テラーノベル
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「また叩いてね」
そう言った蓮司は、遥の目の前から立ち上がらなかった。
むしろ、じっとその場にしゃがみ込み、遥と同じ高さ──いや、遥の視線よりもわずかに低い位置で、見上げるように顔を上げる。
「ねえ、遥」
囁くような声だった。
静かで、優しくて、甘い。けれど、だからこそ、残酷だった。
「どうして、叩いたの?」
遥は答えない。
喉がつまって、言葉が浮かんでも、吐き出すことができなかった。
「“日下部を守りたかった”……ほんとに、それだけ?」
蓮司の目が揺れることなく、遥を射抜いてくる。
「“自分だけが汚されてればいい”って、思ってたよね。……でも、違った」
蓮司の指が、空中でふわりと動く。
触れない、でも触れる寸前の距離で。
遥の肩のあたり、首筋の影、頬のそば──その“記憶の位置”を、なぞるように。
「他の誰かにも……“同じ目”に遭うかもしれないって思ったら、耐えられなかった」
「それってつまり──」
一拍、蓮司はわざと間を空ける。
静けさが、耳鳴りのように膨らむ。
「“自分のもの”だったってこと、じゃない?」
遥の目が、かすかに揺れる。
「ねえ、違う?」
蓮司はゆっくりと立ち上がった。
だが、遥から目を逸らさない。
そのまま、真正面から、静かに圧をかけ続ける。
「“誰にも触れられたくなかった”。“誰にも壊されたくなかった”。“日下部の中にある、あの優しさだけは、自分だけのものでいてほしかった”」
蓮司は、言葉にとどめを刺すように微笑んだ。
「──だから、叩いたんだろ?」
遥の喉がきゅっとつまる。
何も言えない。
認めたくない。
でも、心のどこかが、ぎくりと動いた。
「ほんと、綺麗だよ。そうやって“自分の中にも欲望がある”って気づいちゃって、壊れてくの」
蓮司は、近づきすぎない距離を保ったまま、
手を胸の前で組み、ひどく柔らかい声で言った。
「ねえ、遥。俺ね──」
「“おまえが壊れてく姿”が、いちばん好きかもしれない」
それは、明確な告白だった。
愛でも恋でもない。
けれど、それ以上に深く、残酷なもの。
蓮司は、遥のすぐ目の前に立ったまま、ゆっくりと視線を伏せる。
「だからさ、逃げるなら今のうちだよ」
「そうじゃなきゃ──」
「もう、おまえ、戻れなくなるよ?」
囁くようにそう言って、蓮司は一歩も動かない。
選択肢は、遥の足元から音もなく崩れはじめていた。
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