テラーノベル
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そのまましばらく阿部ちゃんの寝顔を見つめてから、ふと窓辺に視線が向いて、そちらへ歩み寄る。
窓枠の両脇で白いカーテンがゆるやかに靡いていた。ここは海の中だというのに、どこかから吹いてくる風に揺られているようだ。そのままバルコニーへ足を踏み出し、目の前に広がる景色を見渡す。
相変わらず美しくて穏やかな、どこまでも透き通った青の世界。
ふいに、阿部ちゃんが見せてくれた写真を思い出した。岩本くんと二人で行った石垣島の写真。念願叶ってのスキューバダイビングの際に撮ったという、石垣島の海中の画が、まさしく今おれの眼前にある風景と重なる。
――そんな思い出が、おれと阿部ちゃんにもあったら。
逢うときはいつもどちらかの家で、万が一の急な仕事のスケジュールの変更にも対応できるように。ほんの少しでもこの関係性が他人に知られうるリスクをなくすため、徹底的に人目を避ける。だから、二人でどこか遠くへ出かけることはおろか、近場で外食することすら無い。もしおれたちが二人で石垣島へスキューバダイビングに行こうものなら、誰にも見られずそういう雰囲気を一ミリも出さずに過ごすことなんてできないだろう。
いつか、外で他人の視線を気にすることなく、堂々と手を繋ぎたい。そんな気持ちは常にある。
岩本くんとの石垣島も、佐久間くんとのハワイも、聞くたびに羨ましく感じて、でもそんなことを無邪気に実行できるだけのものを長年の付き合いで培ってきた彼らだからこそだというのも頭ではわかっていた。それを飛び越えてしまったのがおれで、けれど飛び越えなければ阿部ちゃんを繋ぎ止められないと思ったのも事実だった。優しくて聡明でどこを切り取っても愛らしい魅力に溢れた阿部ちゃんが、人を惹きつけないわけが無いのだから、誰よりも先にその手を掴んで振り向かせるしかなかったのだ。
おれと阿部ちゃんに、そういえばあそこに行ったね、と振り返って言い合えるような思い出が無いことは、しかしおれたちの関係を損なうものでもない。おれたちにとって、恋人として過ごす時間はどこまでもアイドルとして生きる日常の間隙を縫うようなもので、そんな中で積み重ねるささやかな幸せこそが宝物で。普通の人たちと同じように、なんて高望みが叶わないことも、十二分に理解している。
ぼーっと海の中の景色を眺めたあと、そういえばとやるべきことを思い出し、こんこんと眠り続ける阿部ちゃんを横目に見ながらタンスへ向かった。
昨日と同じく順番に引き出しを開けて中を確認していくが、見たところ特に変わったことは無く、タンスの中身が増減している様子も無い。
そういえば、と、昨日見つけたカードを服のポケットから取り出す。
『見ているぞ』
『見られたくないことがあるの?』
これも謎解きのヒントになるとしたら、おれたちを見ている誰かがいるということだ。
改めて部屋じゅう隅から隅まで見渡してみるが、監視カメラのようなものは見当たらず、それがかえって不気味だった。誰がどこから見ているのかはわからない、けれど見られていることは確かだと思うと、居心地が悪い。アイドルという立場上、不特定多数の人間の目にさらされることには慣れているが、それとは違う性質のストレスを感じる。
グループやメンバーが注目され、名前が売れるのはとてもありがたいものの、当然の帰結として週刊誌やパパラッチ、時には行きすぎたファンにまで追いかけられ、家の外で気を抜ける瞬間はほとんど無い。仕事で一緒になるスタッフの人たちだってどんな人がいるかわからないから、本当に肩の力を抜けるのはメンバーやマネージャーの前だけだ。
そんな彼らでも、恋人として阿部ちゃんにだけ見せるおれの姿は知らないだろう。そして阿部ちゃんがおれにだけ見せてくれる姿も。そういう意味で、おれが心底すべてをさらけ出せるのは阿部ちゃんの前でだけかもしれない。格好いいと思われたい気持ちも、情けない姿を許してほしい気持ちも。どれだけ甘ったれようがスカしていようがみっともなかろうが、阿部ちゃんは全部受け入れてくれるし、おれ自身も阿部ちゃんになら見せてしまっていいのだと思える。だからおれも、どんな阿部ちゃんだって愛せるし、愛したい。
というわけで、見られたくないことがあるかと聞かれたときの答えは、阿部ちゃんにしか見せないおれの顔、おれにしか見せない阿部ちゃんの顔だ。そんなの他の誰にも見せるものか。
ひとり納得して頷き、カードを再びポケットにしまう。残るはバスルームだ。
バスルームも昨日から何も変わっていない。床や壁からバスタブまで一面磨き上げられた室内には一点のしみも無く、真っ白なタオルが整然と積み重ねられている。
と、その中に何かを見つけて手を伸ばした。ふかふかのタオル生地の間から出てきたのは、一冊の本だった。薄めの本で表紙には『日本の伝統的な遊び』というタイトルが記されている。パラパラとページをめくってみると、中身は少しだけ古い言葉で書かれていて、タイトルどおり日本の伝統的な遊びについての本のようだ。
あるページに栞が挟まれていたので、そこを開いてみた。
塩化コバルトの薄い水溶液で白紙に文字や絵を書いておき、その紙を火にあぶって文字などを現す遊び。
江戸時代中期に大人の酒席の遊びとして生まれたが、やがて辻占や神社のおみくじに利用され、さらに大人の手から移行して子供の遊び道具となった。
江戸時代はおもにみょうばんを用い、「礬書文字」と書いて「あぶりだし」と読ませた。
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三文小説
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酒も用いたが、これは日本で案出したものという。
1830 年刊の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(喜多村信節著)に「酒もて物を書き火にあぶる異国の方よりも簡易なり」とあり、酒で紙に書いた隠し文字に各人が銭を賭け、火にあぶって出た文字を当てた者が賭け銭をとる遊びが当時流行したことを示している。
いわゆる炙り出しについて書かれたページだ。
そういえばちっちゃい頃にミカンの汁でやったことあるな、なんてことを思い出す。ここに栞が挟んであったということは、きっと何かのヒントなのだろう。手がかりに繋がる記載がないか、ゆっくりと文字列を追っていく。白紙。火に炙る。みょうばん。酒。
「……あっ!」
思わず大きめの声が出た。
そういえば、今朝ベッドで見つけたメッセージカードからお酒のにおいがしていなかったか?
急いでポケットからそれを取り出して鼻に近づけると、まだほんのかすかにアルコール臭が残っていた。ということは、この不自然に空いた空白のところを炙れば何かが出てくるかもしれない。
キッチンへ駆け込み、コンロに火をつけてその上にカードをかざす。すると予想したとおり、空白の部分に炙り出された文字が浮かび上がってきた。
『ここは君の愛する人形の箱庭』
ほんの少し浮足立っていた心が、すうっと冷えて沈んでいく。
何度読み返しても、目をこらしても、その絶望的な文字列はぶれることなくただ一つの意味をおれに突きつける。
――阿部ちゃんは、人形だ。
これまで感じてきた違和感や疑問の答え合わせはそれで解決する、けれどおれが本当に欲しい答えは見つからない。
じゃあ、どうすればいいんだ?
人形になってしまった阿部ちゃんを、元に戻す方法は無いのか?
炙ったカードを手にぐるぐる考えながらキッチンを出ると、ぐっすり眠っていたはずの阿部ちゃんがいつの間にか目を覚ましていて、寝ぼけ眼をこちらに向けた。
「阿部ちゃん。ごめん、起こしちゃった?」
「……蓮」
とろんとした声でおれを呼びながら、阿部ちゃんが手を伸ばしてくる。それを握ってやるとくい、と小さく引かれて、おれは乞われるまま彼の隣に寝転んだ。柔らかい石鹸の香りに包まれながら、阿部ちゃんと向かい合って横になる。
「ねえ、蓮」
「うん?」
「ここは夜も昼もないんだね」
「……そうみたいだね」
阿部ちゃんの言葉に少し考えて頷く。太陽の光が届かない海の中、普段ならそれなりに働くはずの体内時計も機能せず、時間の感覚はすっかり失われている。
時間が止まっているかのような、あるいは時間という概念そのものが無くなったような。
「こんなところにいるけど、蓮が側にいてくれれば怖くないよ」
そう言いながら、阿部ちゃんはそっと俺を抱き寄せる。その手はほのかに温かく、春のような色をしていた。
窓ガラスの無い窓の外から、穏やかな海の音がする。
目の前の阿部ちゃんが、少し恥ずかしそうに笑いながらおれを見つめる。
「俺、なんだか今、すごく幸せなんだ」
そう言って微笑む彼の頬は、柔らかく色づいていた。
阿部ちゃんの言葉を聞いているうちに、おれの瞼は重たくなっていく。幸せだと言う彼におれも返したいのに、口を開くこともままならないほどの眠気が襲い来た、そのせいだろうか。
あたたかくて、優しくて、人形だったはずの阿部ちゃんが人間に見えてきて。
――この部屋にずっといれば、きっと阿部ちゃんはもう傷つかない。
どこからともなくそんな考えが浮かんできて、徐々に眠りに引き込まれていくおれの脳裏に貼り付いた。
目と鼻の先で、阿部ちゃんもゆっくりとまどろんでいくのが見える。心の底から安心しきっているようないとけない顔に、おれもつられて意識を手放した。
そうしてまた、昨日と同じ、幸福な眠りに落ちていく。
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