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夜の公爵邸は、巨大な石の棺のように静まり返っていた。
約束の刻。私は、自分の心臓の音だけを道連れに、主寝室へと続く果てしない回廊を歩いていた。
手にした銀の燭台が放つ頼りない炎は
壁に掛けられた古めかしいタペストリーの騎士たちの目を不気味に光らせ
私の影を壁から天井へと、歪な怪物のように引き伸ばしては揺らしている。
(……足が、震えているわ)
「失礼いたします、閣下……」
震える声を振り絞り、私は重厚な黒檀の扉を押し開けた。
部屋の中は、あの日目撃した灼熱の地獄とは打って変わって
氷の結晶が張り付いたような静寂に支配されている。
広大な部屋の奥、天蓋付きのベッドの端で
ルネサンス公爵は寝衣の上から漆黒のガウンを羽織り、膝の上に広げた書類を無機質な眼差しで追っていた。
「……来たか。そこに、横になれ」
顔も上げず、彼は事も無げに告げる。
その声はどこまでも低く、温度を持たない。
私をこの聖域へと招き入れた理由が、寄り添うべき「妻」などではなく
己の命を繋ぎ止めるための単なる「延命装置」であることを、残酷なほど正確に突き付けていた。
私は言い知れぬ屈辱と緊張を飲み込み、震える手で靴を脱ぎ捨て、冷ややかな絹のシーツへと身を沈めた。
「閣下も……その、お休みにならないのですか」
「呪いの周期が近い。私が深い眠りに落ちれば、抑制を失ったあの熱がまた暴れ出すだろう。その時にこそ、君の魔力が必要になる」
彼はそう言ってようやく書類を閉じ、私を視界に入れた。
月明かりを透かしたような彼の横顔は
名工が削り出した彫刻のように非の打ち所がない美しさだが
同時に、指先一つで砕け散ってしまうガラス細工のような危うさを秘めていた。
彼が隣に横たわった瞬間、上質なリネンの香りと
彼自身の体温に温められた微かな白檀の香りが鼻腔をくすぐり、私の思考を麻痺させる。
(……心臓の音が、聞こえそうなくらい近い。でも、この距離は誰よりも遠い…)
私たちは背中を向け合い、一言の会話も交わさぬまま、ただ刻が過ぎるのを待った。
やがて、彼の強張っていた肩の力が抜け、規則的で深い呼吸が静寂に混じり始める。
冷徹な公爵が、眠りという無防備な領域へと落ちた証拠だった。
だが、安堵したのも束の間。
部屋の温度が、一気に数度跳ね上がった。
「……っ……ああ、……あ……っ」
隣で、ルネサンスが苦しげに身悶えを始める。
あの日、私が見た「呪いの熱」だ。
彼の端正な肌から立ち上る、陽炎のような魔力の揺らぎが、空間そのものを歪めていく。
私は迷わず、彼へと向き直り、その背中に手を伸ばした。
「閣下……!ルネサンス様……!」
熱い。
布地越しであっても、私の掌を焼き切らんとするほどの高熱。
私は彼の肩を強く掴み、己の胸元へと引き寄せた。
彼を癒やすには、魔力を流し込むためのより深い接触と、逃げ場のない同調が必要なのだと、私の本能が警鐘を鳴らし続けていた。
そのときだった
苦悶の呻きを漏らしていたはずの彼が
突然、抗うことのできない力で私の腰に腕を回したのは。
「……っ!?」
抗う術など、最初からなかった。
彼は眠ったまま、獲物に縋り付く獣のような必死さで私の首筋に顔を埋めた。
まるで唯一の救いを見つけたかのように、深く、深く、私の匂いと体温を吸い込んでいく。
薄い寝衣を隔てて、彼の激しい吐息が直接肌に吹き付けられ
二人の心臓の鼓動が、部屋の隅々まで響き渡るほどに共鳴し始めた。
ドクン、ドクン。
どちらのものか分からない脈動が、ひとつの生き物のように激しく、狂おしく打ち鳴らされる。
彼の指先が、私の背中のラインをなぞるように彷徨い、確かめるように強く押し当てられる。
冷徹な守護者という仮面を剥ぎ捨て、眠りの闇の中でだけ見せる、剥き出しの執着と渇望。
それは、利害関係だけで結ばれたはずの「治療」にしては
あまりにも熱く、あまりにも切実に、私の魂を揺さぶった。
(……これは、治療。私は、契約を全うするための仕事をしているだけなんだから……)
呪文のように何度も頭の中で唱えるけれど
彼に抱き寄せられている指先だけは、嘘をつけそうにない。
私を閉じ込める彼の腕の力は、呪いが静まり
東の空が白み始めるまで、一度たりとも緩むことはなかった。
暗闇に溶けゆく意識の中で、私は初めて、逃れようのない予感に震える。
「愛している」という不遜な嘘を、いつか逃げ場のない真実へと変えてしまうのは、私ではなく──
この孤独な、氷の公爵の方なのかもしれない、と。