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極度の緊張が途切れた肉体に、凄絶な痛覚が遅れて牙を剥いた。浅く呼吸を繰り返そうと胸を上下させるたび、肺の奥がひきつり、鉄の味が喉を焼く。
「……っ」
声にならない掠れた吐息が、血の泡とともに漏れ出た。ソラスは、薄明りに照らされた森の浅い窪地へ、泥に塗れて崩れ落ちるように倒れ伏していた。
背中にべっとりと張り付く、死の感触。
あの人外の領域に立つ剣聖の放った、圧倒的で無慈悲な白刃の記憶。咄嗟の防壁で直撃は避けたはずだった。だが、絶対の死の軌道は、確実に彼女の柔い肉を裂いていたのである。ボロ布のようになった衣の下、左肩から脇腹にかけて、焼けた鉄を押し当てられたような激痛が脈打っている。流出する血液の量そのものは多くない。しかし、開いた傷口から体温と生命力が泥水のように抜け落ちていく感覚が、恐ろしいほど鮮明にあった。
さらに、大地へ無防備に叩きつけられた衝撃が、小さな体を容赦なく破壊している。肩の関節、背骨の軋み、後頭部への鈍いダメージ。骨こそ折れていないものの、全身の神経が限界を告げる警鐘を鳴らし続けていた。
ソラスはもつれる手足に鞭打ち、ゆっくりと仰向けに寝返りを打つ。視界の頭上では、複雑に絡み合った黒い枝葉の隙間から、日の光がまだらに落ちてきていた。その揺らめく色彩が今の彼女にはひどく暴力的に感じられ、たまらず重い瞼を閉じる。
すると、視覚が塞がれたことで、己の器がいかに修復困難なほど壊れかけているかが、より残酷な解像度で脳裏に浮かび上がってしまった。
「……だめ」
掠れた唇から零れた拒絶の言葉に、ひゅっと喉が鳴る。彼女を支配しているのは、死への恐怖ではない。このまま、己の内に渦巻く途方もない力が”決壊”してしまうことへの、底知れぬ恐怖だった。
震える指先で、傍らの地面を掻き毟る。指の腹に触れた腐葉土は、昼間の熱を微かに残し、ひどく生温かかった。
――それが、致命的な引き金となった。
温もりがもたらした一瞬の弛緩。その心の隙間を突いて、肉体の痛み、死の恐怖、後悔、そして理不尽な世界への怒りが、濁流となって小さな胸へ押し寄せる。感情が激しく波打った瞬間、膨大な魔力が主の意志を無視して暴走を始めた。
風など一切吹いていないにもかかわらず、大気が陽炎のように歪む。彼女の周囲を取り囲んでいた枯れ葉が、重力を失ったようにふわりと宙へ浮き上がり、見えない渦に巻き込まれて不気味な螺旋軌道を描き始めた。
「……っ、やめ……」
制止の声を上げるより早く、肉体が明確な拒絶反応を示す。早鐘を打つ心臓の鼓動に呼応するように、背中の下の大地がドクン、ドクンと不気味に脈打ち始めた。森が彼女に同調しているのではない。彼女の膨張する魔力が、森そのものを己の肉体の一部として強引に浸食し始めているのだ。
ソラスは絶望と共に悟る。これまで彼女が規格外の魔力を抑え込めていたのは、強靭な精神力があったからではない。単に”健康な肉体”という頑丈な檻があったからに過ぎない。傷つき、限界を迎えた今の器では、激しい感情の揺れに連動する魔力の奔流を到底閉じ込めてはおけない。ひび割れた隙間から、制御を失った力が無尽蔵に溢れ出していく。
足元の土に、瞬く間に白銀の霜が広がる。だが次の瞬間には、それは氷の結晶になりきれず、かといって水にも戻れぬまま、どろりとした不気味な冷気の塊となって明滅した。限界を超えた、未完成の力の残滓。
「……嫌……」
喉が痙攣し、熱い涙が視界を滲ませた。その水滴がこぼれ落ちた拍子に、周囲の空間が重力異常を起こしたようにグンと沈み込む。遠くで、大樹の幹が凄まじい魔力圧に耐えかねてメキメキと悲鳴を上げた。それは、主の暴威に応えようとして、すんでのところで踏みとどまっている森の軋みだった。
ソラスは両腕を胸の前で固く交差させ、自分自身を必死に抱きしめた。溢れ出る暴威を、小さな胸の内に無理やり押し込めようとするように。
「……お願いだから」
それが暴走する己の魔力へ向けた懇願なのか、それとも残酷な運命に対する救難信号なのか、あるいは醜く変貌していく自分を”見ないでほしい”という祈りなのか、彼女自身にも分からなかった。
「……うう」
心臓を鷲掴みにされたような喪失感。絶対的な孤独が、肉体の激痛と重なり合い、絶望の相乗効果となってさらに魔力の暴走を加速させていく。破滅への悪循環。
耐えきれず、ソラスは身を翻し、這いつくばるようにして泥まみれの額を地面へと押し付けた。冷たい。ようやく触れた森の深部の冷気が、火のように熱い思考を僅かに冷ます。その微かな冷涼感だけを細い命綱にして、奥歯が砕けそうなほど強く食いしばる。
――まだ。まだ、この呪われた力を解き放ってはいけない。
だが、極光の下で蠢く世界は、すでにこの心優しき異端の少女が限界を迎えたことを、静かに、そして確実に察知していた。あと一段、ほんの僅かでも感情の天秤が傾けば、二度と人の形には戻れない。その致命的な境界線の縁で、ソラスは一人、見えない深淵を覗き込みながら震え続けていた。
■
剣と剣が、再び激しく噛み合った。甲高い鋼の悲鳴が大気を裂き、戦場に目眩くような火花が散る。
ジークとフラスニイルが致死の刃を交える、その濃密な死の円環の外側で、団長直属の精鋭騎士たちは決して一歩も踏み込むことはしなかった。剣聖同士の極限の間合いに凡夫が割って入ることが、いかに無意味で愚かな自死行為であるかを、彼らは誰よりも理解している。待機や援護の命令は下されていない。だが、彼らにとってはそれで十分だった。
しかし、彼らはただ傍観しているわけではない。背後から迫る戦場全体を冷徹に管理していた。がしゃり、と嫌な硬質の音を立てて、氷で編まれた自律人形の一体が、白銀の刃によって袈裟懸けに切り裂かれる。魔力で構築された疑似関節が、断たれた瞬間に断末魔のような軋みを上げ、細かい氷の霧となって空中に霧散した。
「――次、右斜め前方」
短く、しかしミリ単位の正確さを持った声が飛ぶ。その報告に応じるように、別の騎士が滑らかに踏み込み、襲いかかってきた木の兵の脚部を斜めに断ち割った。硬い樹皮の奥で繊維が引き裂かれる音が鳴り、体勢を崩して倒れた人形はなおも泥を掴んで這おうとしたが、無慈悲な次の一撃で胸の魔力核を正確に砕かれた。彼らの動きに慌てた様子はない。異端の魔術に対する驚嘆も、尽きることのない人形への恐怖も、微塵も表に出さない。
――魔女の造形物。
――自律稼働型。
――個体ごとに魔力循環の癖が違う。
たった数合の交刃で、彼らの分析はすでに終わっていた。空気を裂いて飛来した氷の剣が、無人の殺意をもって騎士の喉元を狙う。それを、狙われた騎士は半身をずらして最小限の動きで躱し、盾の縁で滑らせるように受け流した。軌道を逸らされた氷刃は地面に激突して砕け散り、細かな氷片が雨のように降り注ぐ。
「数は多いが、連携は取れていないな」
「……いや。むしろ完全な”個”として独立しているのか」
兜の奥から低い声が返る。それは未知への恐れではなく、純粋な戦力としての評価だった。彼らは、団長であるジークの背中を守るために戦っているのではない。フラスニイルの隙を狙って横槍を入れるつもりもない。ただ、この場に執拗にまとわりつく魔女の余力を、ひとつずつ物理的に削ぎ落としているのだ。
自律人形が砕かれるたび、魔力の残滓が断末魔のように空気を震わせる。その背後で、剣聖同士の澄んだ金属音が絶え間なく鳴り響く。昼下がりの冷たい風を背に受けながら、直属騎士たちはただ淡々と、作業のように刃を振るい続けた。
――団長の戦いは、誰にも邪魔させない。
――この戦場のノイズは、我々が完全に管理する。
それが、彼らの中に通底する暗黙の矜持であった。
次の太刀筋。死の軌道を描くはずだったジークの踏み込みが、ほんの僅かに遅れた。その絶対零度の隙間を縫い、フラスニイルの無骨な剣がジークの肩口を掠める。
傷は浅いが、剣聖にあるまじき明確なズレだった。ジークは即座に後方へ跳躍し、フラスニイルから距離を取る。剣を正眼に構えたまま、決してそれ以上の油断は見せない。氷のような視線が、一瞬だけ、目の前の敵から外れ、深い森の奥へと吸い込まれるように流れた。
直属の騎士たちが、その異常事態に息を詰める。
――援護に入るべきか?
否。誰も、そのようには判断しなかった。ジークはまだ、戦意を置いてはいない。
「今のは」
フラスニイルが、油断なく剣を構えながら低く唸る。
「お前自身の、剣の鈍りや隙ではないな」
ジークは答えず、己の足元を確かめるように、分厚い革のブーツで乾いた大地を一歩、強く踏みしめた。その挙動に呼応するように、地面が微かに、しかし確かな質量を伴って振動を返してくる。それは、彼らの剣戟が引き起こした物理的な反動ではない。もっと深く、大地の底の地脈そのものが震えているような、おぞましい胎動だった。ジークの端正な眉が、わずかにピクリと動く。
「……そうだな。これは迷いの剣などではない」
静かな声が、森の冷たい大気に響いた。再び白耀の剣を構え直す。だが、フラスニイルへ向けられていた絶対零度の殺気は、周囲の異変を警戒するように、わずかに後退していた。
「魔女、というものを――」
唐突に、ジークが語り始めた。血で血を洗う戦場の中心には到底似つかわしくない、講義でもしているかのような落ち着き払った声だった。
「我々王国は、ずいぶんと軽く扱ってきたようだ」
フラスニイルは黙って耳を傾ける。剣の切っ先は、決して下ろさない。
「実際、近代以降の記録に残る魔法使いなど、小粒な者ばかりだ。個人の矮小な器で引き出せる魔力など、たかが知れている」
断定するその響きには、数多の異端を狩り立ててきた絶対的な経験に裏打ちされた事実の重みがあった。
「だから、単なる討伐対象として剣を振るえば、それで片がついていた」
ジークの視線が再び森の奥深く、見えない少女のいる方角へと向く。頭上で重なり合う枝葉が擦れ、不気味なざわめきが広がる。
「――だが。あれは、違う」
声のトーンが、地を這うように一段と低くなる。木々の間を吹き抜けていた風が、息を呑むように一瞬、完全に止まった。控えていた直属の騎士の一人が、たまらず息を呑む音が静寂に響く。
「本来なら、あの規模の地形や事象への干渉は、個々人の魔力では実現不可能だ。存在そのものが、この土地の地脈――いや、世界と深く結びついていなければ、到底起こり得ない」
ジークは、白刃の柄を革手袋が軋むほど強く握り直した。
「私の知る限り」
慎重に、言葉の重みを量るように紡ぐ。
「あれほどの規模の存在は、古代の歴史書……それも禁書指定された神話の類にしか、記されていない」
フラスニイルの鳶色の瞳が、驚愕に大きく揺れた。
「……ソラスが」
枯れた声で、少女の名を絞り出す。ジークは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。次にその瞳を開いた時、そこにあったのは未知への迷いではない。長年の経験から導き出された、冷酷なまでの戦術的判断だった。
「今、あの少女の精神は、限界を迎えて壊れかけている。肉体の苦痛と感情の奔流が、魔力の制御という細い糸を完全に引き剥がそうとしているのだ」
剣を水平に寝かせ、森の奥へと切っ先を向ける。
「ここで踏みとどまれば、彼女はまだ”人”だ」
止まっていた風が、再び吹き始めた。日中であるにもかかわらず、その風は季節を一つ飛ばしたかのように、肌を刺すほど冷たい。
「しかし、あの境界線をもう一段、踏み越えれば――」
その先の言葉を、ジークは口にしなかった。言う必要がなかったのだ。
昼の光が十分に届かない、森の最も深い昏がりの奥底で、途方もない質量を持った何かが、静かに、そして確実に目を覚まそうとしている。その人智を超えたおぞましい気配を、この場にいる全員が、震える肌で直接感じ取っていたからである。