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第282話 高瀬直人
【異世界・王国警備局/南棟・帰還準備室/翌朝】
昨夜破壊された外周結界は、夜明け前には修復を終えていた。
ただ元へ戻しただけではない。
ダミエを中心とする結界部隊が外周を二重化し、
さらに鍵の反応を外から探られにくくする薄い遮断膜を南棟全体へ重ねている。
ジャバたちが再び来る可能性は高い。
だからこそ、帰還そのものを止めるわけにはいかなかった。
帰還準備室の中央に立つ高瀬直人は、床へ描かれた術式を黙って見下ろしていた。
昨日まで空だった部屋には、円形の帰還陣と、その周囲を囲む複数の結界杭が設置されている。
中央にはハレル、その左側にアデル、右側にはリオの立ち位置が決められ、少し離れた場所ではダミエが外周結界を担当する。
壁際にはサキとイデール、それに数名の治療班が待機していた。
高瀬がゆっくり顔を上げる。
「……本当に、帰れるんですか」
ハレルは少し考えてから答えた。
「絶対とは言えません」
高瀬の表情がわずかに強張る。
「でも、昨日までより条件は揃ってます。名前も分かった。あなた自身も帰りたいって言った。現実側にも受け入れる場所を作ってる」
「もし、途中で失敗したら?」
「危ない状態なら始めない。始めたあとも、無理だと分かった時点で止める」
ハレルは高瀬を真っ直ぐ見た。
「無理やり向こうへ押し出すことはしません」
高瀬はしばらく黙っていた。
それから小さく息を吸い、もう一度、帰還陣へ目を落とした。
「……俺は帰りたいです」
ハレルが頷く。
「分かりました」
その言葉を聞いたアデルがイヤーカフへ触れる。
「ノノ。最終確認を始める」
『うん。現実側も繋ぐよ』
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/臨時帰還受入室】
白い床の中央に、異世界側とほぼ同じ形の観測陣が描かれていた。
城ヶ峰、木崎、日下部。
さらに医療スタッフが二名。
全員が円の外側で待機している。
帰還直後に誰かが高瀬へ触れれば、座標固定を乱す可能性がある。
そのため、本人が完全に現実側へ定着したと確認されるまでは近づかないことになっていた。
日下部が端末を見る。
《異世界側接続・待機》
《主鍵反応・確認》
《副鍵A・正常》
《副鍵B・出力制限》
《受入座標・固定》
木崎が画面を覗く。
「リオの鍵、大丈夫なのか」
『今のところ数値は安定してる』
ノノの声が通信機器から返る。
『でも、帰還開始後は一秒ごとに見る。少しでも右側の負荷が上がったら出力を落とす』
城ヶ峰が聞いた。
「高瀬本人の状態は?」
『安定してる。本人の意思も、今もう一度確認した』
「了解」
城ヶ峰は床の円を見る。
七年前や十一年前の偶発転移とは違う。
クロスワールドゲートによる強制的な移動とも違う。
今から行うのは
本人の名前を確認し、今の居場所を確かめ、本人自身に行き先を選ばせた上で行う帰還だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王国警備局/帰還準備室】
ノノの表示が一つずつ切り替わる。
《高瀬直人》
《本人確認・完了》
《現在位置・異世界/王都イルダ》
《出身・現実世界》
《現実側受入座標・固定》
《本人意思・帰還》
最後に。
《希望する帰る場所・現実世界/自宅》
ノノが言った。
『安全のため、最初に出る場所はオルタリンクタワーの受入室になるよ。そこから家へ帰ることになる』
高瀬が頷く。
「分かっています」
『それでも、帰る?』
一瞬の迷いもなかった。
「帰ります」
その言葉が入力される。
《最終意思確認・帰還》
ハレルの胸元で主鍵が淡く光った。
アデルの左腕の副鍵が、それに呼応する。
続いて。
リオの右手首。
亀裂の入った副鍵にも、弱い光が走った。
ただし以前のような強い発光ではない。
生きている経路だけを使い、主鍵とアデル側の副鍵の反応を支える程度に抑えている。
『リオ、今の出力から上げないで』
ノノが言う。
「分かってる」
『アデルはそのまま。ダミエ、外周お願い』
「やってる」
ダミエの両手から薄い白膜が広がり、帰還陣全体を包んだ。
サキのスマートフォンの中では、reが静かに光っている。
白い点から一本の線が伸び、帰還陣の中央を通って、まだ何もない空間へ向かった。
その線に重なるように、エリウスの案内層から文字が浮かぶ。
《接続可能》
続いて。
《安全域・狭》
ノノがすぐ反応する。
『まだ開けないで。安全域が狭い』
「分かった」
アデルがハレルを見る。
「待つぞ」
「うん」
誰も急がない。
その時だった。
エリウスの案内層を示す白い線が、帰還陣とは別の方向へわずかに膨らんだ。
ノノが画面を見る。
『……来る』
「何が?」
サキが尋ねた直後、白い光が人の輪郭を作った。
粒子のような光が集まり、ゆっくりと少女の姿へ変わっていく。
ハレルが目を見開いた。
「セラ」
久しぶりに姿を現したセラは、少し疲れたように目を細めた。
「戻りました」
サキが駆け寄る。
「どこにいたの? ずっと見なかったから……」
「エリウスの案内層の中です」
セラは帰還陣の中央を見た。
「高瀬さんたちを帰す前に、一度、中から道を確かめておく必要がありました」
ハレルが聞く。
「中から?」
「はい。外から見えるのは、入口と出口、それから途中の反応だけです。
でも実際に人が通る場所には、それだけでは分からない歪みが残っています」
セラが白い線へ指先を向ける。
そこにいくつかの小さな点が浮かんだ。
「第三保留層のような場所へ途中で引かれないか。
カシウスたちが作った古い経路が残っていないか。
そして、現実側の受入地点まで一本の道として続いているか……それを調べていました」
ノノが補足する。
『セラが案内層に入ったのは、みんなを帰還保護区画へ集め始めた頃からだよ』
ハレルはようやく理解した。
「だから、この数日ずっといなかったんだ」
セラが頷く。
「案内層の深いところへ入ると、こちらとの通信がほとんど届きません。
途中で出入りすると経路の状態まで変わる可能性があったので、確認が終わるまで戻らない方が安全でした」
リオが右手首を見る。
「俺の副鍵が壊れてることも調べてたのか」
「はい」
セラの表情が少し硬くなる。
「以前と同じ出力では通せません。
でも、主鍵とアデルの副鍵を中心にして、リオの副鍵を補助だけに使う形なら、案内層そのものは崩れません」
アデルが聞く。
「敵側の経路は?」
「今使おうとしている道にはありません」
セラは一度言葉を切った。
「ただし、外から新しく割り込まれれば別です。昨日ジャバたちが来た以上、帰還中も警戒は必要です」
ハレルが頷く。
「分かった」
セラはサキのスマートフォンへ視線を落とした。
reも、画面の中で白く光っている。
「reが外から道を確認してくれます。私は案内層の内側を見ます」
役割が分かれた。
外から安全な方向を示すre。
内側から経路の歪みを確かめるセラ。
そして、その両方を支えるエリウスの案内層。
ノノが表示を確認する。
『じゃあ、もう一回安全域を見るよ』
数秒。
主鍵と二つの副鍵、現実側の受入座標、ダミエの結界が少しずつ同じ波形へ近づいていく。
やがて。
《安全域・安定》
表示が変わった。
セラも目を閉じ、案内層の反応を確かめてから頷く。
「こちらも大丈夫です。途中に閉じた層はありません」
ノノが息を吸う。
『……始めるよ』
◆ ◆ ◆
ハレルは主鍵へ手を添えた。
引き抜くわけでも、強く握るわけでもない。
ただ、自分がここにいることを確かめるように指を置く。
主鍵から淡い光が広がった。
床の帰還陣へ流れ込み、アデルの副鍵へ届く。
そこから結界の外周へ。
そして最後に、リオの副鍵の生きている経路へごく弱い光が流れた。
『同期、二十二……三十一……四十七……』
ノノの声。
部屋の空気が変わる。
壁も床もそのままなのに、音だけがわずかに遠くなる。
ハレルの耳には自分の呼吸と、高瀬の浅い息遣いだけが妙にはっきり聞こえていた。
『五十八……六十六……』
中央の空間が揺らぐ。
光ではない。
透明な膜の向こうへ、別の景色が重なり始める。
白い床。
金属製の壁。
現実世界。
オルタリンクタワーの受入室。
高瀬が息を呑んだ。
「……日本……?」
向こう側はまだ薄く、城ヶ峰たちの姿もぼやけている。
だが、間違いなく現実世界だった。
高瀬が一歩、前へ出ようとする。
「待って」
ハレルが止めた。
「まだ」
高瀬の足が止まる。
『七十四……八十一……』
その時。
リオの右手首が熱を持った。
「っ……」
リオの眉が寄る。
アデルがすぐ横を見る。
「リオ?」
「少し熱いだけだ」
『待って、出力上がってる!』
ノノが即座に反応する。
『リオは下げて! アデル側へ三パーセント回す!』
「分かった」
リオが魔力を絞り、アデルがその分を受ける。
左腕の副鍵の光が少し強くなる。
アデルは身体を揺らさず、呼吸を整えたまま固定を続ける。
「こっちは大丈夫だ」
ダミエも結界の一部を組み替える。
「右、軽くする」
白膜の流れが変わり、リオ側に集まっていた負荷が外周へ散った。
ノノが数値を追う。
『……戻った。リオ、今のまま』
リオが短く息を吐く。
「大丈夫だ。続けろ」
ハレルが心配そうに見る。
「本当に?」
「これくらいなら平気だ」
アデルもリオの腕輪を確認したあと、ハレルへ視線を戻した。
「ノノの数値を信じろ。今は高瀬に集中する」
「分かった」
同期が再び上がる。
『八十八……九十三……』
二つの世界を隔てていた膜が、少しずつ薄くなっていった。
◆ ◆ ◆
サキのスマートフォンでは、reの白い線が真っ直ぐ伸びていた。
一度も揺れない。
同時に、帰還陣の横ではセラが目を閉じ、案内層の内部を追っている。
「途中層、反応なし。現実側まで繋がっています」
エリウスの案内層にも表示が浮かぶ。
《安全》
その表示を確認したノノが言った。
『通せる』
アデルが高瀬を見る。
「高瀬直人」
高瀬が顔を上げる。
「最後に一度だけ聞く」
アデルの声は静かだった。
「今も帰りたいか」
高瀬は。
向こう側に見える現実世界を見つめた。
そこに自宅はない。
家族もいない。
だが、あの世界へ戻れば。
自分でそこまで帰れる。
長い間、何度も。
「帰らなければならない」と繰り返してきた。
あの頃とは違う。
今は誰かに言わされているのではない。
高瀬自身が答えた。
「帰りたい」
ハレルが微かに笑う。
「じゃあ、行こう」
高瀬が一歩踏み出した。
帰還陣の中央。
白い線の上へ足を置く。
何かに引っ張られることはなかった。
身体が勝手に動くこともない。
高瀬は。
自分の足で。
もう一歩進んだ。
境界へ。
◆ ◆ ◆
身体の半分が光の膜へ触れた瞬間、高瀬の姿が大きく揺らいだ。
『座標移行開始!』
ノノの声が響く。
現実側。
日下部の表示も急激に変わる。
《物質反応・検出》
《人体構成・一致》
《意識反応・維持》
高瀬の身体が
二つの世界へ一瞬だけ重なった。
異世界では輪郭が薄くなり
現実では、何もなかった帰還陣の中央に、人の形が少しずつ現れる。
『四十パーセント……五十五……』
現実側の床へ。
高瀬の右足が触れた。
その瞬間。
異世界側でリオの副鍵が震えた。
「リオ!」
ハレルが振り向く。
「触るな!」
アデルが即座に止める。
右側の亀裂から淡い光が漏れたが、切れている経路へは流れ込んでいない。
『大丈夫!』
ノノの声。
『損傷経路じゃない。残ってる方が一瞬跳ねただけ! そのまま!』
リオは腕輪へ手を伸ばしかけた指を止める。
「分かった」
高瀬の身体が、さらに現実へ移る。
七十。
八十三。
九十一。
境界の膜が激しく揺れた。
ダミエが両手へ力を込める。
「出口、ずれる」
アデルが聞く。
「持つか?」
「持たせる」
白膜の一部が折れ、ずれかけた帰還口を左右から挟み込む。
アデルの副鍵がそれに合わせて強く光り、ハレルの主鍵から伸びる線が中心を貫いた。
reの白線は
まだ真っ直ぐだった。
『九十七……九十九……』
あと少し。
ハレルは息を止める。
そして。
『――百!』
高瀬の姿が。
異世界から消えた。
セラがすぐに案内層を確認する。
「残留反応なし。途中にも残っていません」
それを聞いて初めて、ハレルは止めていた息を吐いた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/臨時帰還受入室】
光が弾けた。
中央に
一人の男が立っている。
数秒。
誰も動かなかった。
高瀬本人も自分がどこにいるのか理解できないように、周囲を見回している。
白い壁。
照明。
端末。
窓の向こうには、現実世界の街。
車。
遠くの高層ビル。
日下部が端末を見る。
《転移反応・終了》
《身体固定・完了》
《意識反応・正常》
《異世界側残留反応・なし》
「固定完了!」
その声と同時に医療スタッフが動く。
城ヶ峰も高瀬へ近づいた。
「高瀬さん。聞こえますか」
高瀬はしばらく答えなかった。
窓の向こうを見ている。
それからゆっくり自分の両手を見た。
床を踏む。
靴の裏から伝わる硬さを確かめるように、もう一度足を動かした。
「……日本……」
掠れた声だった。
城ヶ峰が頷く。
「はい」
高瀬の目が潤む。
「ここ……本当に……」
「現実世界です」
高瀬は口元を押さえた。
笑っているのか。
泣いているのか。
自分でも分からないような顔だった。
やがて小さく。
「……帰ってきた」
その言葉が。
異世界側にも届いた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王国警備局/帰還準備室】
誰もすぐには声を出さなかった。
帰還陣の中央。
そこにはもう高瀬はいない。
だが消えたのではない。
現実側から。
生命反応が届いている。
《高瀬直人》
《現実世界・帰還完了》
《身体・正常》
《意識・正常》
《本人確認・完了》
サキが両手でスマートフォンを握った。
「帰れた……」
ハレルもしばらく表示を見たままだった。
「……うん」
胸の奥にあった何かが少しだけ軽くなる。
アデルはすぐに気持ちを切り替えた。
「鍵を確認する」
『もう見てる』
ノノが三つの反応を並べる。
ハレルの主鍵。
異常なし。
アデルの副鍵。
異常なし。
そして。
リオ。
数秒。
全員が待つ。
『……大丈夫』
ノノの声が少しだけ明るくなった。
『亀裂の拡大なし。死んでる右側経路もそのまま。他の経路の負荷は下がってる』
リオが腕を上げ、自分の副鍵を見る。
「悪化してない?」
ハレルが聞く。
「ああ」
アデルも確認する。
「一回は成功した」
「うん」
ハレルが答える。
だが、アデルはすぐ続けた。
「一回成功したからといって、次も同じとは限らない」
「分かってる」
「一度全部閉じる。鍵も結界も確認してからだ」
「うん。それでいこう」
ダミエがすでに帰還陣の外側から術式を解除し始めている。
一人帰した。
だから全部閉じる。
確認する。
それから次。
匠が言った通りだ。
◆ ◆ ◆
その時。
現実側の日下部から、新しい通信が入った。
『ハレル君』
「どうした?」
『高瀬さんはこのまま検査に入ります。今のところ問題ありません』
ハレルの肩から力が抜ける。
「よかった」
『それと、もう一つ』
日下部が少し間を置く。
『リーネ・アストさんが目を覚ましました』
アデルとイデールが同時に顔を上げた。
『さっき、城ヶ峰さんが本人へ確認しました』
イデールが通信へ近づく。
「何を?」
日下部の声。
『どこへ行きたいか、です』
部屋が静かになる。
現実世界で保護されているリーネ。
七年前。
偶発的に現実へ飛ばされ。
その後、第三保留層へ閉じ込められた女性。
彼女が自分で答えた。
『王都へ帰りたいそうです』
イデールが目を閉じる。
ほんの少しだけ笑った。
「そっか~」
高瀬直人は現実へ帰った。
そして次は、逆の方向へ
帰りたい人がいる。
二つの世界を結ぶ帰還は。
ここから初めて。
本当の意味で。
双方向へ動き始める。
#りもこん
しゅーくりーむ
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みぅです🥀 第282話、読み終わりました。 高瀬さんの「帰りたい」って言葉、本当に重みがあって。自分で選んで、自分の足で踏み出した一歩が、やっと現実に届いたんだなって思うと、胸がじんわり熱くなりました。 セラが案内層の中であれだけの準備をしてくれてたこと、リオの副鍵を気にしながらも進めたこと、みんながそれぞれの役割を全うしたからこそ成功した帰還だったんだなって。 「帰ってきた」って、たった一言なのに、この一言に全部が詰まってる気がしました。 次はリーネさんが「王都へ帰りたい」って言った方向への帰還、ですね。ちゃんと読みます。