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頭上を覆う極光が、森の梢を毒々しく染め上げている。村の跡地から一歩、深い森へと足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつく空気の質が劇的に変わった。昼間の熱気をまだ微かに孕みながらも、異様な空模様のせいで木々の影は不気味なほど長く伸びている。足元には、夏の名残と秋の気配が混在する、乾ききらない湿った落葉が分厚く堆積していた。硬い鉄のブーツで踏みしめるたび、ぐしゃり、と嫌な水気を含んだ微かな音が鳴る。
――追跡には、最悪の地形だ。
アルベルトは内心で舌打ちをしながらも、決して前へ進む足を止めなかった。
「……隊列を広げすぎるな。互いの死角をカバーしろ」
背後に続く白耀剣の騎士たちへ、緊張を孕んだ低い声で告げる。彼らの手には抜かれたままの白刃が握られている。だが、アルベルト自身の剣先は、意図的に地面へと向けられ、だらりと下げられたままだった。
追う。だが、決して討つな。
王都から下された非情な命令は、あくまで特級異端の”制圧”である。そして、制圧という言葉の裏には、対象の”生存”が絶対条件として含まれているはずだ。
アルベルトは、自分に言い聞かせるように、その冷たい官僚用語に何度も縋りついていた。そうでもしなければ、あの痛ましいほどに純粋な少女に剣を向ける自分を、保てそうになかった。
森の中は、不気味なほどに静まり返っていた。
あまりにも静かすぎる。
先ほどまで村の入り口で繰り広げられていた、天地を揺るがすような激闘と魔力の嵐が、まるで質の悪い幻であったかのように。鳥の怯える声はどこか遠くへ去り、遥か上空で吹く風は、名も知らぬ大樹の遥か高い梢だけをさわさわと無機質に揺らしている。
――気配が、全くない。
満身創痍で逃げているはずの銀髪の少女の焦る足音も、乱れた呼吸すらも、この広大な森の静寂に完全に呑み込まれていた。
「……ソラス」
アルベルトは、木霊を恐れるように低く名を呼んだ。当然、返事はない。
すると次の瞬間。森の静寂が、明確な”拒絶”へと牙を剥いた。鋭い風切り音。矢ではない。魔力によって生成された鋭利な氷柱が、アルベルトの横顔を掠め、後方の樹木に深々と突き刺さった。
「伏せろ!」
アルベルトが叫ぶより早く、彼らの足元の地面が波打つように盛り上がった。地中に潜んでいた太い木の根が、まるで意思を持つ大蛇のように泥土から飛び出し、進行する騎士たちの足を正確に絡め取る。
「くっ……! 足元だ!」
重厚な鎧が軋む音。それは致命傷を与えるための攻撃ではない。しかし、追撃者の足を止め、機動力を削ぐ拘束としては、これ以上ないほど秀れた一手だった。アルベルトは即座に状況を理解し、奥歯を噛み締める。
――殺す気は、ない。
同時に、これ以上は絶対に近づかせる気も、ないのだ。
「……やはり、か」
彼は小さく吐息を漏らすと、白耀の剣を、カチャリと音を立てて鞘に納めた。その代わり、左腕の特殊な円盾を胸の前へしっかりと構え直す。彼女は、殺意を持って剣を構えた敵に対して、正面から血を流すような真似はしない。そういう少女なのだ。ならば、追う側であるこちらが、姿勢を変えるしかない。
「周囲の地形変化を警戒しろ。無闇に散発的な魔力反応を追うな、罠だ」
部下に的確な指示を飛ばしながら、アルベルトは盾を構えたまま一歩、前へ出た。踏みしめる湿った落葉が、先ほどよりも意図的に大きな音を立てる。ステルスを捨てた、明確な存在証明。わざとだ。
「ソラス!」
今度は森の奥に潜む彼女へ届くよう、はっきりと声を張り上げた。
「君を、守るために来た」
――決して嘘ではない。だが、残酷な王命を背負う彼にとって、それが真実の全てでもないことを、彼自身が一番よく分かっていた。
「頼む、王都へ一緒に行ってくれ。これ以上、君を傷つけたくない」
応えるように、極光に染まった空から冷たい風が吹き下ろした。急激に冷え始めた大気が、鎧の隙間から首筋を撫でる。
その瞬間、前方の視界が水面のようにぐにゃりと歪んだ。立ち並ぶ木々の配置は、万華鏡のように僅かにずれる。空間そのものに干渉する、高度な幻惑と地形操作。
アルベルトは反射的に盾を斜めに構え、身構えた。次いで、彼が次の一歩を踏み出そうとした足元の地面が唐突に崩落した。
否。崩れたのではない。凄まじい斥力によって、土と石がすり鉢状に抉り取られ、弾き飛ばされたのだ。狙いは、足場。追跡者の足を奪い、剣を振るうための踏み込みを根こそぎ無効化するための、徹底した非致死性の妨害。
「……っ」
アルベルトは間一髪で後退し、抉られた大穴の縁で息を整える。分厚い胸当ての下で、心臓が警鐘のように強く打っていた。それは、未知の魔法に対する恐怖ではない。戦慄にも似た理解だった。この少女は、満身創痍でありながら、逃げ延びるための最適解だけを、恐ろしいほどの精度で選択し続けている。そして何より――追う自分の殺意のなさを、ちゃんと見透かしている。
「……君は」
思わず、彼の口から乾いた声が漏れ出た。
「本当に、呪わしいほど優しいな」
当然、森からの返事はない。だが次の瞬間、アルベルトから見て右手奥の森が、わずかに不自然な音を立てて鳴った。枝が擦れ合い、季節外れの枯れ葉がパラパラと落ちる。
――誘導だ。
アルベルトの軍人としての勘が、即座にそれを看破する。あちらへ気を逸らし、逆方向へ逃げる算段か。
「……分隊を分ける」
彼は振り向き、短く、しかし一切の反論を許さぬ明確なトーンで命じた。その声は、森の反響に溶け込むように低い。
「第三、第五分隊。木の根で負傷した者の回収と、後方警戒に回れ。これ以上進むな」
即座に、訓練された騎士たちから”了解”と抑えた声が返る。
「第二分隊。右手側の尾根を取れ。魔力反応があっても深追いするな。距離を保って、囲え」
アルベルトは、鞘に収まった剣の柄を革手袋で軽く叩いた。
「第一分隊。――俺と来い」
それだけの指示で、白耀剣の騎士たちには指揮官の意図が完全に伝わった。
対象を斬り伏せるための包囲網ではない。対象の逃走経路を限定し、疲弊を待って”止める”ための、緻密な位置取り。後方でラヴィニアが、あえて自分に多くの部下を託して合流させた理由は、ただ一つ。
――アルベルトなら、血に飢えた無秩序な追撃を、決して許しはしない。
森が、また不気味に鳴った。今度は左手前方。アルベルトたちが進む予定のルートにある太い木の幹に、ピキピキと音を立てて浅い氷の亀裂が走る。それは直接的な刃ではない。”これ以上来るな”という、痛切な警告だった。
「……牽制だけだ。止まるな」
アルベルトは、兜の中で小さく息を吐き出す。
「各隊、局地的な魔力反応にいちいち対応するな。音と地形の歪みだけを見て、間合いを測れ」
命令は明確で、どこまでも冷静だ。しかし、彼の胸の内は焦燥で焼け焦げそうだった。この極光の下の森は、すでに完全に彼女の領域と化している。まともに追えば、罠と地形操作によってこちらの体力と精神力だけが一方的に削られていく。ならば、削られないギリギリの安全距離を保ったまま、彼女の逃げ道だけをじわじわと塞いでいくしかない。それが、王国の剣である彼に今できる、彼女への唯一の”保護”の形だった。
「ソラス」
再び、名を呼ぶ。声は荒げない。静かな夜の湖畔で語りかけるように。
「聞こえているだろう」
生温かい風が、極光に照らされた梢をざわめかせる。急激に下がり始めた気温が、騎士たちの鎧の隙間に容赦なく忍び込んできた。
「――君は、獣のように追われているんじゃない」
アルベルトは、歩み寄る速度をわずかに緩め、両手を広げて見せた。
「ただ、我々に囲まれているだけだ。誰も君を傷つけない」
返事はない。だが、その言葉が落ちた次の瞬間。
アルベルトの数歩前方の地面に、チリチリと音を立てて薄い霜が走り、円を描くように明確な境界線を引いた。それは、白耀剣の進行を物理的に阻むほどの完全な拘束魔法ではない。足止めとしての効力すら、ほとんどないに等しい。
――”私がいる位置はここです”。
その霜の円陣は、アルベルトに対してはっきり自身の現在地と、超えてはならないパーソナルスペースを示していた。彼は円の境界線の前で立ち止まり、腰の剣にそっと手を掛ける。だが、決して抜かない。
「……見失うな。適正距離を維持しろ」
背後の第一分隊に、それだけを静かに告げる。少女は、極限まで追い詰められながらも、まだ本気で彼らを殺す気はない。ならばこちらも、彼女が引いたその”境界”を尊重し、同じ距離感を保ったまま、じりじりと包囲を狭めていくしかない。
水分を含んだ落葉を、重いブーツで踏みしめる音が、静かな森に規則正しく重なっていく。森のさらに奥深く、極光の届かない昏い影の中で、彼女の膨大な魔力が、ゆっくりと、そして確実に、何か別の恐ろしい形へと変異し始めている気配がした。
――ここから先は、単純な追撃戦ではない。互いの精神力と魔力をすり減らす、息の詰まるような”削り合い”だ。
しばらくして、最初にその異常を口にしたのは、隊列の中ほどを歩いていた若い騎士だった。
「……音が……しません」
兜の奥から絞り出された声は、ひどく乾き、微かに震えている。それまで誰もが、耳に届く湿った落葉を踏みしめる音を”自分と仲間たちが立てている音”だと錯覚していた。だが、彼は気づいてしまったのだ。目視できる数歩先に重装の仲間たちが歩いているにもかかわらず、自分の足音以外の環境音が、不自然なほどにすっぽりと抜け落ちていることに。
鼓膜に張り付くような絶対的な無音。恐怖に駆られ、彼が無意識に剣の柄を強く握りしめた、その刹那だった。
頭上を覆う大樹の枝が、蛇のように蠢いた。否、枝そのものではない。枝葉から垂れ下がった異常な冷気が瞬時に結露し、半透明の氷の蔦となって彼の首元へ絡みついたのだ。
「っ――!」
悲鳴は、形になる前に喉の奥で圧殺された。若い騎士の巨体が、重い鎧ごとふわりと無音で宙へ釣り上げられる。首元にぴたりと嵌め込まれた氷の輪には、皮膚を裂く鋭い刃こそなく、血の一滴も流れてはいない。だが、容赦なく気道を圧迫し、強制的に呼吸を奪い去っていく。
「彼を下ろせ! 氷を斬れ!」
慌てて駆け寄った仲間が白耀の剣を振り被り、首を絞め上げる氷の蔦を断ち割る。パキン、と小気味良い音を立てて砕け散るが――騎士が地面へ落ちるより早く、空気中の水分が意思を持つ生き物のように再結合し、再び分厚い氷の枷となって彼を宙吊りにした。
空を切るような無酸素の足掻きは数秒で止み、やがて若い騎士は糸が切れたようにぐったりと動かなくなる。脈はある。死んではいない。だが、一人の戦力としては完全に無力化されていた。
犠牲は前線だけではない。最後尾で警戒に当たっていた屈強な騎士が、突如として前触れもなく地面へ崩れ落ちた。外傷はない。金属鎧にも傷一つ付いていない。ただ、彼の立っていた足元の土だけが、泥沼のように正確に両足の踝の深さまで陥没し、そのまま岩のように硬化してブーツを食い千切る勢いで拘束したのだ。
立ち上がろうと腕に力を込めるが、不可視の重力場のような強い斥力が働き、彼の体を容赦なく地面へと押し戻す。
「な、なんだこれは……!」
まるで、この森の大地そのものが彼らの存在を激しく拒絶しているかのような、圧倒的な異常事態。未知の魔法に対する原始的な恐怖が、冷水のように隊列全体へと伝播していく。
「陣を縮めろ!」
古参の騎士が怒号を飛ばす。だが、その決断すらも、彼女の思考速度の前では致命的に遅かった。騎士たちの足元を、薄い霜がチリチリと乾いた音を立てて円を描くように疾走する。次の瞬間、幾何学的な霜の模様は、無数の極薄の氷刃へと形を変え、地を這うように一斉に跳ね上がった。
それは甲冑の分厚い装甲を無理に貫こうとはしない。自動で狙いを定め、膝裏、脇の下、首の付け根といった”鎧の隙間”だけを的確に叩き、冷気によって運動神経を麻痺させていく。致命傷には至らない。だが、確実に手足の自由を奪い取る。
「後退――!」
退避の命令が完全に形を成す前に、屈強な騎士たちが一人、また一人と重い音を立てて腐葉土の上へ沈んでいく。声を失い、動きを封じられ、無念と共に白刃を取り落とす。これだけの数が無力化されているにも関わらず、森の土には一滴の鮮血も流れていない。それこそが何よりも不気味で、彼らの精神を削り取っていた。
「……魔女の姿は」
兜の奥から漏れた震える声が、薄闇へと虚しく溶けていく。
「見えない……」
当然、答えはない。姿は見えないが、何千何万という無機質な視線に見られているという確かな悪寒だけが、彼らの背筋を這い回っていた。立ち並ぶ歪な木の影、踏みしめる土、肺を満たす空気。今やこの空間にあるすべての自然が、彼らを排除すべき敵であった。
王国の精鋭たる白耀剣の騎士たちは、戦慄と共に理解し始めていた。これは、剣と魔法が交差する”戦闘”などではない。圧倒的な強者による、冷酷な”選別”作業だ。前へ進めば、罠に飲まれて削られる。その場に留まっても、大地に捕食されて削られる。
唯一、彼らが立っていられるのは――森の主であるあの少女が、明確な意図を持って”許した安全地帯”だけなのだと。
遠く離れた別の場所で、分隊の誰かが短く悲鳴を上げた。だが、その音も水面に落ちた小石のように一瞬で掻き消え、極光の下の森は、再び何事もなかったかのように不気味な静寂を取り戻す。
彼らは歩みを止めることができない。なぜなら――これだけの絶望的な力量差を見せつけられ、部隊を半壊させられながらも、あの心優しき異端の少女は、未だ誰一人の命も奪わないからだ。
その残酷なまでの慈悲こそが、彼らに降伏や撤退という選択肢を許さず、出口のない暗い森の奥へと強制的に歩を進めさせていたのである。
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