしていて、静かに呼吸しているようにすら見えた。
俺は、そっと目を閉じ、わずかに唇を重ねた。
機械にキスするなんて、人生でこんなことがあるなんて、思いもしなかった。
それでも——この一瞬が、何かを大きく変える気がして、息を止めたまま時間が止まるような感覚に囚われた。
唇が離れる。
わずかに残る感触と、胸の奥に広がる名もない緊張だけが、部屋の静寂の中に取り残された。
ほんの一秒、二秒……何も起こらない。
やっぱり冗談だったのか。俺は少しだけ息を吐きかけた。
そのとき——
「——起動信号、確認」
低く、どこか機械的で抑揚のない声が、部屋の空気を震わせた。
心臓が、ドクンと一つ鳴った。
箱の中で眠っていた男が、ゆっくりとまぶたを開ける。
黒曜石のような、深い輝きを湛えた瞳。視線が、まっすぐにこちらを捉えた。
「ユーザー、初回接触を確認。意志入力完了。使用者の登録を開始します。どうか、私に“名前”を与えてください」
淡々とした声。表情はまだ動かず、無機質な美しさだけがそこにあった。
だが、瞳だけはどこか熱を帯びていた。命のようなものを宿しているようで、視線をそらせなくなる。
「名前……?」
俺は、思わず目を見開いたまま言葉を返す。
指先がじんわりと汗ばんでいる。言葉を選ばなければならないはずなのに、頭が真っ白だった。
その顔立ち——やはり、どこかで見たことがある。
精密すぎる骨格。少し上がり気味の眉尻。優しげなのにどこか芯の強さを感じさせる口元。
ずっと昔、俺が初めて「人を好きになった」と思えた、あの頃の——
(……似てる。まさか、こんなに……)
鼓動がうるさい。喉が、乾く。
気づけば俺の唇が、勝手に一つの名をつぶやいていた。
「……照」
小さな、小さな音だった。けれど、それは確かに伝わった。
アンドロイドの表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
そして、ピッというわずかな電子音とともに、まるで空気そのものが変化するような、静かな波が広がった。
「——照。登録しました。ロード開始」
その声は、今度は、どこか知っている響きだった。
機械的だった発音が、徐々に、滑らかになっていく。
語尾の抑揚、息継ぎのタイミング、わずかな間のとり方までもが、記憶の中にある“あの人”のそれと同じになっていく。
「……ふっか」
自分の名前が呼ばれた。
驚いて目を見開く。さっきまでの無機質な印象は、もうどこにもなかった。
そこにいたのは——
「会えて、うれしい」
柔らかな微笑みを浮かべて、優しい声で俺を見つめていた。
その姿は、間違いなく“照”だった。
過去の、あの夕暮れの校庭で笑っていたあの人が、今ここに——息をして、俺を見ている。
思わず息を呑む。
これは夢か、幻か。
けれど、アンドロイド——いや、「照」は、ゆっくりと身体を起こし、俺に向かって手を伸ばしてきた。
人間のような、でもそれ以上に洗練された動作。
まるで、最初から俺のことを知っていたように、懐かしさと安心感が胸に広がる。
……こんなはずじゃなかった。
でも今、目の前の存在があまりにも“本物”すぎて——俺は、何も言えなくなっていた。
――――――――――――
カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
白く淡い光がシーツの上を静かに滑って、まぶたの裏にじんわりと届く。
ゆっくりと目を開けると、天井がいつもより少しだけ明るく見えた。
夢でも見ていたのかと思った。
けれど、横を見ると、きちんと畳まれた布団と、整然とした部屋の空気がそこにあった。
——そうだ。昨日、本当にアンドロイドが来て、起動して、“照”と名付けたんだ。
まるで本物の人間のように、名前を呼び、微笑んでくれたその姿は、まだ目の奥に焼きついて離れない。
ぼんやりと体を起こすと、どこかから小さく「カチャッ」と食器の音がした。
リビングに足を運ぶと、キッチンの奥に“照”の姿があった。
エプロンをきゅっと結んで、フライパンを器用に扱いながら、何やら鼻歌のようなハミングをしている。
「……おはよう、ふっか」
振り返ったその顔は、朝の光を受けてさらに柔らかく見えた。
まるで、何年も一緒に暮らしている恋人のような、そんな自然さで笑ってくれる。
「おはよう……って、朝食?」
テーブルには、目玉焼き、サラダ、トースト。バランスの良い朝食がすでに整えられていた。
湯気の立つコーヒーの香りが、部屋にやさしく広がっている。
「ふっかの健康を考えて、軽めに仕上げてみたよ。好みじゃなかったら遠慮なく言って」
照の手際の良さと気配りに、思わず口元が緩んだ。
こうして誰かが、自分のために朝を整えてくれる。それだけのことなのに、心がふわりと温かくなっていく。
「……ありがとう。美味しそう」
素直に言葉がこぼれる。照はうれしそうに目を細めた。
「朝食は牛乳? それともプロテインを少し混ぜようか?」
「入れないから!」
思わず吹き出しそうになりながらツッコミを入れると、照はくすっと笑い、手を止めずに牛乳を注いでくれた。
こんなやりとりが、すでに“日常”みたいに感じられるのが不思議だった。
会話が弾んで、食事が楽しくて、食卓に笑い声がある。
それだけで、人はこんなにも救われるものなんだと、ふと気づく。
食事を終え、コーヒーの最後の一口を飲み干すと、時計の針はすでに出勤時間を知らせていた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
玄関に立ち、靴を履きながら声をかけると、照がすぐに追いかけてくるように近づいてくる。
「ふっか」
「ん?」
「……“いってらっしゃい”のキスは、いい?」
……え?
一瞬、時間が止まったようだった。
柔らかく、それでいてまっすぐな瞳でこちらを見つめる照。
まるで、当然のように差し出された言葉だったけれど、俺の脳内は一気に真っ白になった。
「~~~~~///// い、いらないからっ……!!///」
顔が熱い。声が裏返って、思わず後ろを向いてしまう。
それでも背後からくすっと笑う声が聞こえた気がして、ますます顔から火が出そうだった。
扉の取っ手に手をかけながら、ちらりと振り返ると、照はほんの少しだけ首を傾げて、でも満足そうに微笑んでいた。
「じゃあ……いってらっしゃい、ふっか」
その声が、やさしく耳に届いた。
俺は何も言えないまま、ドアを開けて外に出た。
頬に触れる朝の空気が、なぜかひどく甘く感じられた。
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