『何をしているの?』
そう彼女が告げた瞬間、周りの時が止まったかのようにみんなの動きが止まった。
甘露寺さんや僕や、それまで怒鳴っていた男性だけではない。その場に漂っていた空気や息もが氷のように固まって止まった。呼吸が一瞬途切れる。
目の前に突然現れたのは藤の花が散りばめられた淡い紫色の上品な着物を身に纏って、黒く長い髪を結ばず肩に垂らしている、清潔で手入れが行き届いた身なりのまだ10つ過ぎほどの幼い少女だった。
だけど彼女の周りに漂っている空気は決して“幼い”なんて言葉で飾られないほどの強く重い威圧感が張り詰められており、彼女が告げる言葉たちは言外の意味を重く含んでいるように凛と響く。
『……どなた?』
青色のビー玉のように濁りのない透き通った少女の瞳が男性に、男性から甘露寺さんに、そして甘露寺さんから僕に移った。
その瞬間、滅多に感じないような強い緊迫感と圧迫感が自身の身を掠める。
「○○様!」
突然、それまで怒鳴り声を弾ませていた男性は急に怯えるような色を顔全体に浮かべると、その少女の足元に縋るように跪いた。フルフルと小刻みに体を震わせている男性の瞳の中には驚愕と不安が見え、その姿は先ほどまで甘露寺さんを怒鳴っていた人と同一人物だなんて到底思えなかった。
「また鬼殺隊を名乗る者たちが…」
早口に声を震わせ、僕たちの方へ指を指す男性のことを少女は数秒間だけジッと見つめると、一度深いため息を吐いて桜の花びらのように薄くて頼りない唇をゆっくりと開いた。
『…そう。貴方はもう下がっていいわ。その人たちはわたくしが話をつけます。』
小柄なその見た目と見合わないほど大人びた口調で少女はそう言葉を落とした。
「は、ははははい!」
男性は体を真っ二つにするように身を低くして礼をすると、悲鳴のように鼓膜にヒビを入れる甲高い声でそう返事し、逃げるようにどこかへ走り去っていく。
段々と遠ざかっていく慌しい足音とは逆に、カコカコと下駄の固い音を鳴らして例の少女が近づいてくる。その表情は無に等しいほど感情が伏せていて、上手く読み取れない。
その様子に何か怒鳴られるのかと身構え、眉間の皺を深める。
僕たちだってここで無駄に時間を潰していいほど暇じゃない。
早く鬼の情報をまとめて戦闘時間である夜に備えなければいけない。鍛錬だってまだ残っているし、この任務以外にも夜間警備がある。早く終わらせてもっともっと沢山の鬼を斬らないといけない。本当は今すぐにでも甘露寺さんと集めた情報を共有しないといけないのに。どうしてこの村の住民は邪魔をしてくるんだろう。
そんな苛立ちを含んだ視線で、こちらへ近づいてくる少女の青い瞳を睨みつける。
「あ、ぁああの……ごめんなさい、勝手に村へ入ってしまって…」
そんな僕と反対に、カチコチに緊張した声で甘露寺さんが言葉を零す。
どうして甘露寺さんが謝るのだろう。誰がどう見たってあっちが悪いのに。
胸の奥にポツポツと浮き立つ怒りを無理やり潰しながら少女の次の言葉を待つ。
『…帰りなさい。』
だけどそんな甘露寺さんの謝罪にも顔色一つ変えず淡々とした口調でそう言葉を綴る少女は、皮膚から浮き立った、細い骨の目立つ華奢な指で最初通った村の入り口を指差した。
『まだ貴方たちのことはお父様に……いえ、この村の長には見つかっていないはず。』
『無事に帰りたいのなら今のうちよ。』
想像していた叱りの言葉はいつまで経っても来ず、どちらかというと僕たちを守るような言葉が耳の中に入り込んできた。
『貴方たち鬼殺隊は人々の命を救っているのでしょう?』
僕たちの顔に滲み出た困惑の色を読み取ったのか、少女は頬に淡い笑みを浮かべながらそう声を紡いでいく。その声色や言葉の1つ1つは腫れ物に触れるように酷く優しく、先ほどの男性があれほど怯えていた理由が一切分からない。
『そんな人たちを叱る趣味はないわ。』
『…せっかく来てくれたのに、追い出すような形でごめんなさいね。』
繊細な硝子細工のような、酷く脆く、儚い微笑みだった。
甘露寺さんはその少女の姿にいつものような…いやその倍以上頬を赤く染め、今にも彼女に抱き着いてきそうなほどキラキラとした眼差しでとろんと目尻を下げている。
でもきっとそうなるのも仕方がない。
足を踏み出す小さな衝動に合わせてサラサラと揺れる絹糸のように細い黒の髪が。瞬きを繰り返すことにつれて輝きを増やしていく青い瞳が。彼女の些細な動作を含めたすべてのものが、誰にも真似出来ないような美しさを物語っている。
だからと言ってここで見惚れて引き下がるわけにはいかない。
「…お館様から命を下された以上、僕たちはこの村の捜査を続けます。」
起訴状を読んでいるような事務的な声が口から流れ落ちる。
「それが俺たち鬼殺隊の役目なので」
こうじゃない喋り方なんて忘れたし、もし仮に覚えていたって意味はない。そんなことよりも今目の前でこちらをきょとんとした顔で見つめてくる少女の説得が先だろう。
もし仮に説得できなくても殴ったりして黙らせるだけだけれども。
「…それともなに?なにか俺たちがこの村に居てはいけない理由でもあるの?」
試すような鋭い視線を彼女へ送る。
その瞬間、それまで威圧的な雰囲気を纏っていた少女の気配がほん一瞬だけ動揺するかのように不自然に揺れた。大人ぶったように細められていた瞳が年相応に大きく見開き、「えっ」と息を呑んだような声を立てる。
『……えっと』
そしてまるで何か言い訳を探すように視線を泳がせると、細く赤い唇をキュッとさらに細めるように結んで、小さく俯いた。明らかに動揺した色の見えるその姿に、自身の心を締めつけられているような異常な感情の高ぶりを感じる。怒りでも動揺でもない、未知の感覚。
そんな感覚に困惑しながら右手を自身の心臓辺りに当てる。手に伝わる心音の振動は微かに乱れていた。激しく走ったわけでも、鍛錬を繰り返しているわけでもないのに、どうして。
フワフワと思考を巡らせていると、不意に会話が途切れていたことに気づいた。
黙るということはやはり何か隠していることがあるのだろう。鬼の気配も本当に僅かにだが、変わらず村の奥の方から漂ってくる。
もしかして人間が鬼を匿っているのだろうか。
ぼんやりと霞かかった頭の中にそんな一つの仮説が流れ込んで来る。
だが仮にそうだとしても一体何故だろう。
身内や仲間が鬼になってしまった同情からなのか、はたまた脅されたからなのか。どちらにせよ鬼殺隊として見逃すことは出来ない。
「…さっさとそこどいてくれない?」
俯いたままで何の言葉も発しない少女に痺れを切らし、襟元を掴んで沈んでいる視線を無理やり合わせる。またもや少女の瞳が驚いたように見開かれる。
「君が帰れだとかくだらないことをほざいている間に何人の人間が死ぬと思っているの?」
「無一郎くん!?」
僕の腕を掴んで離すよう諭してくる甘露寺さんを無視して少女へと冷たい視線を注ぐ。
そこまですればようやく少女も面倒に感じたのか、それまで石のような沈黙を押し通していた空気にため息似た小さな息を吐き、切っていた視線を僕たちに戻す。
『…いえ、ないわ。』
『衣食住の確保はこちらでするから貴方たちの気が済むまでこの村に居ればいい。
『聞きたい事があるならなんでも答える。』
その言葉とともにするりと少女の腕が上がり、僕の手に重なる。
『それで満足?』
自分よりも上背のある男に襟元を掴まれているというのにも関わらず、少女は怯える素振りも一切見せないで興味の伏せた全く味気のない声を落とす。
説得が出来たのならもうどうでもいい。
僕は掴んでいた少女の襟をゆっくりと離し、少女の言葉に素直に頷く。
『ではこれで契約成立』
『これからよろしくお願いしますね、鬼狩りサマ。』
少女は細い指先の繊細な動きで襟元に出来た皺を直しながら、しおれかけた花のような感情の読めない笑顔でそう言葉を落とした。
コメント
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なんか不思議な子だね