テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
『お友達を噛んだ?』 保育園の玄関に差し込む夕陽が、廊下に淡く影を落としていた秋口。
昨日まで暑かったからと半袖のTシャツを着せていたけど、今日は一気に冷え込み長袖シャツを着せて良かった。
そんなたわいも無いことを思いながら、冷たい風に吹かれながら保育園に迎えに行った。凛が一歳半を迎えた頃。いつも通りの今日が平凡に終わると信じて扉を開けた私は、一瞬にして日常が壊れていく音を聞いた。
この時の衝撃は今でも鮮明に焼き付いている。
頭に、何か硬いものを打ちつけられたと錯覚するような痛みに脳内は揺れ。
息が止まり、呼吸を止めたことにより血液循環が一瞬止まったような錯覚。
体の端がピリッと痛み、全身の血が引いていく。
地面が、少し傾いた気がした。
うそ、凛が?
心臓の音が大きくて話が聞こえなくて。キーンと耳鳴りがして。脳内が理解をするのを拒否しているみたいに情報を取り込んでくることを阻んでくる。
『申し訳ありません。誰に対してかは園の決まりで言えなくて……』
なんとか絞り出した声で問うも、先生は握り締めた手をより震わせ、言葉に詰まってしまった。
違う、先生に謝って欲しいんじゃない。ただ私は、相手の子に。親御さんに。直接、頭を下げたかっただけで。
『一歳半は、言葉で気持ちを伝えられないから、叩いたり噛んだりしてしまう』
そんなことは頭では分かっている。理解している。
でもうちの子が誰かを傷付けたのは事実で、被害者がいて、凛は──。
その言葉が過った時、余計に目頭が熱くなっていくのを感じた。
加害者になったという事実が喉の奥に棘のように刺さって、涙をせき止めることすらできなかった。
凛を乱暴に幼児用バギーに乗せ、黙って歩いたいつもの帰り道。
日の暮れが早くなり、長くなった影。街を甘い匂いで包む、金木犀の黄色い花。風がより冷たく感じる、秋の夕暮れ時。
季節は確かに、美しく進んでいるのに。──私の世界だけが、歪んで見えていた。
十階建ての鉄筋コンクリートで建築されたマンション。エレベーターは八階で止まって降り、そのままバギーを押して部屋の前に着く。鍵を開けて部屋に入り、扉が閉まる音がした瞬間。
胸の奥でせき止めていたものが、一気にこぼれ落ちた。
「お友達、噛んだらだめじゃない! どうしてそんなことしたの!』
言葉もろくに通じない一歳半の子どもに、私は声を荒らげた。
本当は叱りたいんじゃなかった。分かっている。
でも、どうしても、声が震えて止まらなかった。
『きゃあああああああああー!』
耳が|劈《つんざ》くかと思うほど金切り声が響き、床を蹴り、壁を叩き、泣き叫ぶ。
奇声は部屋を包み込み、私の言葉なんてすぐに掻き消される。
保育園に通い出してから始まった、この癇癪。
先生は「集団生活でのストレスでしょう」と言っていたけど、私はもうそれを受け止められなくなっていた。
触れれば拒絶され、声は届かず、あやす術もない。
十月の心地よい風が吹くはずの、この季節。うちは、窓をずっと閉め切っている。
泣き声が外に漏れるのが怖くて、誰かに見られるのが怖くて。
──いや、違う。
本当に閉じていたのは、私自身の心の窓だった。
助けを求めることができない。
こんな感情を持ってしまう自分を、誰にも知られたくない。
「良い母親」であろうと、頑張って、笑って、でも、本当は叫びたかったのは私の方だった。
床に蹲る凛の横で、私は膝を抱えた。
この子の未来が怖い。この子を育てる自分自身の弱さが、もっと怖い。
十月の秋風が心地よい季節だというのにうちはいつも窓を締め切り、常に不穏な空気がまとう異質な空間。
そこに金木犀の香りが、かすかに窓の隙間から入り込んでくる。
しかしその甘さに、心が少しも癒されることはなかった。
床で癇癪を起こす娘を、私はただ見下ろしていた。
泣き声は耳に届いているはずなのにどこか遠くのことのようで、まるでテレビの中の他人の騒ぎを眺めているみたいだった。
……とうとう、やってしまったか。
そんな冷淡に、この状況を認めてしまうもう一人の私。
「うちの子が人を噛むなんて信じられない」
そんなの嘘。綺麗な言葉で包んで、自分のショックを誤魔化そうとしていた。
本当は心のどこかで、気付いていたでしょう?
凛が「普通」ではないかもしれないということに。
凛の問題行動は今に始まったことではなく、友達が持っているおもちゃを我が物顔で奪い、嫌がられたら邪魔だと言わんばかりに突き飛ばす。
何かのスイッチが入ったみたいに、おもちゃを見境なく投げつける。
それを先生が止めたら底なしの体力かと思うぐらいに泣き続け、殆どを泣いて過ごしているらしい。
だからうちだけ臨時の懇談が何回もあり、その都度問題を再認識させられる。
時短勤務で四時退勤でも通勤に電車で片道四十五分はかかり、家に帰ってきたら五時は過ぎている。
夫は多忙でアテに出来ず、私は帰ってから夕飯の準備に片付け、嫌がる凛のお風呂入れ、寝かしつけ、その後も保育園の汚れた服やエプロンにおしぼりの手洗い、明日の準備がある。
だから少しでも早く帰って、家事を終わらせたい。
スキルアップの勉強だってしたいし、床掃除してワックス掛けしたいし、ご飯だってしっかり作りたいし、夫のワイシャツにハンカチをアイロン掛けしたい。
それなのに懇談ばかりで、私の時間は何の生産性のない時間に消費されていく。
どうしてうちだけ?
いつも、そう思っていた。
#療育園