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第七十五話 事故の直前
公園を出てから、二人はほとんど話さなかった。
彼の頭の中には、
事故の直前に見た景色が残っている。
雨に濡れた道路。
赤信号。
その向こうに見える、古い建物。
「……あそこだと思う」
彼が足を止めた。
彼女も立ち止まり、彼の視線の先を見る。
少し離れた場所に、古い建物が残っていた。
「行ってみよう」
二人はゆっくり歩き始めた。
近づくにつれて、
彼の中に見覚えのある感覚が広がっていく。
「……ここ」
建物の前に立った瞬間、彼は呟いた。
記憶の中と同じだった。
外壁。
入り口。
そして、道路から見える小さな窓。
「事故の直前、ここを見てた」
「何があった場所なの?」
「分からない」
彼は建物を見上げた。
「でも、ここを見たあと……俺は戻ろうとした」
その言葉に、彼女が反応する。
「戻ろうとした場所って、ここだったのかな」
「たぶん違う」
彼は首を振った。
「ここを見て、そのあと別の場所に向かったんだと思う」
二人は建物の周りを調べた。
入り口の横には、古い掲示板がある。
その端に、小さな傷があった。
円の中に一本の線。
また、あのマーク。
「ここにもある……」
彼女が指で触れる。
彼は周囲を見回した。
そして、建物の脇にある細い路地に目を向けた。
「……あっち」
「何か思い出した?」
「いや。でも、行ったことがある気がする」
二人で路地へ入る。
少し進んだところに、小さな階段があった。
彼はそこで足を止めた。
突然、頭の奥に記憶が流れ込んでくる。
雨の音。
階段を駆け下りる自分。
誰かの声。
『待って』
そして――
小さな箱。
「……ここだ」
彼は階段の手すりを握った。
「事故の前、俺はここを通った」
彼女が隣に立つ。
「何をしに?」
彼は記憶を探した。
けれど、肝心なところだけが抜け落ちている。
「……誰かに会いに行った」
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「誰かって……?」
「分からない」
彼は苦しそうに答える。
「でも、その人に何かを渡すんじゃなくて……受け取るために行った気がする」
二人の間に沈黙が落ちた。
箱。
受け取るはずだったもの。
そして、事故。
全部がつながり始めている。
そのとき、彼女が階段の端に何かを見つけた。
「これ……」
小さな金属片だった。
拾い上げると、そこにはあのマークが刻まれている。
彼が持っている銀色のチャームと同じだった。
「また……」
彼は金属片を見つめる。
裏側には、短い文字が刻まれていた。
『ここから先は、一人で行った』
彼は息を止めた。
「……俺が?」
彼女も文字を見る。
「たぶん」
彼は周囲を見回した。
記憶の中では、誰かと一緒にいた。
でも、この場所から先は――
一人だった。
そして、その先に事故が起きた。
「じゃあ……」
彼女が小さく言う。
「ここから先で、何かあったんだ」
彼は答えなかった。
ただ、階段の先を見つめていた。
雨の日。
誰かから何かを受け取るために向かった場所。
そして、その途中で起きた事故。
まだ思い出せない。
けれど、今までより確実に近づいている。
そのとき、彼女のスマホが震えた。
知らない番号からだった。
『そこまで来たんだね』
続いて、もう一通。
『でも、そこから先は記憶と違う』
彼は眉を寄せた。
「……どういうこと?」
さらにメッセージが届く。
『事故の日、君は一人ではなかった』
二人は同時に画面を見つめた。
彼の記憶では、一人だった。
けれど――
知らない番号の人物は、それを否定した。
最後に届いたメッセージ。
『もう一人、そこにいた』
雨の音が、遠くで聞こえた気がした。
彼の記憶の中に、もう一つの影が浮かび始めていた。
コメント
1件
読み終わったよ〜…🥀 「ここから先は一人で行った」って刻まれた金属片、めっちゃゾッとした… 自分の過去の記憶に裏切られてる感じ、すごく痛い。 しかも「もう一人いた」って知らない番号から届くの、重い…でも続きが気になりすぎる💔