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ぱちん、と。
あまりに軽い音だった。
それなのに、世界の輪郭が一瞬だけ滲んだ気がした。
頬に触れた衝撃は、すぐに消えた。痛みはなかった。
ただ、そこに「遥の意思」があった──それが、蓮司にとっての異物だった。
蓮司は、頬に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
笑ってもいなかった。
遥の表情を、まっすぐ見ていた。
泣きそうな目で、それでも逃げずに睨み返してくるその瞳を、
まるで宝石でも見るように、静かに。
「……すごいね、遥」
ふっと、吐息のように零れる声。
「叩くんだ、人って。震えながらでも」
その声には、どこか──温度があった。
けれど、それが何の感情なのかは、わかりにくかった。
ただ確かなのは、「喜んでいる」のではなく、「記録している」目をしていた。
「へぇ……そう。日下部には、そういう顔するんだ」
呟きながら、蓮司は口元をぬるく歪めた。
笑っている。でも、それは感情の表出ではない。
計算ではなく、観察者の興奮だった。
「……叩いたときの顔、最高だったよ」
蓮司の声が、今度は少しだけ低くなる。
その響きには、確かに微かな熱が混ざっていた。
「びくってしてさ。顔、真っ赤になって、でも目だけは絶対に逸らさなくて」
その手で、何度も同じ言葉を叩き返されたような顔をして、
蓮司は笑う。
「──日下部のため?」
遥の体が、かすかに強張った。
蓮司はゆっくりとその顔を覗き込む。
「それとも、自分のため? “あんなことされたのが自分だけじゃ嫌”って、思った?」
それは遥の中の罪悪感を抉る言葉。
けれど蓮司の声は、いつになく優しく、慈しむようだった。
「どっちでもいいけどさ──」
蓮司は、その場でしゃがみ込んだ。
遥の視線と、同じ高さに降りてきて、ゆっくりと笑う。
「……やっぱ、おまえ面白いよ。ほんとに」
その目が、ぞっとするほど真っ直ぐだった。
支配ではない、哀れみでもない。
けれど、それでも逃れられない“熱”があった。
「もっと見たくなったよ。その“怒る顔”も、“怯える顔”も。……きっと、全部綺麗だから」
そして蓮司は、もう一度、頬を撫でた。
さっき遥が叩いた場所を、指先でゆっくりなぞる。
「……また、叩いてね」
小さく囁くように言って、
蓮司はそのまま、遥の真正面でじっと見つめていた。
まるで──「選ばせて」いるかのように。
静寂の中で、空気だけが重たく動く。
そして──その場面は、途切れる。