アリアの掌の上に、それはあった。
透き通るように透明で
それでいて
どこか温かさを帯びた光を宿している
二粒の〝涙の宝石〟
まるで空の雫が
そのまま結晶化したかのように
儚くも純粋なそれは
静かに彼女の指先の間で揺れていた。
その光は──神秘だった。
この世に数多ある宝玉のなかでも
比類なき価値を持つその結晶は
アリアが涙を流すという奇跡によってしか
生まれない。
かつて、魔女狩りの只中で
嬲られる一族を前に零したそれが
どこからともなく流出し
今も闇市場では天文学的な額で
取引されている。
かつては
王がそのひと雫のために
領土を捨てたという逸話すら残る。
だが──
今、目の前にあるそれは
市場に出回ったどの宝石とも違う。
〝時也を護るために〟
アリアが、自らの意思で涙を流した。
そのためだけに
眉を寄せ、唇を結び
感情すら鈍くなった身体から
懸命に〝二滴〟の奇跡を搾り取った。
彼女の掌にあるそれは
まさしくその〝証〟だった。
「⋯⋯っっ」
時也の喉が震え、声にならぬ息が漏れる。
彼の胸に、何かが広がった。
熱く、眩しく、溢れて止まらないそれは
ただの感動ではなかった。
彼女に赦された、とか。
信頼された、とか。
そんな安っぽい言葉では──
到底、足りなかった。
身体中の神経が総立ちし、指先が震える。
骨の髄まで満ちる、この感情は──
(⋯⋯これは、命よりも、重い)
細胞の一つ一つが
心臓の一拍ごとに叫ぶ。
〝愛されている〟
そう──確かに、自分は。
彼女がその感情を削ってまで
己のために涙を流した。
誰に強いられた訳でもなく
ただ、時也のためだけに。
それを、想像した瞬間──
「⋯⋯ぁ、ああぁあっっ⋯⋯!」
思わず唇から、意味をなさぬ音がこぼれた。
鳶色の瞳が潤み、頬に滲んだ感情の熱が
彼を打ち震わせる。
苦しくて、どうしようもないのに。
でも、どうしてだろう──
「⋯⋯アリア、さん⋯⋯っ」
震える声で、その名を呼ぶ。
彼女は何も言わない。
ただ、彼の隣に静かに在る。
だが、その沈黙こそが
何よりも雄弁だった。
時也の中で、レイチェルのあの絶叫が蘇る。
二階から響いた、魂が爆ぜるような悲鳴。
(⋯⋯これが
レイチェルさんが仰っていた⋯⋯
〝魂の雄叫び〟)
(はい⋯⋯理解いたしました。
完全に、身を以て!!)
きっと、信仰の魔女の転生者の者も
何かに、誰かに、強く強く心を打たれて──
あの声を上げられたのだ。
その瞬間、胸がまた一段と熱を帯びる。
もう涙が溢れてしまいそうだった。
だが、零したくなかった。
アリアがようやく搾り出してくれた宝石に
涙で応えたくない。
今はただ、この幸福を
全身で感じていたかった。
「⋯⋯ありがとうございます、アリアさん」
その声は震えていた。
それでも
時也は誓うように、優しく微笑んだ。
─この命を、あなたのすべてに捧げます─
その想いが
言葉にせずとも、彼の全身から溢れていた。
時也が、そっと指を動かす。
風もない室内に
ふわりと現れる桜の花弁──
それはまるで
彼の想いに応えるように空中から滑り落ちる
宙に揺蕩うそれを
彼は極めて丁寧に
指先で捧げ持つように掴む。
その掌の中心に、アリアの
〝涙の宝石〟を一粒、静かに載せた。
すると──
花弁はまるで意志を持つかのように
ひらりと身を捩りながら動き出す。
花弁の端がするすると巻き上がり
宝石を包むように台座を形作っていく。
儚げな桜の花弁は
やがてその柔らかさを保ったまま
しっかりと宝石を抱き
耳に刺せるほどに繊細な針へと変化した。
時也の掌に浮かぶ
それはもう花ではなかった。
─アリアの涙を抱いた
世界にひとつだけの耳飾り─
美しさとは
この瞬間を指すのだろうとさえ思えた。
時也はそれを
再び深く両手に包み込むようにし
ベッドの隣に横たわるアリアへと
恭しく差し出した。
「では、アリアさん⋯⋯」
息を呑むほど静かな声だった。
「僕の耳に、刺していただいても⋯⋯
よろしいですか?」
その言葉に、アリアの睫毛が一度
ゆっくりと伏せられた。
何も言葉を返さず
彼女は細い指先で耳飾りを受け取る。
アリアの指は
触れるだけで壊れてしまいそうなそれを
完璧な確信で扱っていた。
慣れているわけではない。
それでも、まるで千年も前から
それを作る瞬間を待ち続けていたかのように
迷いはなかった。
時也の頭が
彼女の膝へと自然に傾けられた。
深紅の瞳が、静かに彼の耳朶を見つめる。
一切の感情が見えないその瞳が
なぜか時也には〝慈しみ〟にすら感じられた
──チクッ
一瞬の痛みとともに
桜の耳飾りが、右の耳に差し込まれる。
すぐに、同じ動作で、左にも。
時也は
まるで胸の中心に小さな花が咲いたような
そんな感覚に包まれた。
その感触は〝痛み〟ではなかった。
それは、〝祝福〟だった。
──それは、耳飾りとしての装飾ではない。
身に宿す〝護り〟であり
アリアの〝意志〟であり
なによりも〝愛〟の証だった。
「⋯⋯ありがとうございました。
アリアさん」
その呟きは、ほとんど声にならなかった。
だが、それでも、アリアには届いていた。
返事は、ない。
けれど──
その無言こそが、確かに今
彼女が受け入れている証だった。