やはり黒大理石で構成されている謁見の間は、幾代ものあいだ王権を受け継いできた君主たちと、多くの報せを運んできた使者たちを引き合わせてきた。その歴史がその広い空間に積み重ねられている。
謁見の間の奥、陛の上に黒大理石を彫り刻んだ玉座があった。沢山の紅玉や蒼玉、金剛石や金に彩られた玉座の座面に魔導書の衣が丁寧に畳まれて置いてある。その背後には柱廊が控え、岬がずっと海へと伸びている。
そして謁見の間には床を埋め尽くすほどの沢山の粘土板が山と積み上がっていた。この粘土板がただ飛び回って襲い掛かるだけでなく、クオルの力の源であることは明らかだ。やられる前にやろうと、ベルニージュは追ってくるクオルの方を振り返り、魔術を行使しようとするが、一言を発する前に口を氷で塞がれ、指を鳴らす間もなく、足を踏み鳴らす間もなく氷に戒められてしまった。
クオルはぜいぜいと息を切らし、大きく深呼吸する。「危なかったです。いくら私でも何の対策もなしに魔導書を置いては行きませんよ」
数えきれないほどの粘土板が濃く醸し出す魔法の氷によってベルニージュの体が持ち上げられ、罪人のように磔にされる。明り取りから斜めに差し込む光にベルニージュは晒される。
「さあ、これでお終いです」とクオルが言う。
ベルニージュは明り取りの向こう、青い空から何かが降ってくるのを目にする。まるで雷のように天から落ちてきた槍は、しかし岬から強い風が吹いて軌道がずれ、ベルニージュを戒める氷を破壊した。そこへユカリが現れ、魔法少女の宝飾杖でベルを戒める氷を【噛み砕く】。
「ベル! 大丈夫!?」
背の高いユカリと見慣れた焚書官に覗き込まれてベルニージュは安堵した。「ありがとう。危うく掠り傷を負うところだったよ」
「掠り傷で済むわけないでしょ!」とユカリは呆れつつ非難する。
「ともかくお二人とも無事で良かったですわ」とレモニカはベルニージュに近づきすぎないようにしつつ笑みを浮かべる。
クオルが自嘲するような苦笑いでユカリを見ている。「あいかわらずとんでもない風の魔法ですね。エイカさん」
抗議するように強い風がクオルに吹きつけるが、その黒髪が靡くだけだった。
「すごいのはグリュエーってことは私が知ってるよ!」とユカリが虚空に向かって励ます
ユカリの視線の先にはクオルがいて、その後ろからサイスたち焚書官が現れる。クオルも気づいて脇へ飛び退き、三つの勢力が睨み合う。
クオルが薄話笑いを浮かべて言う。「ベルニージュさんたち。同じ追われる身なら私と手を組みましょう。三つ巴は面倒です。あ、レモニカさんはもういいですけどね」
ベルが悪態をつく。「どの口で言ってんの? 返すもの返してから言いなよ」
クオルはサイスの方に微笑みを向けて言う。「救済機構のよしみで――」
「黙れ。お前は教敵だ」サイスは誘われる前に膠もなく断る。
サイスの掲げた木の棒から無数の火の鳥が迸り、ベルニージュの紡ぐ言の葉が火の獣を地の底から呼び出し、まるで示し合わせたようにそれら魔の炎が一斉にクオルに飛び掛かる。
しかし先制攻撃は容易く跳ね除けられた。炎を浴びるクオルの元にサンヴィアの《冬》が馳せ参じ、雪と氷の戦士たちが輪になって踊るように盾として火を退ける。途端に謁見の間の空気は瞬時に冷える。戦う者たちの白い息が霧のようになって、黒大理石の床に霜が立つ。
ベルニージュは二冊の魔導書を触媒にして次々に炎を熾し、そこにサイスの魔法も加わるが、クオル以外の全ての者たちが凍えて震える。
しかしベルニージュとサイス以外にクオルを相手どれる者はいなかった。ユカリには蝗の群れのように粘土板が集る。風を纏って外套をなびかせて謁見の間を飛び回りながら、その煌びやかな杖で粘土板を叩き壊している。サイス以外の焚書官たちは後ろから追って来た魔物にかかりきりだ。レモニカは入り乱れる戦いの最中に合って、次々に変身する自らの体を御することすらできなくなっている。
しかし一見拮抗する戦いの中で、ベルニージュは突破口に気づいていた。ユカリだけはひたすら粘土板の数を減らしている。いずれどこかの時点でベルニージュとサイスの火勢がクオルに届く。その時まで持ちこたえよう、と。しかしベルニージュはまだユカリを過小評価していたことを思い知らされる。
謁見の間を舞い踊るように飛んでいたユカリが、クオルの背後に回り込んだ瞬間、大きく息を吹きかけた。生物に憑依する魔法少女の第三魔法だ。ユカリの狙いは完璧だった。常人ならばその魔法に抵抗できず、魂を組み敷かれる。しかしクオルの何かがそれを凌駕した。
ユカリの体から意識は失われず、クオルが振り払うように腕を振るうと、その体が吹雪に吹き飛ばされる。グリュエーのお陰で壁に叩きつけられずに済んだが、ユカリは混乱を抑えて再び粘土板の相手をする羽目になる。
ベルニージュはクオルの視界から外れた途端、玉座へと走る。置いてけぼりになったサイスの呪うような悪態が聞こえる。クオルに付き従う《冬》がベルニージュを捕らえようと手を伸ばすが、炎の巨人が阻む。
謁見の間を全力で駆け抜け、陛を駆け上り、玉座に飛びつくようにして魔導書の衣をもぎ取ったその時、玉座の上に砂が敷き詰められていることにベルニージュは気づいた。
”砂は玉座の上にあり”という一節をベルニージュは頭に思い浮かべ、目を瞑ろうとするも間に合わない。【崩壊】、砂の玉座、揺らぐ大地、時間の隷、老い、王国、輪郭の内、二十二番目の禁忌文字が激しい光を放つ。
ベルニージュは間抜けな罠にかかった己を呪う。どうやってクオルは元型文字完成を示唆するこの詩にたどり着いたのだろう。真っ白な闇の中でベルニージュは抵抗する暇もなく何者かに魔導書の衣をもぎ取られる。
「さあ、お終いにしましょう」
その声はクオルだったがどこか遠くから聞こえるように感じた。
「ベル!」と言ったのはユカリで、ベルニージュを抱きかかえて宙を舞っているのもユカリだ。「いったい何が起こってるの!? レモニカ! こっち来て!」
ベルニージュはユカリの困惑する声音を聞き、冷静さを保とうと心に刻む。眩まされた視界が晴れると、見知らぬ部屋にいた。ただし変わらず黒大理石でできた広い空間だ。床には変な段差がある割に、天井は平らで、なぜか玉座が吊られており、そこに魔導書の衣と光に身を包まれた何者かが座っている。謁見の間の天地が逆転していた。
ベルニージュもレモニカもユカリにすがるようにくっついているが、二人がユカリに贈った外套のおかげで天井に立てているわけではない。焚書官たちも魔物たちも天井に落ちている。
「あれがクオル?」とベルニージュはレモニカに尋ねる。
まさに前にレモニカが説明したとおりの姿だ。肉の奥に隠されているべき全身の骨が太陽のように眩い黄色い光を放ち、肉も臓腑も皮膚も透けて見えている。その表情を読み取ることもかなわない。
レモニカは床を見上げて肯ずる。「はい。間違いありません。わたくしが見た姿と同じですわ」
その時、全ての音を遮るようにクオルがうたい始める。
「不思議な不思議は不思議の不思議。長い冬にさようなら。温い春にこんにちは。一緒に唄って踊りましょう。常し方の生を讃えましょう」
狂ったような吹雪が吹き込み、謁見の間を渦巻いたと思えば、サンヴィアには似つかわしくない桜の花吹雪へと変じる。辺りに桜の馥郁たる香りが広がる。グリュエーが花吹雪を退けるが、花吹雪は花吹雪でしかなく、誰を襲うでもなかった。
「不思議と不思議が不思議も不思議。大きく吸って大きく吐いて、声を揃えて大合唱。命は喜び、命は福。儚い死を憐れみましょう」
今は床を支えている黒大理石の柱が崩れ去り、瓦礫がげこげこと鳴く。黒く滑る蛙たちがわけもわからず飛び跳ねて、謁見の間に溢れかえる。鳴き声は人の声にも聞こえ、弦の音にも笛の音にも鼓の音にも聞こえる。厳かなる儀式に興を添えるような楽の音が広間に響く。
ベルニージュもユカリもレモニカもサイスも焚書官たちも何が起こるか分からない出鱈目な魔法に戸惑わされるばかりだった。
「不思議で不思議に不思議や不思議。心も霊も魂も熱く漲り燃え上がる。吐き出す響きは炎の息吹。その身を焼いて解き放て」
謁見の間を包み込んでいた楽の音が炎へと変わり、光と影が踊り狂い、いよいよクオルの対立者たちは逃げ惑う。蛙はなすすべもなく焼け死んで、そこここで魔物が生ずる。とうとう天井が崩落し、眼下に天が露わになる。
クオルはただ玉座に座って虚空を見つめ、一心不乱にうたい続ける。
どこかから燃える鎖が飛んで来て焚書官の一人を戒め、砂嵐が起きたかと思うと、夜がやって来て、明り取りから差し込む月光が大理石の壁を削り、魔物の影が魔物になり、天井から落ちていき、崩落した天井から血が滴り、床に血だまりを作ると、そこから茸が湧き立ち、鎖に戒められた焚書官を覆っていき、魔物も加わって、鎖をも取り込んで、頭には鷲のような鋭い嘴があり、四肢が蛇の異形の巨人が生まれ、巨人がその体内から巨大な剣を取り出すと、雷鳴を従えて滅茶苦茶に振るい、剣が壁を裂くと真珠が零れ、床を裂くと林檎が零れ、散らばった真珠は星になって、林檎は泥に変わり、一部の焚書官が謁見の間から逃げ出そうとするが、通路の全てにぎゅうぎゅうに押し込められた蛇が眠っていて、誰にもどこにも行き場はなく、ただただ喧噪に翻弄された。
誰もが生き残るので精いっぱいだった。考えてどうなるものでもなく、ただ目の前の危機を避け、死の瀬戸際にしがみつくしかできない。
ベルニージュは知りうる限りの、人を黙らせる魔法をクオルに向かって放ったが、何一つ歯が立たない。魔法の問題ではなく、そもそも魔導書二冊を触媒にしてなおベルニージュの力が及ばないのだった。
「これが衣の魔導書の力!?」ベルニージュはユカリに向かって叫ぶ。
ユカリは訳も分からず叫び返す。「一体何がどうなってるの!?」
それでもユカリは何とかクオルのもとにたどり着こうとしていることが、ベルニージュには分かった。
「とにかくあの女を黙らせるよ!」とユカリが苛立たし気に叫ぶ。
「ワタシもそう言おうと思ってた!」とベルニージュも呼応する。
今や天地の別のないユカリは謁見の間を優雅に飛び交い、時に壁を、時に天井を走って、クオルの元へ急ぐ。鷲頭の巨人はユカリを狙って剣を振り下ろすが、魔法少女の杖に容易く【噛み砕かれる】。
ベルニージュは炎の鳥を使役して、ユカリに近づくものをそれが何であれ焼き尽くす。レモニカはあらゆる呪いを放ち続けるベルニージュを護衛するように大男の姿で拳を振るっていた。
ユカリが床に降り立って、玉座のクオルに迫った時、再び天地がひっくり返る。全てが床に落ちてきて、ユカリを阻む。そしてクオルの支配下の《冬》が再び形を成して、その煌めく氷の業物を構え、ユカリの背後に迫る。
「ユカリさまの元へ!」とレモニカが叫ぶ。
「無茶しないでよ!?」とベルニージュは答える。
駆けるベルニージュは、灰と煙と死を賛美する古に廃れた忌まわしい呪文を唱えると、神を嘲ったという街を滅ぼした劫火を解き放つ。業物を振りかぶる《冬》が解かし尽くされると、サンヴィアに春が訪れた。
クオルでさえも気づかなかったがベルニージュは見逃さなかった。《冬》がベルニージュの炎に巻かれる直前、《冬》の振り下ろした氷の業物はユカリの首に触れる前に寸止めしていた。ベルニージュの憐れみが去り行く冬を慰める。
ユカリはひとっ飛びに玉座に詰め寄って、その煌びやかな紫水晶の杖を突き立てて、クオルの首を刎ねた。まるで放り捨てられた黄金の毬のようにクオルの首は陛の下へと転がり落ちる。
予想に反した出来事だったのか、ユカリは小さく悲鳴を上げて飛び退く。代わりにベルニージュがクオルの輝きを放つ体から茜色の外套を剥ぎ取った。
野太い悲痛な叫びを聞き、ベルニージュが振り返ると、サイスの剣が鷲頭の巨人の胸を刺し貫いていた。そしてどこかから聞こえてきた鐘の音の響くと共に鷲頭の巨人は破裂した。
しかしベルニージュたちのもとに絶望が訪れてせせら笑う。魔法の嵐は止んでいなかった。意味も因果も繋がらない現象が謁見の間を乱れさせ、全てが出鱈目に転変する。
首だけになってもなお、陛下のクオルは歌をうたい続けていた。
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