寝室には、夜の静寂が滲んでいた。
月光が透けるカーテンの向こうで
桜の枝が静かに揺れ、淡く床を照らしている
その淡光に包まれ
時也は毛布をアリアの肩まで優しく掛けると
自身もベッドに身を沈めた。
隣に寄り添うようにして
細い彼女の肩へと身体を向け
静かに腕を差し出す。
アリアは、いつも通り
何も言わずにその腕に頭を預ける。
ただ、それだけの所作なのに
時也の胸に小さな幸福の火が灯る。
──しかし、次の瞬間。
ふわりと、アリアの両手が伸びた。
まるでガラスを包み込むように繊細な手が
時也の両耳を優しく覆う。
「そんなに⋯⋯その者の心の叫びは
お前に害を与えるのか⋯⋯?」
掠れるような、しかし確かに届く声。
僅かに深紅の瞳が、心配の翳りを帯びている
「アリアさん⋯⋯
ご心配をおかけして、すみません。
今回は、まだ心の準備ができていますし
耐え切ってみせますよ」
そう言いながら
時也は彼女の額に額を寄せようとした。
しかし──その時。
アリアの顔が、ほんのわずかに歪んだ。
眉間に皺が寄り
口元がきゅっと引き結ばれている。
その変化は微細だったが
彼女の〝感情の動き〟に敏感な時也にとって
それは〝緊急警報〟にも等しい。
「⋯⋯アリアさん?」
反射的に問い掛けるが、返事はない。
声も、心の声すらも──ない。
一切の反応を失った無言の中
アリアはただ、険しい表情を湛え続けている
(ま、まさか⋯⋯!?)
時也の思考は瞬時に迷宮へ突入する。
不死鳥が暴走した後遺症か?
それとも、さっき言った
〝耐え切る〟という
表現が良くなかったか?
ああ、いや──
入浴の際、湯の温度が気に食わなかった!?
もしかして⋯⋯もしかして──⋯
(黒薔薇の花言葉を
まだ気にしておいでなのでは⋯⋯!?)
(いや、いやいやまさか⋯⋯
もしかして、さっき
布団を温めもせずに
そのままお通ししてしまったから!?)
思考がぐるぐると暴走を始める。
脳内で鐘が鳴り、鼓膜が震え
意識が霞みそうになる。
その時だった。
──ぽろり、と。
アリアの頬を
静かに、一雫の〝涙〟が伝い落ちた。
「──────────っ!?」
それが宝石へと変わり、時也の腕を転がり
淡い光を宿してシーツへと滑り落ちる。
彼の心臓が、鼓動を止めた。
あまりの衝撃に
血流が一瞬で止まったかのように
全身が凍りつく。
「あ、あああ、アリ、ア、さん!?!?」
理性と動揺が喉で絡まり
言葉が引きつったまま噴き出した。
両手が空中で震え
着物の襟元を何度も掴んでは戻し
顔を上げたり伏せたりを繰り返す。
「⋯⋯出た」
低く、小さく、アリアが呟いた。
(な、な、何が⋯⋯!?)
〝出た〟という言葉の意味がわからない。
出たというのは
何か僕のさらなる〝失態〟が
出たということなのか!?
それとも──
アリアさんの怒りがついに
〝溢れ出た〟という意味なのか!?
「すみません!
すみません、アリアさん!!」
何が悪かったかもわからない。
だが謝るしかない。
だが
謝って、謝って
全てを赦してもらうしか──!
そう信じて頭を下げる。
しかし
アリアはまた顔を顰めた。
(えっ⋯⋯!?ま、まだ⋯⋯!?
まだお怒りなのですか!?!?)
動悸はすでに限界を超え、視界の端が滲む。
(い、今の謝罪の仕方が悪かったのか!?
目を逸らしてしまったから!?
言葉の重みが足りなかったからです!?)
答えは得られないまま
ただアリアの沈黙が続く。
その瞬間──
また、彼女の睫毛がわずかに震えた。
眉間に皺が寄り、瞳が静かに潤み
何かに耐えるように唇が微かに閉じる。
そして──
時間が掛かって、ようやく、
ぽろり。
二粒目の〝涙〟が落ちた。
(う、うわあああぁぁああ⋯⋯!?!?)
時也はもはや言葉にならない心の悲鳴を
内側で炸裂させていた。
二滴目の宝石が、シーツに音もなく転がる。
呼吸が苦しい。
肺が縮み、酸素が足りない。
──もうだめだ。
何をどうすれば赦されるのかもわからない。
「⋯⋯よし」
その時、唐突にアリアが呟いた。
顔の皺は解け
いつもの静かな無表情に戻ると
彼女は転がった二粒の宝石を摘み上げた。
「お前の耳に飾れ⋯⋯
少しは、心の叫びを防ぐかもしれん」
「⋯⋯へ?」
時也の全ての思考が──停止した。
十秒。
いや、それ以上の静寂が室内に漂った。
言葉の意味が、まったく、脳に届かない。
彼の中で、言葉の〝意味〟が形成されるには
あまりに多くの情報処理が必要だった。
耳飾り?
僕に?
この涙を──そのために?
ようやく、ようやく
脳内でパズルのピースが組み上がっていく。
時也の視線が
信じられないものを見るように
ぱちぱちと瞬き続ける。
──アリアは〝泣いていた〟のではない。
あの時間
あの険しい表情、沈黙、反応のなさ──
全ては。
〝自ら涙を出すための、時間だったのだ〟と
理解した瞬間──
時也の心は
またしても一瞬、鼓動を止めた。
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