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中野さんが消えると、こころの電気が消えてしまう。いるだけで……そこにいてくれるだけで、こちらを和ませてくれる、癒しの存在を失ってしまい、こころにぽっかり穴が空いたみたいだ。
でも、職場は、お金を貰って労働という対価を支払う場所だから。泣き言なんか、言えない。それに、わたしは引き続き紅城さんのサポートをしなければならないから。トイレにて、気合いを入れてから自席に戻り、始業時間を迎えた。
九時を十分ほど過ぎた頃、荒石くんが、こちらにやってきた。
「紅城さん。お忙しいところをすみませんが、備品を立て替えで購入したので申請をしたいのですが。手順を教えて頂いてよろしいですか」
――あれ、なんだろう。どうして紅城さんに?
とは思ったが、口には出さなかった。きっと、荒石くんなりに、中野さんが抜けて忙しくなるだろう、わたしの状況を気遣ってくれている……のだろうと。
そんな処理なんか同じ部署の先輩に聞けよ、と言いたいところではあるが……見れば、国内営業部の皆さんは電話の取次ぎやタイプ打ちに忙しそうで、どう見ても余裕ゼロ。荒石くんとて、聞けるのであれば同じ部署の先輩に聞くのだろう。わたしは、彼に、同情した。
「はい分かりました」紅城さんの判断は速かった。「桐島さん。すこし離席しますね」
「分かりました」
紅城さんは手早くタイピングをすると――おそらく、作成中のドキュメントを保存してから、「では、荒石さんのお席で説明をしますね。……言っておきますけど、二度目はありませんからね? 次回からは、自力で、なるべく誰の助けも借りずに、出来るようにすること。それが、経営企画課のメンバーとしてのお願いです」
込められた密かな棘にわたしは笑った。……紅城さん、なかなか言うじゃない。やっぱり、彼女、課長に似ている。美しい花は棘を持つ。彼女の隠し持つ、なにかしらの毒を、わたしはその言動から感じたのだった。
思えば、荒石くんが、紅城さんに話しかけるのは初めてだ。とはいえ、紅城さんは実は超インテリなので、インテリ同士話が合うらしい。笑い合う声が、こちらまで聞こえてきた。雑務をつまらないものとして片づけない彼女の品性に、わたしは好感を持っている。
それから、無事、向こうで荒石くんに説明を終えてきた紅城さんに、「お疲れ様です」とわたしが声をかけると、
「……本当、経営企画課って大変ですよね。……他の部署の尻拭いをさせられたり……」
席は離れてはいるが、向こうにいる荒石くんを気遣った声量だった。
「でも、それが仕事だから。……他の部署に比べるとうちは暇だから。会社って助け合いでもあるから。困ったときは助け合う。そういうものなのかもしれないね」
「でも、うち……助けてばかりじゃないですか? いいんですか? それで」
「おれのコントロールが行き届いてなくてきみたちに窮屈な思いをさせて。すまないな」
「三田課長……」離れた席に座る課長が、この会話に加わるなどとは、紅城さんは想定していなかったらしい。彼女は瞬間的に顔を真っ赤にし、「いえ。派遣社員風情が愚痴を吐いてしまい、申し訳ありません」
素直に頭を下げる紅城さんを見て、彼女の前に立つ課長は目尻に皺を寄せて笑い、
「意見をするのに、正社員も派遣社員も関係ないよ。きみは、おれと一緒に働く、大切なメンバーだ」
……なんだろう。
わたしと同じ趣旨の発言をしているはずが、ちくん、と胸に棘が刺さったような感覚。……わたし。うわ。最低。
紅城さんに嫉妬をしているなんて……!
わたしの戸惑いをよそに、課長は、
「まぁな。リスクヘッジって確かに大切だよな。きみや、桐島くんが、いなくなったら仕事が回らない。そんな状況を作ることは望ましくはない。……特に中野さんや桐島くんが頑張ってくれているから、それで、紅城さん。きみに仕事を受け持って貰うかたちになっている。
おれも、なんでもびしばし頼まれる、この状況をよしとしないが。しかし、他の部署に比べてうちが比較的暇なのは事実だ。……となると、その労働力を他に回すこと自体は、それほど間違ってないとは思っている。
そこで、おれに考えがあるのだが。……しかし、この話をするには、正式な手順を踏まなければならない。いまの時点で言えるのは、紅城くん。きみも、うちの貴重な戦力だ。仕事を頼むときは、きみが派遣社員だということを考慮はするが、しかし、気持ち的にはうちのメンバーの一員のつもりでいて欲しい。おれからの願いだ」
わたしは課長の発言から彼の真意を見抜いた。――もしかして、課長……!
わたしは、その決断が嬉しかった。というのは、過去、うちの雰囲気が合わなくて、辞めてしまった派遣さんが過去何人もいたから。――どうしてわたしがこんな仕事をしなければならないんです! コピー用紙の補充を頼んだところ、そう言い返されて愕然としたことも過去何度か。
「分かりました。……あたし、皆様のお役に立てるように、頑張ります……」
受け答えをする紅城さんの顔は相変わらず赤く、声はふるえている。――ひょっとして紅城さん……。
『それ』が本当なら、わたしは酷いことをしているのかもしれない。友達になろうとか、結婚式に来てくれとか……。
その日、わたしは仕事以外で紅城さんに話しかけなかった。昼休み中、本を読んでいても、ちっとも頭に入ってこない。――わたし、どうしよう。こんなこと、課長にも言えないし。中野さん……は産休中だし。ああ……。
泣きたい気持ちを堪え、どうにか仕事を終え、帰宅する。子どもっぽいと思ったが、わたしはわざと三十分残業をし、紅城さんと一緒に帰るのを避けた。――気持ちの整理をする時間が欲しかったのだ。
その日、課長が帰宅すると、わたしは真っ先に切り込んだ。「……課長。紅城さんを、中野さんの復帰後も雇い続けようとか……考えています?」
「……きみには隠し事が出来ないな」
「あの流れで言われたら普通に分かりますよ。……で。どうなんです?」
「ああ」と課長は認めた。「いままで経営企画課に来た派遣さんは正直、外れのひとが多かったからな。企画部の子はそうでもないのに、なんでだろうな。……紅城さんは掘り出し物の宝物だ。彼女を手放すには……惜しい」
「プロパーとして採用することも考えているとか」
「派遣会社と彼女の回答次第ではあるが……可能性は大いにある」
そうか。そうなんだ……。
紅城さんはとてもいいひとなのに。何故か、課長のその言葉を受けた瞬間、わたしの胸に失望が生まれた。なんなのだろう。この持て余す感情は。
「わたし、……よかったです」無理にわたしは笑顔を作った。「紅城さんって、頭がいいし、機転が利くし、はきはきとして明るいし……紅城さんが正式にうちのメンバーになってくれたら、わたし、嬉しい!」
「そう言って貰えてよかった。前向きに検討する」
いつもならわたしの胸中を、打ち明けずとも見抜いてくれるはずの課長が、そうはしなかった。そのことに少なからずショックを受け、わたしは言えない秘密を課長に対して抱えてしまうのだった。
* * *
翌日も、必要以上に紅城さんとは喋らずに定時を迎え、紅城さんと一緒に、会社の入っているビルを出ると、荒石くんの姿を認め、わたしはこころから安堵した。こんな自分が恥ずかしいと思っているけれど、……いっそ紅城さんが荒石くんと結ばれてくれたらどれほど楽か。こんな醜い思考回路なんか絶対課長に言えない。言えるはずがない。
「お疲れ様です。……紅城さん。先帰ってますね……」
「あはい、お疲れ様です……」
紅城さんがどうか荒石くんに惚れてくれますように。だって待ち伏せなんかをした目的は瞭然。荒石くんは……紅城さんに惚れているのだ。
なんて単純な男だろう。配属されたてのときはわたしに、それから課長に惚れて……同性であるにも関わらず、告白までしたのに。フィアンセであるわたしの前で。それが、たったの一日? ちょっと指導をして貰っただけで惚れるの? いまどきの男の子ってみんなそうなの? わーお。
……なんて考えだす自分が惨めで。醜くて。ああ自己嫌悪の塊。課長と結ばれて以来、自殺する人間の気持ちが分からなくなったんだけど、もし、この醜いわたしの本音が課長に知れたら確実に死ねるわ。
荒石くんみたく惚れっぽい男の子だと心配でもあるけど、でも、紅城さんも大人だからな。精神年齢が高い。だから、わたしは願っていたのだ。
紅城さんの裏の顔を知ることなどなく。
* * *
この時間になっても自席に来ないなんて珍しいな。
なーんて思っていた。裏で起こる事態を知らずにわたしは。
あれから一夜が明け――課長ともろくに話していない。メールで紅城さんに、『あのあとどうなったの?』なんて聞けなくもないのだが、そこまで行くと『やりすぎ』な気もして。悶々とした夜を過ごした。
始業時間一分前に、紅城さんは姿を見せた。――が、荒石くんが隣にいる。通路を抜けるふたりの表情は硬いが、こうして堂々と一緒にやってくる辺り、大丈夫なのか? と心配になる。こんな姿を見せられたら、噂好きのあの子たちが絶対に黙っていないもの。噂の標的にでもされたら――と心配にもなる。
まさか。
かつて、わたしと課長のあいだに起きたことが――?
「おはようございます」
周囲の人間に挨拶をして、自席に座る紅城さんの横顔を盗み見た。明らかに――泣いた痕跡が見られる。わたしは動揺した。何故。いったいなにがどうなって……!?
友達なら、心配して声をかけるのが当たり前だろうに、でもわたしは、社会人としての顔を保つことを優先した。……それに、この場で下手に声をかけて、注目を集めさせたら、紅城さんが可哀想だ。
昼休みまでが長かった。もし……例えば、荒石くんに、なにか酷いことをされていたのだとしたら大変だ。黙ってはいられない。
とはいえ、紅城さんだって判断力を持つ、立派な大人の女性だ。もし、合意のないままセックスでも行われていたとしたら、派遣会社を挟んだ、大問題に発展するところだ。
課長が、気づかないはずがない。どう思っているのだろう。
課長を見ても、相変わらずのポーカーフェイスで。すっかり、会社だけで見せるクールな顔が板についている。
昼休みまでが長かった。昼休みに入ったらわたしは、紅城さんを、会議室辺りに呼んで、ふたりきりで話そうと思っていた。――が。
「あいえ、あたし、ここで食べますので。話ならここで聞きます」
……って、そんなこと言ってる場合じゃないのにー! ああもう、荒石くんとなにがあったの? 口説かれたの? 大丈夫? なんで泣いたの?
聞きたいことが山ほどあるのに、ここじゃ聞けない。みんなの目があるから。だからこその会議室提案なのに!
「その、ここじゃ、ちょっと……。会議室でも行きましょうよ」
「ああいえ。あたし、読みかけの本があるのでごめんなさい」
「そっか」とわたしは引き下がった。「でも、……悩み事があるんだったら相談してね? わたしは紅城さんの味方だよ?」
「ありがとうございます」こころなしか、紅城さんの笑みは硬かった。その表情を見てわたしはようやく理解した。――そうか。好きなひとの婚約者になんか、好きなひとの相談なんて出来ないよね? なんて馬鹿なんだ。わたしは。
本心を押し隠した紅城さんは、あくまでも気丈に、
「困ったときは遠慮なく頼らせてください。桐島さん。いまのところは大丈夫です」
「そっか。分かった」
そうして互いに正面を向き、ランチにありつくのだが、わたしたちのあいだには、いままでにない、なにかしらの緊張が漂っていた。
*