テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その日の暗黒厨房は、もはや“職場”ではなかった。
地獄。
いや、地獄ですらもう少し秩序がある。
「ねぇ1eggs、見て見て♪ 今日の僕、すっごく発酵の調子いいんだぁ」
ジョンドゥは、いつもの満面の笑顔で1eggsへにじり寄っていた。
白いパン生地の頬はほんのり桃色。
首元の赤いスカーフがふわりと揺れる。
そして右腕の業務用大型ミキサーは――
ブォォォォォン……
ブォォォォォン……
恋愛感情に比例して爆音化していた。
「寄るなッ!! 暑苦しい!!」
1eggsは金色の目を血走らせ、金色のフライパンを盾みたいに構える。
「お前の無駄な発酵熱でオーブンの温度が狂っただろうが!! 俺の計算は0.1度単位なんだよッ!!」
「えへへ、でも僕、1eggsの近くだと勝手にふくらんじゃうんだよねぇ」
「知らねぇよ!!」
朝から騒音。
だが地獄はそれだけでは終わらない。
厨房入口。
そこには、床に這いつくばる長身の男がいた。
最高幹部――古代の吸血鬼(覇王)、ノスフェラトゥである。
「おおお……!」
真紅の瞳を潤ませ、蝙蝠耳をピクピク震わせながら、彼は新人二人を見上げていた。
口元からは当然のようにヨダレが滝みたいに垂れている。
「若き愛の熱気……!! これもまた、スペクター様が私へ与えた“見せつけ焦らしプレイ”……!!」
「違ぇよ」
「尊い……ッ!!」
「話聞け」
ノスフェラトゥ、本日も絶好調である。
さらにその横。
ホスフォラスは調理台に尻尾を叩きつけながら腹を抱えて転げ回っていた。
「ギャハハハハ!! ダメだこの組織!! 朝から全員バグってる!!」
「お前が言うなトカゲ!!」
「見てよ覇王! ヨダレで床テカってる!!」
「やめろ見るなァァアア!!」
そして。
そんな全方位カオス空間の中心で。
組織の絶対的支配者・スペクターだけは、優雅だった。
赤いシルクハット。
漆黒のコーヒー。
魔界産の黒薔薇。
彼は完璧な真顔のまま、静かに花弁を眺めていた。
「……今日の薔薇は少々、道徳的な棘が足りないね」
誰も意味を理解できない。
だが誰もツッコまない。
なぜなら今、この組織で“まともなツッコミ”を担当できる人物は、一人しかいないからだ。
――カツ。
――カツ。
――カツ。
その足音が響いた瞬間。
厨房の温度が三度下がった。
現れたのは、当然。
アズール。
深く被ったウィザードハット。
抱えた300ページ報告書。
そして。
死んだ魚を通り越して“深海に沈んだ魚類の怨念”みたいな目。
アズールは厨房へ一歩踏み込む。
そして。
視界に広がる光景を見た。
イチャつく新人。
ヨダレ犬。
爆笑トカゲ。
薔薇を見つめる主。
その瞬間。
脳内で何かが。
プツン、と切れた。
「――おかしいでしょうがァァァアアアッッ!!!!」
厨房全体が震えた。
ジョンドゥのミキサーが止まり。
ホスフォラスが吹っ飛び。
ノスフェラトゥの耳がピンと立つ。
アズール、ブチ切れである。
「何なんですかこの空間は!! なぜ勤務時間中に大型ミキサー男と骨男が半径30センチで恋愛発酵してるんですか!!」
「恋愛じゃ――」
「黙ってください減給です!!」
早い。
判断が早い。
「そしてノスフェラトゥ様!! あなた仮にも最高幹部でしょう!? なぜ新人の足元で“待て”してる大型犬みたいな姿勢なんですか!!」
「スペクター様からのお預けが――」
「知りません!!」
ゴンッ!!!
報告書の角が脳天へ炸裂。
「ひゃうッ♡」
「喜ぶな!!」
アズールのツッコミは止まらない。
「ホスフォラス!! あなたは何ですか!? なぜ笑いながら床を転げ回っているんです!? しかも動画撮ってますよね!? 消しなさい!!」
「え~、バズるってこれぇ!」
「バズらせません!!」
さらにアズールは、ゆっくりと主を振り返った。
厨房が静まる。
全員が息を呑む。
スペクターは優雅にコーヒーを口へ運んだ。
完璧な真顔。
対するアズール。
完全に限界突破した目。
「――そしてスペクター様ァァァアアアアアッッ!!!!」
ついに来た。
直属上司への魂の叫びである。
「なぜあなたはこの世の終わりみたいな空間の真ん中で、1ミリも動じず薔薇を見ながらコーヒーを飲んでいるんですか!!」
スペクター、静かに瞬き。
アズールは止まらない。
「予算管理! 人材管理! 風紀管理!! 全部私です!! 私のワンオペです!!」
ドンッ!!
報告書を机へ叩きつける。
「右を見ればヨダレ!! 左を見れば発酵!! 後ろではトカゲが爆笑!! 私の胃壁だけが毎日殉職してるんですよ!!」
「……」
「何とか言ってください!!」
沈黙。
そしてスペクターは。
完璧な真顔のまま。
「……騒がしいね」
「そこ!?」
「お前の声でコーヒーの表面が揺れた」
「知るかァァァアアア!!」
限界だった。
アズールの理性が完全蒸発した、その時。
スペクターは懐から小箱を取り出した。
「ほら」
「……?」
「人間界のマカロンだ」
静寂。
「ピスタチオ味」
さらに静寂。
アズールの目が、一瞬だけ揺れた。
「……フランボワーズもある」
「…………」
数秒後。
「精神的損害賠償がマカロンで済むと思わないでください」
言いながら。
アズールは超高速で箱を回収した。
「ですが頂きます」
「素直かよ」
ホスフォラスが笑った瞬間。
バンッ!!!
報告書が顔面へ直撃。
「痛ァッ!!」
「うるさいです」
冷酷。
あまりにも冷酷。
その後。
アズールは新人二人を指差した。
「あなたたち!! 明日の仕込み三倍!! 接触は禁止!! 会話も必要最低限!!」
「えぇ~」
「返事!!」
「は、はい……」
1eggsがしゅんと肩を落とす。
だが。
数秒後。
ジョンドゥはまた満面の笑顔へ戻っていた。
「ねぇ1eggs♪」
「……なんだよ」
「“半径2メートル以内禁止”ってことは、逆に言えば2メートル以内にさえ収まれば、ずっと一緒ってことだよね?」
「違ぇよ」
「じゃあ、ぴったり密着してれば問題ないね♪」
ぎゅっ。
「――ッッ!!」
1eggsの顔面が一瞬で真っ赤になる。
「だからくっつくな変態生地野郎ォォォオオオッッ!!!」
再び響く絶叫。
再び回るミキサー。
再び始まる地獄。
そしてその光景を見ながら。
アズールは静かにマカロンを一口かじり、
「……甘い」
とだけ呟き、本日三十二回目の胃痛を覚えるのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#エリオット
あおあお
8
#エリオット
あおあお
48