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「とりあえず今夜は泊まっていきますか?」
にこやかに問いかけられて、思わず「えっ!?」と声が漏れる。
「だって春凪、お酒かなり飲んだでしょう?」
いや、それ、飲まされたという方が正しいですからね!?
そんな抗議の気持ちを込めてキッと睨みつけたら、ニコッと微笑み返された。
「ビールもつまみも美味しかったですね」
言われてみれば美味しい燻製にほだされて、途中からはビール、自主的にグイグイいきました! くぅー、そこ、分かってて言ってるようにしか思えない辺り、意地悪さんめ!
思ったけれど、確かにどちらも堪らなく美味しかったから、悔しいながらも無言で小さくうなずいた。
言葉に詰まった状態で首肯した私を見て、心底優しそうな笑顔を向けてくる宗親さんに、「この腹黒男ぉ〜!」と思わずにはいられない。
「前から思ってましたけど、春凪はいっそ清々しいくらいに警戒心が薄いですよね。――上司として。あ……いや、これからは伴侶として、ですかね。まぁとにかく庇護者としてはかなり心配になります」
不意に眉根を寄せて憐れんだ顔で見つめられた私には、その表情がすごく憎らしく思えて。
「私を罠に嵌めようとする男性なんて宗親さんぐらいしか思い浮かびません。だから貴方さえ何もしていらっしゃらなければご心配には及びません!」
私は目一杯の皮肉を込めて冷たく言い放った――つもりだった。
なのに。
「それはつまり、今現在貴女に言い寄っている男は僕だけだという告白ですね?」
って嬉しそうに微笑んでくるとか……本当いい性格していらっしゃいますね?
「では、下手なライバルが出てこないうちに、早速あちらでチャチャッと書類を作成してしまいましょう」
スッと手を引かれてソファーから立たされた私は、宗親さんに導かれるまま、訳もわからず彼の後に続く。
そうして紳士然とした態度で椅子を引かれてアイランドキッチン前に置かれたスツールに大人しく腰掛けてから、「ん?」と思った。
「これ、僕の方は全部埋めてありますので、春凪の方を埋めたら完成です。――あ、証人欄はまだですけど、それはすぐに何とでもなりますからお気になさらず」
何でもないことみたいに続けられて、握り心地の良い高級そうな黒い軸のペンを渡されて。
「もっ、問題しかありませんからっ!」
いくらお酒を飲んでぼんやりした頭でも、このまま「はい分かりました」ってサインをすると思ったら大間違いです!
っていうか、今ので一気に酔いが覚めました!
「何が問題なんですか?」
私のすぐ横に腰掛けた宗親さんが、ペンを持ったままの私の手をギュッと両手で包み込んできて。
その、繊細そうに見えて……その実、私の手なんかより圧倒的に大きくて、尚且つ思いのほか骨張ってゴツゴツした手のひらの感触に、ドキッとしてしまう。
――いや、待って春凪、そうじゃないっ。
「もっ、問題がないと思っていらっしゃる方がおかしいと思いますっ」
手を取り戻そうと必死に引いてみるけれど、びくともしなくて焦りが募った。
そんなに強く掴まれているようには見えないのに何なの!
「あ、あのっ……」
――何で離してくれないんですかっ?
そんな気持ちを込めてじっと見つめたら、「さっき、利害関係が一致することは確認しましたよね?」
その上で、春凪は宗親さんの提案を受け入れるのが得策だという結論に達したでしょう?というのが彼の言い分らしい。
いや、確かにそうなんですけど……。でも!
「仮にも〝結婚〟ですよ? 戸籍に傷がついてしまうとか思わないんですか?」
本当に好きな女性が出来た時、バツイチになってしまうことに、この人は何の躊躇いもないんだろうか。
私は……あるのに。
「バツイチになるのとか嫌です!」
勢いこんで言ったら、何でもないことみたいに「離婚しなけりゃならないでしょう?」って返されて。
「偽装……なのに?」
思わず窺うような表情になってしまって、不覚にも好みのどストライクなお顔をばっちり見てしまった私は、固まったみたいに動けなくなった。
「偽装だからこそ、です」
言われている言葉の意味がさっぱり分からなくて、キョトンとしてしまう。
あまりに意味不明な展開に、握られた手を振り解くこともできないまま、私は宗親さんの次の言葉をじっと待った。
もちろんほだされそうだから顔は見ない。
「基本的には従順だけど、僕が間違ったことをした時には自分の意見を臆さずはっきり言える。そんなキミは、僕にとって理想的で好都合な奥さんです。そう簡単に手放す気はありません」
それは喜んでいいのでしょうか?
それとも失礼な!って怒らなきゃいけないでしょうか?
色々突っ込みたいことは満載だけれど、とりあえず1番伝えたいことを優先する。
「あ、あの……例えばなんですけど……お役所に書類は出さずに同居する形で結婚のふりだけするというのはどうでしょう?」
どうしても私と〝夫婦という体裁〟を取りたいなら、それで十分なんじゃないかしら?
それならばお互い何の傷も負わずにいざと言うときにはサラリとさよなら出来るはずだし。
そう思ったのだけれど――。
「春凪の親御さんはそんなにぬるい人たちですか?」
宗親さんに、掴まれたままの手に力を込められた私は、そわそわと瞳を揺らす。
「――少なくともうちの親はそんなに甘くありません」
言われて、至極もっともな言い分に力なく萎れた私の元気を取り戻したいみたいに、「まぁでも――」と私の座るスツールをクルリと回すと、宗親さんが私を正面から見つめてにっこり笑った。
いやん!
宗親さんのその笑顔を見て、いい結果になったことなんてただの1度だってない気がするのですっ!
「書いたからと言って、すぐには提出したりはしませんから、そこは安心してください。ほら。まずはお互いの親に婚約報告――まぁ僕たちの場合はいわゆる宣戦布告ですね。それをせねばなりませんから」
「せ、宣戦布告……?」
およそ婚約という甘い言葉に相応しくない喧嘩腰な文言に、思わず宗親さんの言葉を繰り返したらクスッと笑われて。
「ほら、僕も春凪も親の言いなりにならないためにタッグを組むわけでしょう? 春凪の方は僕と結婚したいって話したとして、親御さんはすぐに許してくれると思いますか?」
聞かれて、私はふるふると首を振った。
うちの両親は――特に父は――私の結婚相手は地元から、と強く思い描いている気がする。
実家まで新幹線を使ってでさえ3時間近くかかるこの辺りで伴侶を見付けただなんて言ったら、絶対一悶着あるに決まっている。
康平と別れずに済んでいたとしても、きっとその壁はかなりの時間をかけて乗り越えないといけないものだったはずだから。
「親は……私を手元に置いて置きたいはずなので……恐らく……いや、確実に反対されると思います」
今回、アパートの契約を私に連絡が取れないままに勝手に打ち切ったのだって、そういう意図が見え隠れしているのをひしひしと感じたもの。
溜め息混じりで言ったら、「でしょうね」とつぶやかれて。
え?と思ったら「春凪の話から推察して、きっとそうだろうなとは思ってましたので、そこは想定の範囲内です」と自信たっぷりな様子で微笑まれる。
「――時に春凪のご実家は、家柄とか家の格とか……そういうのを割と気にするタイプだと思って差し支えありませんか?」
ついでのようにそう問いかけられた私は、「いまどき時代錯誤でお恥ずかしい話ですが――」と力なくうなずいた。
「分かりました。……まぁ自慢じゃないですが、僕は割と人たらしの才能もありますから、そちらの親御さんにも確実に気に入られる自信があります。なのでそれはあまり気にしなくても大丈夫でしょう」
自信満々に笑みを浮かべながら言い切られた私は、逆に自分は宗親さんのご両親に気に入っていただけるんだろうかと心配になる。
今日の感じからすると、葉月さんは表向きはニコニコとしていらっしゃったけれど――宗親さんのお話と照合してみても――、本音の部分では私以外の女性を御子息と添わせたいと思っていらっしゃるはずだ。
「仮にうちの方の両親は懐柔できるとして、そちらのご両親は無理な気がします」
別に自分のことを卑下しているとかそういうのではない。
単純に、この息を呑むほどに美形でハンサムな男性と、私みたいなそこら辺のイモ娘が釣り合うとは思えないだけ。
それによく分からないけれど、宗親さんのお母様――葉月さん――の雰囲気から、織田家と、柴田家ではお家の格が違うような気がするし。
「それは心配いりませんよ。僕が春凪以外の女性とは添いたくないとゴネますので」
宗親さんは何でもないことみたいに不敵な笑みを浮かべてそう言うと、
「うちの両親、特に母なんかは厳しいようでいて、その実、根っこの部分では僕に相当甘いんです。それを存分に利用させて貰います」
腹黒スマイルがこれほど板についた振る舞いができる人も珍しいのではないかと思ってしまった。
その腹黒宗親さんが、「ところで今夜はどうしますか?」と再度聞いていらした。
泊まりで決定みたいな言い方をしていたはずなのに、もしかして他の選択肢もありですか?
そう思った私は、
「い、家に帰りたい……ですっ」
無駄かも、と思いながらも一か八かで言ってみたところで、折り悪しく宗親さんのスマホが鳴って。
宗親さんは画面をか確認するなりニヤリとした。