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ユビスに跨って王宮を目指すベルニージュは、晴れ上がったばかりか、季節まで変じたかのような空を訝し気に見つめ、一人呟く。
「魔導書無しに魔導書並。もしかしてクオル、到達したの?」
ユビスは宇宙の果てからグリシアン大陸へ幸を運ぶ流星のように駆け抜ける。
見かけた魔物は全て取り合わず、傍らを駆け抜けていく。ただし、例の謎の闇を魔物が発していないことはきちんと確認した上で。
今のところメヴュラツィエ・ボーニスの双頭の獣以外に闇を発した魔物は見ていない。魔物自体は無関係である可能性が高い、とベルニージュは考え始めていた。メヴュラツィエかボーニス、あるいはクオルが、人や獣の魔物化とは別に何かをしたのかもしれない。
はるか背後から何かが爆発するような、瓦解するような音が聞こえ、ベルニージュは思索から現実へと戻って来る。
しばらくしてサンヴィア最北端に位置する王都トンドの王宮へと至る。
トンドの王宮もまた、サンヴィアに遍く存在する神殿と同じように夜闇の神ジェムティアンへの揺るぎない信仰を示そうと、その身を黒で覆っているが、それは日干し煉瓦などではなく、高貴にして厳粛な佇まいの黒大理石になる荘重な建築物だ。信仰に端を発する『大枠』なる概念を重んじるサンヴィア建築の中でも、さらに独自の流儀を得たトンド様式と呼ばれる建物だ。彫り刻まれた装飾は大胆にして躍動的ながら、艶やかに煌めく全き真珠が飾られている。まるで大海と宇宙が一体になったような、在り方には『奥行きの輪郭』と称される独自の美意識が表されていた。
ベルニージュは雪が溶けて泥と混ざった前庭を駆け抜け、宮中へと侵入しようという直前にユビスを止める。
ユビスの抗議を聞き流して、ベルニージュは呟く。「忘れるところだった、危ない危ない」
ベルニージュは地面に降りると泥を掴んで呪文を唱える。砂漠の民に最も恐れられる呪いの言葉の幼児語だ。見る見るうちに泥の含む水分が消え去り、一握りの砂になった。
ベルニージュは”砂は玉座の上にあり”を再現するための砂を握りしめ、再びユビスに跨ると、サンヴィアの黒真珠、トンドの要石と謳われる王宮へと乗り込む。
夜空を削り取ったかのごとき黒大理石の空間ながら、明り取りから差し込む夏の日差しのおかげで目に惑うことはない。緑の絨毯を躊躇いなく踏み越え、魔導書の衣を求めて駆ける。魔導書の衣を手に入れれば勝負を決するだけの力を得られるのは間違いない。
魔導書の衣が王宮のどこにあるかまでは分からないが、もう一つの目的である玉座の位置は想像できる。謁見の間がありそうな奥の建物を見つけ、中庭へと至った。
中庭の中心には噴水があり、その中央には彫刻像がある。それは純白の、艶めかしく照り輝く真珠の裸婦像だ。まるでいま囚われの身から解放されたかのような喜びを全身で表現していた。ベルニージュは事態が事態ながら感心して少しの間だけ目を奪われる。
その時、ユビスを掴もうと吹雪が四方から襲い掛かって来る。ベルニージュが舌打ちをして、後方の空を見上げる。クオルが燕のように真っすぐに飛んでくるのが見えた。かたわらには蝗害のごとき粘土板の群れ、そして雪を戴き、氷を纏い、酷寒を構えた《冬》を引き連れている。
雪に濡れたユビスでは中庭を抜ける前に追いつかれてしまう。ベルニージュは中庭に飛び降りて振り返り、迎え撃つ魔術を行使する。
夏を希う者たちの歌。夜を恐れる者たちの鬨の声。死と共に死を追い払う狩人の舞踊。
中庭のあちこちで無数の火花が縒り捩じられて、炎の燕が飛び立つとクオルの魔法を叩き落とす。粘土板を破砕し、クオルに支配された《冬》を遠ざける。
そのような存在を支配するということがどういうことなのか、ベルニージュは想像する。かつてエベット・シルマニータの街で退けた《熱病》を思い浮かべる。
宙に浮かぶクオルを見上げてベルニージュは声高に言う。「随分偉くなったもんだね! 天に座して季節を従えるのはどんな気分なの?」
「悪くないですね。でも彼は気のいい友人ですよ」とクオルは答える。
ベルニージュは地上に降り立った《冬》を睨みつけて言う。「どうでもいいけど、今年の、それともこの土地のあんた、ユカリに甘くない!? 別に文句があるわけじゃないんだけどね。もしくはワタシにだけ厳しいなんてことないよね!?」
《冬》は何も答えず、ただ目をそらした。
クオルが中庭に降り立ち、三度足を踏み鳴らすと、破裂するように霜が立ち、氷の巨人を生み出す。
二十を超える氷の巨人は二列になって突進し、ベルニージュが招き起こした炎の巨人と取っ組み合いをする。
「そうそう、クオル。人体実験については肯定できないけど、研究資料は有効利用させてもらう」ベルニージュは口の端から呪文と火花を噴きながら言う。「あとはワタシに任せて引退していいよ」
炎と氷の取っ組み合う最中を、クオルはベルニージュの元へ突き進みながら、ちらと空を見上げ、粘土版と《冬》に新たな呪文を押し付ける。
そして剣を持っていたならば斬り結べる距離まで近づくと、ベルニージュを見下ろして言う。
「深奥に関する資料は全て先生の遺したものです」クオルは自嘲する。「凡夫だった私はこうしてようやく自分の力を手に入れ、実験に着手できるところまで来たんです。まだ全ては始まったばかり、いえ、始まってすらいないんですよ」
空はベルニージュが優勢を保っているが、地上はクオルが支配しつつある。氷の巨人は数を減らしていないが、ベルニージュの眷属たちは殴り合いの果てに燃え尽きて、すでに半数以下だ。
「自分の力?」ベルニージュは首を傾げる。
「私の力ではないと?」クオルは凄む。
一体の氷の巨人が飛び出してベルニージュに殴り掛かるが、すんでのところで蒸発し、辺りに水蒸気が立ち込める。
「ううん。それはクオルの手に入れたクオルの力だけど、そうじゃなくて」ベルニージュは何かに気づいたように目を開く。「ああ、何だ、知らないの? 成功例があったのに」
クオルもまたぎらついた目を開いて言う。「何のことですか? 教えなさい」
ベルニージュは舌を出す。「やだね」
地上は趨勢を喫し、ベルニージュは炎の燕たちを呼び戻して下がる。この騒動にユビスは姿を隠してしまった。後でユカリとレモニカに言いつけてやると心に決めつつ、雪と氷の爪と牙を受け流しながら後退する。
魔術師でも斬り結べない距離まで離れるとベルニージュは背中を向けて、王宮の奥へと駆けだした。
「逃げるのですか!?」とクオルは挑発する。
「勝つためならね!」とベルニージュは応える。
砂と泥と雪を踏み越えて、冷気から逃れるように再び黒大理石の王宮へと踏み込む。《冬》が吹き込んできて、ベルニージュを氷漬けにしようと襲い掛かってくるが、ベルニージュの発する熱を冷ますには至らない。しかし向かい風に足止められて、その隙にクオルに追い抜かれる。
ベルニージュは指を鳴らして起こした火花をクオルの足元へ差し向ける。すると沢山の燃え盛る蛇が湧き出て、クオルの足を焼き焦がそうと絡みつく。踏み消そうともがくクオルをベルニージュは踏み越えた。
長い通路を駆け、追い抜かれては追い抜き返し、追い抜いては追い抜き返され、炎と氷をぶつけ合う。足を引っ張り合いながら進む二人の足は遅々として、ただでさえ奥にある謁見の間は遠い。
何度も転び、押し倒されながらも起き上がって進み、とうとう謁見の間にたどり着いた時、先を行っていたのはベルニージュだった。