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「うぇっ!? ナオミさん……」
ビシッと背筋を凍らせる湊を他所に、ナオミは手元でグラスを拭いたまま、長い睫毛の奥にある琥珀色の瞳を、すっと穂乃果の方へと向けた。
その瞳が、一瞬だけ、昨夜のあの『飢えた獣』のように妖しくギラリと光った気がして、穂乃果はひっと息を呑む。
「大体、アタシ。そんなに顔に出てたかしら? いつもと変わらないと思うんだけど……やぁねぇ」
ナオミはふっと上品に息を漏らし、困ったように首を傾げてみせる。その完璧な「ママ」の演技に、湊はなおも恐る恐る口を開いた。
「顔って言うより、態度ですかね? なんかいつもより優しいし、さっきバックヤードで鼻歌なんか歌っちゃってさぁ」
「……はなうた?」
ナオミの手が、ぴたりと止まった。一瞬だけ、その美しい顔が「しまったわ」と言わんばかりに微かに引きつったのを、穂乃果は見逃さなかった。あのクールなナオミが、まさか裏で鼻歌を歌うほど浮かれていたなんて。
(そ、そうなんだ……)
ナオミの意外すぎる一面を知ると同時に、穂乃果の胸の奥に、じわじわと温かい熱が広がっていく。
もしも、彼女がそこまで上機嫌な理由が、昨夜の自分との時間だとしたら。あの熱い抱擁や、何度も名前を呼ばれたあの瞬間のせいだとしたら――それは、少し、いや、ものすごく嬉しいような気もする。
(って! 何喜んでるの、私っ!!)
慌てて脳内で自分自身に激しいツッコミを入れる。
相手は女性(ということになっているの)だし、昨夜のことは、一夜の過ちだと思っている。ただそれだけで、深い意味なんて――。
アワアワと必死に言い訳を探そうとするが、掌から伝わるカクテルグラスの冷たさとは裏腹に、穂乃果の顔の火照りはどんどん増していくばかりだった。
「……湊」
沈黙を破ったナオミの声が、いつもよりほんの少しだけ低く響く。
「な、なんですか……?」
「お喋りが過ぎる口には、チャックが必要かしら? それとも、今日のまかないを激辛デスソース仕様にしてあげようか?」
「ひえっ! すみません、僕、ちょっと氷作ってきますっ!」
ナオミの笑顔のプレッシャーに耐えかねた湊は、一目散に店の奥へと逃げていった。カウンターに取り残された穂乃果は、気まずさに耐えかねて、手元にあるほんのりと琥珀色をしたカクテルをちびちびと啜る。
湊がいなくなったのを見届けると、ナオミは小さくため息をつき、カウンターに両肘をついて、穂乃果の顔を覗き込んできた。
「……まったく、勘が鋭いのも考え物ね……」
少しだけ声音を落としたナオミの地声に近い、低くて甘いテノール。
その響きが、まるで鼓膜から直接脳を痺れさせるように届き、穂乃果はビクッと肩を揺らした。
「ほんっと、アンタって顔に出やすいのね。そんなんでよく29年も生きて来れたわねぇ……。あぁ、顔に出やすいからクズに狙われるのよ」
「……っ」
胸の奥を、一番気にしている言葉で容赦なく突き刺され、穂乃果は息を詰まらせた。
直樹の裏切り。里奈の欺瞞。自分がピュアで、従順で、何をされても怒らない都合のいい女に見えていたからこそ、あの二人は自分を舐めきっていたのだ。ナオミの指摘はあまりにも正確で、痛くて、反論の言葉すら見つからない。
うつむき、惨めさに涙がこぼれそうになった、その時。
「でも、だめよ。アタシ以外にそんな顔見せちゃ……。女はもっとしたたかに生きないと」
冷たいはずの長い指先が、穂乃果の顎に触れた。
くいっと、抗う隙も与えず上を向かされ、強制的に視線が絡み合う。
長い睫毛の奥にある琥珀色の瞳が、カウンターの薄暗い照明を浴びて、妖しく、けれど途方もない包容力を持って穂乃果を射抜いていた。
「ねぇ、穂乃果……。貴方がいま飲んでるカクテル、なんだかわかる?」
「カクテル、ですか? うーん……」
透明な液体が、細い脚のカクテルグラスの中で静かに光を抱いていた。
氷はない。琥珀色の間接照明を透かしたそれは、水晶のように澄んでいるのに、どこか危うい熱を秘めて見える。
ナオミの長い指が、グラスの脚を優雅につまみ、穂乃果の唇へと近づけた。
「――XYZよ」
近づけられた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めた。
柑橘の爽やかさの奥に潜む、ラムの濃密な甘さ。
促されるままに一口含めば、最初に感じるのはレモンの軽やかな酸味。けれどそのすぐあとから、強いアルコールが舌の上にゆっくりと熱を広げていく。
「へぇ、変わった名前ですね」
カクテルの心地よい刺激に微かに眉をひそめながら言うと、ナオミは美しく目を細めて、妖しく微笑んだ。
「そうね。……強いお酒ほど、甘く飲めたりするものよ」
「……へぇ」
「カクテル言葉は――自分で調べてみなさい」
そう言ってナオミは顎から手を離し、悪戯が成功した少年のようにクスクスと笑った。
残された穂乃果の唇には、酸味と、甘みと、そしてじわじわと身体を蝕んでいくような熱いアルコールの余韻だけが残る。
(XYZ……。どういう意味なんだろう……)
スマホを取り出して調べようかと思ったが、目の前で優雅にボトルを片付けるナオミの視線が気になって、どうしてもポケットから手が出せない。
身体の芯に広がるこの熱は、カクテルのせいなのか、それとも耳元に残る彼のテノールのせいなのか。穂乃果はそれ以上何も言えなくなり、ただその琥珀色の液体を、静かに飲み干すことしかできなかった。
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#NL
瀬名 紫陽花
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