テラーノベル
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あや
ようやく注文を済ませ、椅子に腰かけられたのは、並び始めてから30分ほど経った頃。
それでも、穂乃果の心に焦りや疲れは微塵もなかった。
直樹といた時は、わずか五分待たせただけで舌打ちをされ、食事中も彼の機嫌を伺うことばかりに必死だった。
けれど今は、ナオミと一緒にいるのがただ純粋に楽しくて、行列に並んでいる時間さえも苦にならない。むしろ、そんな他愛もない会話のひとときさえ、ずっと続いてほしいと願ってしまうほどだった。
「お待たせいたしました。こちら、ベリーのタルトとショコラテリーヌです」
しばらくして運ばれてきたスイーツは、宝石のように艶やかだった。
ナオミは手際よくフォークを手に取ると、約束通り自分のテリーヌを一口分切り分け、穂乃果の小皿へと移した。
「ほら、食べてみて。ここのテリーヌ、濃厚で美味しいのよ」
「……ありがとうございます。じゃあ、私も」
穂乃果も震える手でタルトを切り分け、ナオミの皿へ。
その一連のやり取りが新鮮で、胸の奥がくすぐったいような、不思議な高揚感に包まれる。
誰かと一つのものを分け合い、「美味しいね」と笑い合う。
そんな、友人や恋人同士なら当たり前の光景が、これまでの穂乃果にとっては、どれほど遠い憧れだったことか。直樹との食事は、常に彼の「正解」に合わせるだけの、味のしない作業でしかなかったから。
「……ん、本当に……濃厚。口の中で溶けちゃいますね」
「あら、良い顔。そんなに喜んでもらえると、アタシまで嬉しくなるわね」
ナオミは自分の分を一口啜ると、満足そうに目を細めた。
フォークを置いたその手が、ふとした拍子にテーブルの上で穂乃果の手の近くに置かれる。
美しく整えられた爪。けれど、それを支える指先は力強く、節の太さが、昨夜自分を抱き寄せた「男性」の質感を鮮明に思い出させる。
「……ねぇ、穂乃果。そんなに一生懸命食べなくても誰も取らないわよ。 それに、口の端にクリームついてる」
「えっ、嘘……っ」
慌ててナプキンを手に取ろうとした穂乃果の手を、ナオミの大きな手が優しく制した。そのまま、ナオミは身を乗り出すと、自身の親指で穂乃果の唇の端をそっとなぞる。
「……取れたわよ。ふふ、アンタって時々、子供みたいなことするのね」
「……っ」
ナオミの舌先が、自身の親指に付いた白いクリームを、ゆっくりと、けれど艶めかしく掬い上げる。
その仕草があまりにも自然で、それでいてひどく扇情的で。穂乃果は息をすることさえ忘れて、ただ呆然とナオミの唇を見つめることしかできなかった。
(意識的なのか、無意識なのか……。ナオミさんの行動は、時々、心臓に悪い)
昨夜、暗闇の中で自分の唇を奪った情熱的な「男」が、今は完璧な美女の姿で、目の前で微笑んでいる。けれど、その指先から伝わった骨の硬さや、クリームを舐め取った時の獲物を狙うような視線は、隠しきれない危うい色気を孕んでいるような気がする。
「ふふ。……そんなに固まらないで。アンタがあまりに美味しそうに食べるから、アタシまでそのクリーム、味見したくなっちゃっただけよ」
ナオミは悪戯っぽくウィンクをしてみせると、何事もなかったかのように再びコーヒーカップに手を伸ばした。
けれど、穂乃果の唇には、ナオミの親指が触れた時の微かな痺れと熱が、いつまでも消えずに残っている。
周囲の話し声やコーヒーマシンの音。そんな日常のノイズが、今の穂乃果には遠い世界の出来事のように感じられた。
直樹に否定され、冷え切っていた自分の心が、ナオミという底知れない熱源によって、じわじわと、けれど確実に、形を変えて溶かされていく。
「……ナオミさん」
「なーに? 改まって」
震える声で呼びかけると、ナオミはカップを置き、優しく小首を傾げた。
聞きたいことは山ほどある。昨夜のことはどう思っているのか、自分たちの関係は何なのか。けれど、ナオミのこの柔らかな微笑みを前にすると、言葉は喉の奥で溶けて消えてしまう。
「……いえ。なんでも、ないです。……テリーヌ、本当に美味しいですね」
「そう。……よかったわ。アンタには、美味しいものだけ食べて、笑っててほしいもの」
ナオミのその言葉に、穂乃果は鼻の奥がツンとするのを感じた。
「笑っててほしい」
そんなシンプルな願いを向けてもらえることが、今の穂乃果にとって、何よりの救いだった。
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