テラーノベル
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槙野のその言葉を片倉は繰り返す。
美冬はあわてて口を開いた。
「確かに条件かもしれません。お互い条件的なものが合ったのは間違いないです。時間がなくて恋人を作る時間もないねー、とか」
「だから試しに付き合ってみようか? ではなくて一足飛びに婚約者になっていたわけ? 槙野が祐輔と呼ばせて、これ見よがしに指輪をつけさせて?」
すうっと眼鏡の奥の瞳が細められて空気が冷えたような気がした。
美冬は震えあがりそうだったのだが、隣の槙野からは深いため息が聞こえてきた。
「そうだよ。条件が合ったのも間違いはないが、俺は美冬に名前を呼ばせたいし、悪い虫をつけたくはないから速攻で指輪をつけさせた。それにこんなに面白くて、気も合って尊敬もできる相手はなかなかいない」
「えー? 祐輔、尊敬してくれてるの?」
美冬が首を傾げると槙野から即座に答えが返ってきた。
「してない」
「尊敬できるって今、言ったじゃない」
「気のせいだ」
絶対気のせいなんかじゃないんだけど。
「とても仲がよろしいのね」
くすくすっと品の良い笑い声。
鈴を転がしたような声という表現があるけれども、まさにその表現にぴったりな声は、片倉の隣に座っている女性から聞こえたものだ。
片倉は眉を寄せて苦笑して、美冬に彼女を紹介してくれた。
「僕の妻です」
「片倉浅緋と申します」
浅緋が綺麗な仕草で頭を下げるのを、一瞬見とれそうになった美冬も慌てて頭を下げる。
「椿美冬と申します」
「美冬さん、とても素敵なお名前ね」
ふんわりしていて一緒にいて和むような人だ。
けれど美冬は気づいてしまった。そんな浅緋を槙野がとても優しい目で見ていることを。
(祐輔……?)
美冬はずっと槙野の好みのタイプはナイスバディの美女なんだろうと思っていた。
だってそんな人が槙野の隣にいたらきっととてもお似合いだ。
けれど、槙野は美冬を『好みじゃない』と言ったのだ。
もしもそれが、浅緋のようなタイプだったのだとしたら……。
確かに私みたいのは好みじゃないわ。
妙に納得してしまった。
それに多分こんな素敵な女性になんて、勝てる訳がない。
紅茶を飲むひとつひとつの仕草がエレガントで、隣にいる片倉に時折話しかけ囁く時さえ可憐で、目が合うと美冬にもにこりと微笑んでくれる。
──素敵すぎる。
「まあ確かに、槙野がそこまで言う相手も珍しいね」
片倉がそう口を開いて美冬はハッとした。
つい浅緋に見とれてしまっていたけれど、この場には槙野の上司である片倉もいるのだ。
「条件、と言うけれど恋愛にしろ婚姻にしろ意識無意識は別にしてどこかで条件には当てはめているものだ。二人が冷静にそれを見極めているのであれば僕は逆に素晴らしいことなんじゃないかと思うがね」
意識無意識は別にして……。
「それってどういうことですか?」
そう尋ねた美冬を片倉は面白そうな顔で見返す。
「例えば、合コンのようなものがあったとしよう。美冬さんはどういう人を連れてきてほしいですか?」
「特にこれと言って希望は伝えません」
「どうして?」
「好みは? と聞かれても特にないから」
はあ!? と文句を言いかけた槙野を片倉は制する。
「じゃあ、あの人が来たらどうだろうか?」
あの人、とそっと片倉が指を差した人はなかなかお年を召したご老人だった。
美冬は困ってうろたえる。
年齢的にも自分とは釣り合わないような気がするが、片倉が何を言いたいのかが分からない。
「それは……。あの、良い方かもしれませんけど、私よりももっとお似合いな素敵な方がいらっしゃるかと」
そうして見ていた目線の先で、ご老人はロビーに来た老婦人と一緒にどこかに行った。
「今のだって誰でもいい、というわけではない。無意識に選別しているんですよ。年齢、もっと細かく言えば、身長、顔の好み、仕草や接点があればその人が発する言葉なんかもね。だから槙野にとっても、美冬さんにとっても誰でもよかったわけではないお互いが良かった理由があるはずですよ」
片倉の穏やかな声は美冬の心にもすうっと染み込んだ。
「槙野がそういう選択をしたのは意外だけれど、この上もなく槙野らしいとも思う。心からお祝いするよ」
「ありがとう」
槙野はまっすぐに片倉を見つめ返しそう伝えたのだった。
──誰でも良かったわけではないお互いが良かった理由。
そんなものはないと美冬は思っていたけれど、違うのだろうか。
美冬が槙野を見ると、槙野も美冬を見ていたので思わず美冬は顔を伏せてしまった。
槙野の顔が思いのほか真剣だったから。
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