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凛は、寝ない子供だった。 昼も夜も、関係ない。
手足をバタバタさせて、息が切れるまで泣き叫び、ようやく寝たと思えば、わずかな物音に目を覚ましてまた泣く。
母乳を与えようとするも顔を背けて飲まず、ミルクに切り替えたけど今度は哺乳瓶を口に入れただけで顔を真っ赤にしてのけぞった。
抱っこをしても泣き、放っておいても泣き。いつ寝ているのか。これほど寝ない乳児がいるのか。
そんな不安が、睡眠不足と共に蓄積されていった。
出産前から読み込んでいた育児書通りにオムツを替えて、ミルクをあげて、あやして、寝かせる。
それが「普通」だと思っていた。
けれど、私の腕の中のこの子には、そのどれもが通用しない。
抱っこしてあやしたら、より泣き喚く我が子に何をどうしたら良いのか分からず、一日が過ぎていく。
私は人生で初めて、思い通りにいかないことに直面した。
抱きしめるたびに思う。
どうして泣くのか。何が不満なのか。どうしたらいいのか。
でも凛は答えてくれない。
ただただ、泣き続ける。
私は泣き止ませることができない母親で、目の前に存在する命に毎日拒まれていた。
幸いなことに夫は娘の育てにくさを理解してくれたようで、休日は代わってくれた。夜中に泣き声で目が覚めても、文句ひとつ言わずミルクを作って飲ませてくれた。
その数時間の眠りがなかったら、私はきっとどこかで壊れていたと思う。
窓の外に見えるベランダの柵が、日に日に低く見えていくのが怖かった。
こうしている間に時間は瞬く間もなく過ぎていき、迎えた四ヶ月健診の日。
待合室のベンチに座りながら、私は他の赤ちゃんを観察していた。
まるくて、ふっくらしていて。柔らかそうな頬を上げ、天使のような微笑みを母親に向ける。
まさに、私が想像していた、赤ちゃんの顔をしている。
その笑顔がどれもキラキラしていて、涙腺が緩みぼやけて映る。
だけど凛はミルクの飲みが悪いからほっそりしていて、笑うどころか泣いてばかり。
首すら完成に据わってないからグラグラしていて、うちだけ横抱き。他の子は母親の胸で泣き止んでいくのに、凛は私が抱くと反るように身体をのけぞらせて泣き叫ぶ。
育児書もネットの情報も何も合ってないと思ったけど、それは違った。
合っていないのは、うちの方。一般的な赤ちゃんは四ヶ月になれば首が据わり、あやせば笑い、ミルクをいっぱい飲んですくすく大きく成長している。
私達だけ、時間がゆっくり流れる異質な世界に閉じ込められていたのだろうか?
寝不足な頭は、普段は思い付きもしない非現実的な発想に埋め尽くされていた。
でも、違うのはこの子ではなく、私なのかもしれない。
ミルクの量、首のすわり、表情、反応。
どれも育児書の平均からずれていて、それがすべて自分のせいのような気がしてならなかった。
他の子は普通に笑ってる。寝てる。成長してる。
どうして、私だけこんなに苦しいのだろうか?
うちは何かが違う。
保健師さんに相談しても、はっきりとは何も言われなかった。
「まだ乳児ですから」、「個人差がありますから」。
その個人差の中に、うちは入るんだろうか。
私はその言葉にすがった。そうであってほしいと、心の奥底で願っていた。
だけど、現実とはあまりにも残酷なもので。
生後六ヶ月、ようやく寝返りを打てた頃、周りの子たちはもうお座りをしていた。
九ヶ月でお座りができるようになった頃、他の子たちはずりばいやハイハイで部屋中を自由に動き回っていた。
凛がようやく這えるようになった一歳前には、周囲はもう伝い歩きを始めていた。
追いつかない。どんなに頑張っても、差は縮まらない。
それでも時間だけは平等で、仕事復帰の時は迫っていた。保活の甲斐あって徒歩二十分の距離である、第三希望の保育園に入園が叶った。
娘の発達がゆっくりであることも園に伝えてあったし、先生たちも理解を示してくれた。
集団生活で刺激を受けて伸びる子もいる。──そんな言葉も信じたかった。
そして何より、久しぶりの仕事は楽しく、やればやるだけ成果が返ってくる。
この一年間。誰にも評価されず、何も成せなかった日々が嘘のように、仕事での成果が私の存在を肯定してくれる。
私はようやく、本来の私を取り戻したように日々を過ごすことが出来た。
でもその安堵が、崩壊する日が訪れるなんて。