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それから数日後
屋敷での穏やかな日々が続き、私は勇気を出してベル様を街へのお出かけに誘ってみた。
「……私と、外へ?」
案の定、ベル様は信じられないものを見たかのように目を丸くし、驚いたような顔をしていた。
けれど、約束の当日の彼は
いつもの厳格な軍服ではなく、体に馴染んだ仕立てのいい私服に身を包んでいた。
少し緊張した面持ちで私の隣を歩く姿は、冷酷な領主というよりは、一人の端正な紳士そのものであった。
街の喧騒は心地よく、石畳を叩く二人の靴音がリズムを刻む。
私は今日、ベル様のためにある計画を立てていた。
それは、先日メイド長からこっそり教えてもらった「旦那様が実は以前から気にかけていらっしゃった」という、街で一番人気の砂糖菓子店(コンフィチュール)のマカロンを買うこと。
「ベル様、あちらのお店に寄ってもよろしいですか? とっても甘くて美味しいお菓子があると評判なんです」
私がわざとらしく提案すると、ベル様は少し視線を彷徨わせてから答えた。
「あそこか。……偶然だな。丁度私も気になっていたんだ」
平静を装っているけれど、その声はどこか浮き立っているようにも聞こえた。
そんな微笑ましいやり取りをしながら、お店に近づこうと歩を進めた、その時だった。
「──おいおい。こりゃ誰かと思えば『鉄の仮面』の伯爵様じゃん。隣にいるのは、新しく買い取られた哀れな生贄か?」
耳を刺すような下卑た笑い声が響き、私たちの行く手を阻むように一人の男が立ちはだかった。
不潔な笑みを浮かべ、私たちを値踏みするように眺めるその態度に、私の背筋に冷たいものが走る。
「……ベル様、お知り合いで……?」
不安に駆られ、小声で彼の袖を引いて耳打ちすると
ベル様は微動だにせず、ただ静かに、そして深く眉をひそめた。
「今は平民の、私の義兄だ。気にしなくていい」
ベル様が低く抑えた声でそう答え、私は目の前の男を見据えた。
彼の家族だというのなら、あまり無礼な態度は取れない。
けれど、ベル様を侮辱する言葉だけは聞き捨てならなかった。
「すみませんが、私たち、今からアフタヌーンティーをする予定でして……そこ、どいていただけませんか?」
努めて冷静に、けれどきっぱりと言い切ろうとしたところで
男はそれを遮るように、いっそう嘲弄の色を強めて言い募る。
「くくっ、それは笑えるなぁ。おいベル、まさかその無愛想な面でマカロンを齧るつもりじゃないだろうな? 男のくせに気持ち悪い」
「あんたも可哀想に。こんな鉄仮面を被ったような男が夫じゃ、愛の囁きひとつ貰えないだろ」
男の言葉は次第にエスカレートする。
「ベル、お前も少しは俺を見習って女の扱いを覚えたらどうだぁ? ま、感情の欠落したお前には一生無理な話か! がはは!」
浴びせられる罵詈雑言に対し、ベル様は何も言い返さず、ただ拳を握りしめて黙り込んだ。
そして、私の手を引いてその場を離れようとする。
嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに義兄を避けようとしたのだ。
しかし──私は、その場で足を止めた。
引かれた彼の手を、逆に強く握り返す。
驚いたベル様が振り返る。
私は、その視線を受け止めながら、真っ直ぐに義兄に向き直った。
「……失礼ですが」
凛とした声を響かせると、男の笑いが止まった。
「あなたが仰る”感情の欠落した方”とは、一体どこを見て言っているのですか?」
「どこもなにも、この街の誰に聞いたって同じ答えが返ってくるさ!」
義兄の目が細くなる。嘲笑を隠そうともしないその態度に、私はさらに言葉を重ねた。
「女みたいに甘いもんなんか食って」
「それを仰るなら、心穏やかにお菓子を楽しまれる余裕、それもまた大人の男性の嗜みだと私は思いますわ」
「はっ、嗜みだと? 笑わせるな、そんなのただのみっともない女々しさだ」
「そう思うなら、なにも言うことはありませんが……」
私は小さく息を吸い込んで、一呼吸置いてから続けた。
ベル様の指先が、私の手の中で僅かに震えているのが分かった。
「……女性の扱いが上手いことを自慢されるのは結構ですが、まずは家族を傷つけて悦に浸るその品性のなさをお改めになってはいかがかしら。とても不愉快ですわ」
私の言葉に、義兄だけでなく、隣に立つベル様までが雷に打たれたように目を見開く。
「行きましょう、ベル様」
私はきっぱりと言い切り、彼の手をしっかりと握ったまま、一度も振り返ることなく店に向かって歩き出した。
背後から義兄の激しい舌打ちと罵声が聞こえた気がしたが、今の私にはどうでもいいことだった。
店内に入ると、甘く、優しい香りがふわりと鼻をくすぐった。
色とりどりの宝石のようなマカロンが並ぶショーケースの前で立ち止まり、ようやく私は張り詰めていた息を吐き出した。
「……リリア」
隣でベル様の、いつになく震える低い声が聞こえた。
振り向くと、彼は珍しく驚きと戸惑いが混ざり合ったような複雑な表情で、けれどどこか柔らかに表情を緩めている。
「なぜ、あんなことを言った? 私の代わりに、あんな男に食ってかかるなど、……」
「だって……」
私は自分の無鉄砲さを恥じ、言葉を探しながら続ける。
「ベル様は、私が見ている限りとても優しくて繊細な方なのに。あの人の言葉があまりに的外れで……私、我慢できなくて……」
自分の頬が熱くなっていくのを感じ、私はいたたまれなくなって俯いた。
すると、ベル様はそっと、慈しむように私の肩に大きな手を置いた。
「……それは、買い被りすぎだ」
彼の声には、これまで聞いたことのないような深い温かみがあった。
「だが次からは……私のためにそんなに怒るのはやめてほしい」
「出しゃばりすぎてしまいましたか……? 感情的になって、すみません……っ」
「……そうじゃなく、キミに何かあったら困るからだ。キミを傷つけたくない」
ベル様の目に映る、濁りのない心配そうな色に気づき、私は返す言葉を飲み込んだ。
「……わかりました」
「それに」
ベル様は宝石のようなマカロンが並ぶショーケースを見つめながら、自嘲気味に、けれど小さく笑った。
「マカロンの件については……彼奴の言う通りかもしれない。無骨な軍人に、こんな可愛らしい菓子は似合わないとな」
「え?」
「確かに男らしくないという意見もあるだろう。……だが、それでも、キミの言葉には救われた。礼を言う」
彼の率直な告白に、私の胸は温かなもので満たされた。
私は思わず満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ、それはなによりです。それはそうとベル様、お菓子を楽しむとしましょ」
そう言ってショーケースに目を戻すと、彼は私の横顔をじっと見つめてきた。
その眼差しは、熱を帯びているようにも見える。
「……リリア」
「はい?」
「本当にキミは変わっているな」
「ええと……さすがに何度も言われると気になるのですが…それって悪口です? それとも、褒めてくださっているのでしょうか?」
「どちらでもない。ただ……興味深いだけだ」
その言葉の真意に少し首を傾げながらも、私は彼のために、最高の組み合わせのマカロンを選ぶことに集中した。
◆◇◆◇
店員に案内された窓際の席に座り、私たちは色とりどりのマカロンを前にした。
ベル様が選んだのは、深い森のような深緑色のピスタチオ。
私が選んだのは、恋の色をした鮮やかなピンク色のフランボワーズ。
白磁のカップには、湯気を立てる温かい紅茶が注がれている。
「ベル様、いただきましょう」
彼が促されるように頷くのを見て、私は慎重にフォークでピスタチオマカロンを半分に割った。
サクリッという軽快な音とともに、滑らかな緑色のクリームが現れる。
一口食べると、思わず目を見開いた。
「!」
濃厚なナッツの香りと、上品で奥行きのある甘さが口いっぱいに広がっていく。
「んんっ、これすごく美味しいです、ベル様!」
思わず声が弾むと、彼も自分のマカロンを小さく噛み、味わうようにして「……ん」と短く同意してくれた。
「これほど香り豊かなものは久々だ。人気なのも頷ける」
「こんなに美味しいなんて知らなかったです……。やっぱり、メイド長さんに聞いて正解でしたわ」
「メイド長……?」
「あっ。実は、このお店のことをメイド長の方から『旦那様がずっと気になっているとおっしゃっていた』と聞きまして、それで今日は……」
そう言った瞬間、ベル様の眉がぴくりと動き、少しだけ困惑したような、図星を突かれたような表情になる。
けれどもすぐに咳払いをし、冷静を保とうとした。
「……そういう事だったのか。まあ、良い」
私はフランボワーズマカロンの甘酸っぱさを楽しもうともう一口食べようとしたとき
強い視線を感じて顔を上げた。
ベル様が、吸い込まれるような瞳でこちらをじっと見ていたのだ。
「……どうされました?」
「……いや」
彼は一度気恥ずかしそうに視線を逸らし、独り言のように呟いた。
「キミは、本当に美味しそうに食べるなと思って」
「え? ……そうですか?」
「ああ。まるで初めて雪を見た子供のように、目を輝かせて」
「そ、そんな風に見えましたか……? お恥ずかしいです」
顔が火照るのを感じ、私は紅茶で熱を誤魔化そうとした。
彼が自分のマカロンをゆっくりと、慈しむように食べ終えたのを見届けてから、私は彼に提案した。
「あの、ベル様」
「なんだ」
「先程からこちらを見てらっしゃるようですが……よろしければ、こちらのマカロンも召し上がりますか?」
「……すまない、つい。……欲張ってしまった」
「いいですよ、せっかくですしシェアしましょうか。半分、差し上げますわ」
◆◇◆◇
「──結局、二人で全部食べ切ってしまったな」
店を出て、夕闇に染まり始めた石畳の道を二人で歩きながら、ベル様がポツリと漏らした。
確かに私の皿にあったフランボワーズも、ベル様のピスタチオも、最後には一つ残らず綺麗に消えていた。
彼が照れたように、どこか満足げに呟いた言葉に、私は思わず笑みがこぼれる。
「美味しかったですからね」
「ああ。……本当に」
彼の険しかった表情が、今は春の陽だまりのように和らいでいる。
それを見ているだけで、私の胸はジーンと熱くなった。
店を後にすると、私たちはゆっくりと屋敷への帰路を辿る。
少し遅めの帰り道だったためか
街灯が一つ一つオレンジ色の明かりを灯していく景色は、映画の一場面のように美しかった。
街は閑散とし始め、夜の静寂が降りてくる。
歩く人も少なく、この世界には私たち二人しかいないような、落ち着いた雰囲気が漂う。
「……」
お互い、言葉を交わさずとも心地よい沈黙を楽しみながら歩いていたが、なにか話したいと思って声をかけた。
「ベル様」
「なんだ」
「今日、ありがとうございました。お出かけできて、本当に楽しかったです」
「……逆だ」
「逆…?」
ベル様は足を止めず、前を見つめたまま淡々と、けれど噛みしめるように告げた。
「正直、キミが私と出かけたいなんて言うとは思わなかった」
ベル様はどこか遠くを見るような瞳になる。
「私を知りたいと言ったり、今日のことといい……キミは他の娘たちと違って、何を考えているのかまるで分からない。何を求めて私に接しているのか」
「わからないって……私はただ、ベル様に笑顔になって欲しかっただけですよ」
「……笑顔?」
意外そうに聞き返してくるベル様に、私は真っ直ぐな想いを続けた。
「ええ。ベル様も好きな物を食べているときは、きっと心から笑顔になれるんじゃないかと思いまして。私は、そのお顔が見たかったんです」
彼は立ち止まり、少し考えてから、不器用な笑みを浮かべて答えた。
「……そうか。私は、キミに笑わされてばかりだな」
「……!」
彼の、繕っていない自然な微笑みを間近で見て、私の心臓は今までで一番大きく高鳴った。
やっぱり、冷酷だなんて嘘だ。
この人は、誰よりも澄んだ心を持つ、美しい人だ。
思わず頬がカアッと熱くなるのを感じ、同時に今の自分の顔がどれほど赤いか不安になり、慌てて目を伏せた。
屋敷の影が近づいてくると、空気は一層冷たく引き締まり、辺りは濃い藍色に包まれていた。
けれど、繋いだままの彼の手からは、絶えることのない確かな熱が伝わっていた。