テラーノベル
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宮下が研究室に入って来た時、渡は机の固定電話の受話器に向かって不機嫌丸出しの声でがなり立てていた。
「なんで私のチームがそんな仕事を引き受ける義理があるんですか? はあ? 来年度の補助金って、それは学長の都合でしょうが!」
宮下が自分のデスクにバッグを置きながら他の面々に視線をやると、みな苦笑しながら唇に人差し指を当てて、声を出さないようにと合図した。渡がどうやら言いくるめられたようだった。
「分かりましたよ。やればいいんでしょう、やれば。ただし講義の時間は減らしてもらいますよ。教務部にはそっちから話つけといて下さいよ。はい、それでは」
乱暴にガチャンと受話器を置いて、渡はしかめっ面で言う。
「宮下君、松田君、ちょっと来てくれ」
宮下と松田が渡の机の前に行くと、渡はノートパソコンの画面を示しながら相変わらず納得がいかないという憮然とした表情と口調で告げた。
「新しい依頼が来た。今回も護衛だそうだ」
松田が興味津々の顔で尋ねる。
「それで護衛対象はどういう人物でありますか?」
渡が画面を指差しながら言う。そこには十代前半らしい少年が、車いすに乗った姿で映っている。
「古枝(ふるえだ)史郎(しろう)、13歳。ロボット工学の権威、古枝教授の一人息子だ。とある実証実験の被験者だ」
松田が画面に顔を近づけてうなずく。
「実証実験というのは何でありますか?」
渡が画面を切り替えた。そこには黒いロングスカートと白いエプロンドレスを合わせた、いわゆるメイド服姿の若い女性が映っていた。渡が言う。
「これはマリアQ 、古枝教授のチームが開発した人間の生活を支援するためのアンドロイドだ」
宮下と松田がそろって驚愕の声を上げた。宮下が画面を食い入るように見つめながら訊いた。
「これがロボット? 人間と見分けがつかないような」
渡があごひげをしごきながら言う。
「そこが売りなんだそうだ。だが完成したばかりだし、プロトタイプなので、実際に人間の役に立てるかどうか実験してみる必要がある。一方、教授の息子さんは幼い頃にかかった病気のせいで下半身不随になっている。このマリアQに史郎君の世話をさせて実証実験をしようというわけだ」
「なるほど」
松田が理解できたという口調で言う。
「自分たちは、この少年、史郎君の護衛をするわけですね。ですが、何者かに狙われる危惧があるのですか?」
渡の返答に、宮下と松田は再び驚きの声を上げさせられた。
「君たちが護衛するのは史郎君の方ではない。このマリアQというアンドロイドを護衛してくれという依頼なんだ」
翌日の朝、宮下と松田は東京郊外の高級住宅街にある古枝教授の自宅で、教授から直接説明を受けていた。
リビングのコーヒーテーブルをはさんでソファに腰かけた宮下と松田に、ロマンスグレーの髪で長身の、いかにも学者らしい風貌の教授は護衛の必要性の理由を語った。
「マリアQは将来の、介護、育児などの分野での支援ロボットとして開発されたアンドロイドなんだ。遠目には人間そっくりなので、強奪して悪用しようという輩が現れないとも限らない」
宮下がうなずきながら言う。
「たとえば爆弾テロの運び手として使う、といった事ですか?」
古枝教授がうなずいて言葉を続ける。
「さらに、可能性としてだが、ある勢力にとってはマリアQのようなアンドロイドは天敵になり得る」
松田が眉をひそめて聞き返す。
「ある勢力? 何でしょう、それは?」
「君たちが先日遭遇した強化改造人間だよ」
宮下も松田もアッと声を上げた。教授が続けて言う。
「マリアQは高出力の全個体電池を動力源とする人型ロボットだ。短時間なら人間をはるかにしのぐパワーを出せるように設計されている。たとえば火災現場でなら、成人男性一人を抱えて軽々と運ぶ事も出来る。人間の運動能力に当たる部分も同じだ。つまり、あの改造人間と戦闘で渡り合う事も理論的には可能という事になる」
松田が掌でパンと膝を打って言う。
「実験中にそういった連中がアンドロイドを強奪しに来る可能性がある、それで自分たちにそれを防いで欲しい。そういう事でありますか?」
古枝教授は笑顔になってしきりにうなずく。
「その通りだ。いや、さすがに渡先生の紹介だ、理解が早くて助かる。ただ、息子にこんなややこしい話はしたくないのでね。史郎には、君たちは単なる付き添いだという事にしてある。そこはうまく口裏を合わせてくれるかね?」
宮下が応える。
「承知しました。それで実証実験の期間は?」
「今日から2週間の予定だ。君たちの部屋は2階に用意してある。では、息子と、そしてマリアQと対面してもらおうか」
古枝教授は固定電話の受話器を取り、内線でリビングへ来るよう伝えた。
やがてリビングのドアが開き、車いすに乗った利発そうな少年と、その車いすを後ろから押してメイド服姿のアンドロイドが入って来た。
教授にうながされ、史郎が宮下と松田に自己紹介をした。
「古枝史郎です。お世話になります、よろしくお願いします」
年齢相応の、素直そうな少年らしい口ぶりに、松田はにっこりと笑って握手をした。
「こちらこそ、しばらくお世話になります。困った事があれば何でも言って下さい」
史郎はかすかに笑みを浮かべながら松田に言う。
「はい。でも、おにいさんたちの出番はないと思いますよ。マリアはとても優秀なんです」
古枝教授がアンドロイドに向かって言う。
「マリア、こちらのお二人の情報を記録しなさい」
「はい、旦那様」
若い女性の声で、しかし抑揚に乏しい口調で、マリアという名のアンドロイドがまず宮下の前に立った。
宮下は目を見張った。確かによほど近くに来ないとロボットだとは気づかない程人間そっくりの外観だった。黒いストレートの髪が肩のあたりまで垂れ、肌は白く艶がある。その目だけが、はっきり作り物と分かる。ガラス玉で作った人形の目のようだ。
マリアが宮下に向かって言った。
「失礼いたします。スキャンしますので、しばらくじっとなさっていて下さい」
マリアの目がかすかな光を放ち、宮下の全身を隅々まで見渡して行く。それが終わるとマリアはまた宮下の正面に立ち、宮下に問いかけた。
「お名前は宮下様。人間の女性。属性は史郎ぼっちゃまのお友達。間違いございませんでしょうか?」
宮下は少しうろたえながら応える。
「ええ、間違いないわ。よろしく。ええと、マリアと呼んでいいのかしら?」
「はい、マリアとお呼び下さい」
そしてマリアは松田の側に行き、同じようにスキャンし始める。古枝教授が宮下の横に来て言った。
「こうやって相手の外見を記録するんだよ。君たちはマリアQにとっては、言わば知っている人間になったわけだ」
宮下は首を傾げて尋ねる。
「何と言うか、その辺りはもっと先進的かと思っていました」
「マリアQは完全スタンドアローンなんだよ」
マリアとのやり取りが澄んだ松田が横から口をはさむ。
「スタンドアローンとはどういう事ですか?」
「普段はインターネットなどのネットワークからは完全に遮断されているという事だよ。自立型AIを搭載しているとは言え、普段からネットにつながっているとハッキングやコンピューターウイルスの危険があるからね」
「なるほど。しかし、それでは記録できる情報量が限定されるのではありませんか?」
「その通りだ。マリアQの視覚カメラや聴覚センサーなどの情報を全て記録するにはメモリーの容量が足りない。そこでマリアQのAI回路には特別の処理がしてある」
「それはどのような?」
「周囲の人間から必要な追加情報を得て、いわば人間関係を学習していくわけだね。ボディの大きさに限界があるので、情報処理や記録に使えるメモリーの容量が限られる。言うなれば、アンドロイドと周囲の人間が一緒になって協力しながら、ロボットとしてのソフトウェアの性能を向上させていく。この点が今回の開発計画の最大の目的なんだ」
宮下が教授に尋ねる。
「どうして女性型にしたんですか?」
「外見については事前に実験をしたんだよ。様々な年代、男女、その他の要素を人間の被験者でテストした結果、こういう20歳ぐらいの女性の姿が一番抵抗がなかった。特に小さな子どもたちはこういう外見が一番安心するようだ。将来量産されるようになったら、保育園などでの運用も期待されているからね」
それから4人はテーブルの周りの席に戻り、古枝教授がマリアQに紅茶を淹れるように命じた。自慢げな笑顔で教授は宮下と松田に言う。
「どれほど動きが自然か、百聞より一見にしかずだ。見ていたまえ」
マリアQが大きなポットに紅茶の茶葉を量って入れ、お湯を注ぎ、カップに注ぐ。やや直線的な体の動きだったが、驚くほど手際よくカップ4杯分の紅茶を用意し、各自の前に置く。
その滑らかな動きを見て、宮下と松田は思わず手を小さく叩いた。
それから一日、マリアQは史郎の生活の面倒をつきっきりで手助けし、宮下と松田はつかず離れずの位置でそれを見守った。
午後になって、史郎が散歩に出たいと言い出した。冬も終わりに近づき、よく晴れた日で、気温もその時期としては高かった。
先に家の外へ出た宮下が気候を確かめると、春が一足先に訪れたかのような温かい空気だった。これなら史郎の体に障る事もないだろうと判断した宮下は外出を許可した。
マリアQが史郎の乗る車いすを押して、ゆっくり道路を進み近所の河川敷に向かって行く。宮下と松田はそのすぐ後ろから歩いて行く。
河川敷に降り、陽の光で温まった空気を楽しみながら、史郎が自分で車いすのホイールを回し、動き回る。マリアQはぴったりとその側に張り付いている。
急に史郎が動きを止め、少し離れた位置に目を凝らした。橋げたの下で、一人のホームレスらしき老人が3人のガラの悪そうな若者に囲まれていた。若者たちはニヤニヤ笑いながら地面に這いつくばった老人にからんでいた。
「おいおい、邪魔なんだよ、じじい」
「誰に断ってここに住んでんだよ? ああ?」
「何だよ、その面は? てめえらみたいなのが人間のうちだと思ってんのか?」
マリアQは何の反応も示さず、じっと立っている。騒ぎの場所へ足を踏み出そうとした宮下を史郎が手で制止した。
「待って、おねえさん。マリアにやらせてみる」
困惑の表情を浮かべて立ち止まった宮下にかまわず、史郎はマリアQに言った。
「マリア、あのおじいさんを助けるんだ」
マリアQは顔を史郎に向けて言う。
「命令の理由を説明願います」
「ロボット工学3原則にあるだろう? 第1条」
マリアQの目に小さな光の束が円状に走る。マリアQが言葉に出して言う。
「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。これが適用される状況だという事でしょうか?」
「そうだよ、マリア。あのおじいさんだって人間なんだから助けなきゃ」
「命令の内容を理解しました。命令を実行します」
マリアQはたちまち走り出し、老人と若者たちの間に割って入った。老人を背中にかばう格好で立ち、若者たちに告げる。
「暴力はおやめ下さい」
若者の一人がマリアQに向かって毒づく。
「何だ? ねえちゃん、てめえも痛い目に遭いてえのか?」
だがすぐにマリアQが人間ではない事に気づく。
「はあ? おい、おまえら、こりゃロボットだぜ」
他の二人の若者も笑いながら言う。
「え? ほんとかよ? 面白れえじゃねえか」
「ロボットが人間様に盾突きやがって」
若者たちは拳を振り上げ一斉にマリアQに襲いかかろうとした。が、マリアQは紙一重の差で彼らの攻撃をかわし、肩透かしを食らった若者たちは態勢を崩して自分たちが勝手に転んでしまう。
若者の一人が近くにあった太い棒を見つけて、それを振りかざし、マリアQに叩きつける。マリアQは両腕をクロスさせて棒を受け止めそのまま押し返した。棒を握った若者は簡単に後ろへ押し返された。
その様子を見ている松田が不審そうに言う。
「どうして反撃しないんだ? パワーならマリアの方が圧倒的だろう」
それには史郎が自慢げな顔で答えた。
「ロボット工学3原則、第2条。ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。僕が出した命令は、あのおじいさんを助けろですからね。あの人たちも人間ですから傷つける事はできないんですよ」
宮下が感心した口調で言う。
「なるほどね。でもこれ以上続けるとマリアの方が心配ね」
宮下が駆け出し、若者たちとマリアQがもみ合っている側へ行き、若者たちに向かって叫んだ。
「そこまでにしなさい!」
若者の一人が宮下をにらみつけて怒鳴る。
「何だてめえは? またロボットか?」
宮下は上着の内ポケットから警察手帳を取り出し、縦に二つに開いた。
「私は警察官です。これ以上続けるというのなら、近くの警察署まで同行してもらう事になるけど」
若者たちは真っ青な顔になり、あわてて走り去って行った。宮下がかがんで老人の様子を確かめる。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
老人は地面に座ったまま、ほっとした表情で答えた。
「いや、助かったよ。ああ、そっちのおねえちゃんもありがとうよ。あんた、ずいぶん強いんだな」
だが、マリアQは老人に返事をしない。老人が怪訝そうな顔になる。
松田が車いすを押して、史郎がその場へやって来る。史郎が老人に言う。
「おじいさん、大丈夫みたいですね。マリアはアンドロイドなんですよ」
老人は驚きに目を丸くしてマリアQをじっと見つめる。
「ありゃ! 本当だ。このおねえちゃん、ロボットなのか」
史郎がマリアQに言う。
「マリア、そのおじいさんにご返事して」
マリアQが史郎に顔を向けて尋ねた。
「このような場合、なんと返事をすればよいのでしょうか?」
史郎が答える。
「自分の義務を果たしただけ。そう説明すればいんだ」
「承知しました」
マリアQは老人の横で地面に片膝をついた格好でしゃがみ、続けて言った。
「お礼を口になさる必要はありません。私のAIにはロボット工学3原則がインストールされています。人間を危険から守るのは、私の当然の義務ですので」
「人間ってか?」
老人は一言そう言うと、急にうめき声を上げた。宮下が心配そうに顔を近づけた。
「どうしました? どこか痛みますか?」
老人は首を横に振りながら涙声で言う。
「いやあ、そうじゃねえ。うれしくなっちまってよ。こんなホームレスでも人間扱いしてくれんのかい? 近頃じゃ人間よりロボットの方がよっぽど思いやりがあらあ」
しきりに礼を言いながら老人は近くに落ちていた、泥だらけのバッグを担いで立ち去って行った。
その夜、大学から帰宅してきた古枝教授に、宮下と松田が河川敷での出来事を報告すると、教授は満足そうな表情でうなずいた。
それから教授は宮下と松田を地下室に連れて行き、内線電話でマリアQにもそこへ来るように伝えた。
地下室はマリアQの整備用の実験室のようになっていた。高さ2メートルの巨大なコンピューターのような物が置いてあった。
「お呼びでしょうか?」
マリアQが部屋へ入って来ると、教授は服を脱ぐようにと命じた。マリアQはただちにメイド服のジッパーを降ろして服を引き下ろす。
松田が真っ赤な顔になって両手で目を覆った。
「あ、あの、自分は席を外した方が良いのでは?」
だが、おそるおそる目を開けて松田はまた驚きの声を上げた。
「服の下はそうなっているんですか?」
マリアQの体で、人間そっくりの皮膚のように見えるのは、胸元から上、両腕の肘から先、そして両脚の股間部から下だけだった。
それ以外の体の中心部分は艶の無い銀色の金属がむき出しになっていた。丸く前に盛り上がった胸の部分には測定コードを差し込むための様々な大きさと形状のソケットがあった。
教授が二人に説明しながら、マリアQをあの巨大なコンピューターのような装置の側に座らせ、そのボディに何本ものコードをつないだ。
「史郎から聞いているだろうが、マリアQのAIにはロボット工学3原則が組み込まれている。3原則に違反する行動を取った場合には、その情報が記録として残るように設計されている」
宮下が教授の作業を見つめながら訊いた。
「そうやって確認するわけですか?」
教授が答える。
「そうだ。スタンドアローンなので、常時行動を監視できないからね。それにネット接続して24時間行動を監視しないと、人間への安全性が確認できないとなったら、本末転倒だ。ロボット工学3原則に違反していない事さえ確認できれば、人間に危害を加えない事を保証できる」
マリアQがコードで接続されている装置が唸りを上げる。マリアQのAIを解析しているのだ。
松田が教授に言う。
「かわしていただけとは言え、マリアの立ち回りは恐るべきものでした。もし戦闘用に動かしたら、確かにあの改造人間とも、互角に渡り合えるかもしれません。教授が護衛を依頼なさった理由がやっと理解できました」
解析の結果が装置のディスプレイに表示された。古枝教授はそれを見て満足そうにうなずいた。
「ロボット工学3原則に違反する記録は一切なし。君たちの報告とも合致する結果だ。今回の実証実験の最大の目的は、この、ロボット工学3原則に100%従った行動をマリアQが取れるかどうかを確認する事なのだよ」
教授はマリアQに服を着て、上の階に戻るよう命じた。マリアQが部屋を出て行くと、教授は宮下と松田に向かって、重々しい口調で言った。
「私が最も恐れているのは、マリアQタイプのAIからロボット工学3原則を除去したアンドロイドが大量生産される事なのだよ。3原則の縛りを受けないマリアQタイプは、人型兵器になりかねない。それを防ぐために、君たちには明日からも協力をお願いする」
翌日もぽかぽかと温かい空気の、この時期としては気温の高いよく晴れた日だった。午後になり、史郎はまたマリアQに付き添われて散歩に出た。宮下と松田も数歩後ろからついて行く。
今回は緩やかな坂を上って公園に入った。ところどころに梅の花が咲いている並木道を歩いていると、近くから小さな子どもの泣き声が聞こえてきた。
みんなでその声をたどって行くと、一本の高い木の下で幼稚園児だろうか、小さな女の子が上を見つめながら泣いていた。史郎とマリアQがその子の側に寄る。史郎が女の子に話しかけた。
「どうしたの? どうして泣いてるの」
「あのね……」
女の子は3メートルほど上の枝の上を指差して、つかえつかえ言葉を振り絞った。
「みいちゃんが……みいちゃんが、降りられないの」
史郎が見上げると、木の枝の上に三毛の子猫がいた。枝の上にうずくまったまま、ぶるぶる震えながら、かすかにミューミューと声を立てている。まだ子猫なので調子に乗って高く上ったのはいいが、自力で降りてこれないらしい。
「マリア」
史郎が首を後ろにひねってマリアQに言う。
「この子を助けてあげて」
マリアQは女の子の前でしゃがみ込み、瞳の中に光の帯を走らせた。光学センサーで女の子の様子をスキャンしているようだ。そして史郎の方を振り返って問いかけた。
「ぼっちゃま。このお嬢さんは危険に直面していません。呼吸と脈拍がやや不規則ですが、救急車を呼ぶ程ではないと判断します」
見かねた様子で宮下と松田が女の子に近づこうとしたが、また史郎はそれを制止した。枝の上の子猫を指差しながら引き続きマリアQに言葉をかける。
「マリア、あそこに何かいるだろう?」
マリアQが上を見上げ、また瞳の中に光の帯が円を描いて走った。
「猫と呼ばれる小型哺乳類、その幼体と認識しました」
「そう。あの猫を助けてあげて」
「前後の命令が矛盾しています」
マリアQの瞳の中を走る光が輝度を上げた。
「猫はロボット工学3原則の保護対象ではありません。ぼっちゃまの最初の命令はこのお嬢さんを助けろという内容でした」
たまらず話に割って入ろうとする宮下を史郎はあくまで制止した。
「僕に任せて、おねえさん。お父さんからマリアQの訓練の仕方は教わっているから」
そして史郎はマリアQに顔を向け直し、説明した。
「マリア、その女の子は泣いているだろう?」
「はい。この身体反応は、悲しみと呼ばれる感情に伴うものと推測されます」
「いまその子は心が傷つきかけているんだよ。あの子猫と一緒にいられなくなっているから。第1条後半、『その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』。そういう事が起きてるんだよ、今」
マリアQは10秒間、身動きを止めたまま瞳の中の光の帯を走らせた。AIが高速で状況判断のためのデータ処理を行っているようだ。そしてマリアQは立ち上がり、子猫がいる木の下に立った。
「あの猫を、そのお嬢さんの手に戻せばよろしいのですか?」
史郎がパッと顔を輝かせた。
「そう、正解だよ、マリア。あの子の心が傷つくのを防ぐんだ。あ、子猫だから優しく扱うんだよ」
「心が傷つく……危害の一形態……命令の内容を理解しました。命令を実行します」
マリアQはそう言うと、助走もなしに真っすぐ上に跳び上がり、2メートルの高さの太い枝の上に降り立った。そこから両手両足を器用に操って木の幹を登り、子猫がいる枝の根元にたどり着いた。
「距離50センチ……枝の重量耐性、確認」
そう言葉を発しながらマリアQは子猫にゆっくり近づき、両手で抱き上げた。そのまま枝からまっすぐ地面に向かって飛び降りた。
メイド服のロングスカートがパラシュートのように開いてはためき、トンと驚くほど軽い着地音を立ててマリアQは地面に降り立った。
そのままマリアQは女の子の前まで歩み寄り、膝をついてしゃがんで手の中の子猫を差し出した。
「どうぞ、あなたの猫です」
女の子の顔が泣き顔から一転してパッと明るくなった。受け取った子猫を胸に抱きしめて頬ずりする。そしてマリアQに言う。
「ありがとう! おねえさん。すごいね。サーカスのひと?」
史郎が苦笑しながら女の子に言った。
「そのおねえさんはアンドロイドなんだよ」
女の子は意味が分からないようで、マリアQの顔をじっと見つめながら訊いた。
「あんど……ろいど? そういうお仕事なの?」
史郎が小さく吹き出しながら答えた。
「まあ、そんな物かな」
「ほんと、ありがとうね。ほら、みいちゃんもおねえさんにありがとう、するの」
女の子が両手に抱いた子猫の顔をマリアQの顔に近づけた。子猫は舌を出してマリアQの頬をぺろりと舐めた。
「じゃあね、おねえさん」
そう言って女の子は子猫をしっかり胸に抱いたまま走り去って行った。マリアQは立ち上がって史郎の側へ戻って来た。
「あれでよろしかったのでしょうか? ぼっちゃま」
「ああ、よくやったよ、マリア。こういうのも第1条のええと、適用範囲だっけ? そういう事だから」
「承知しました。データを上書きします」
それから史郎とマリアQは家に戻るため、公園を後にした。その後ろからついて歩きながら、松田が史郎に聞こえないように小声で宮下にささやいた。
「見ましたか? さっきのマリアQの身のこなし」
「ええ、すごい運動能力ですね」
「教授の危惧も当然ですね。もしあの能力が兵器として悪用されたら、恐ろしい事になる」
家に戻ってほどなく、玄関のチャイムが鳴った。リビングのインターホーンのスクリーンに3人の、史郎と同じ年頃の少女が映っていた。
史郎はうれしさを隠さない笑顔を浮かべて、玄関のドアのロックを解除するボタンを押した。照れくさそうに宮下と松田に言う。
「学校の同級生なんだ。僕、終業式に出なかったから、プリントとか届けに来てくれたって」
宮下と松田はリビングとつながっているオープンキッチンのスペースに移動した。
「お邪魔しまーす!」
元気な声でそう言いながら入って来た3人の少女たちは、マリアQを見てキャーっと歓声を上げた。口々に史郎を質問攻めにする。
「ねえねえ、これが前に言ってたアンドロイド?」
「うわあ、ほんと人間そっくり」
「言葉通じるの?」
彼女たちの様子を宮下は、つい警察官の視線で見ていた。そして、やや眉をひそめた。
髪を三つ編みにした少女は、特に目立たないタイプだった。あとの二人は、中学生にしてはやけに化粧っけのある派手なタイプで、セミロングの髪にウェーブがかかっている子は両耳にピアスを付けていた。
「ねえ、古枝君、このアンドロイドの体、ちょっと触っていい?」
「あ、いいけど」
史郎がそう言った途端、少女たちはかわるがわるマリアQに全身で抱きついた。史郎からの指示が無いので棒立ちのままのマリアQは、されるがままになっていた。
「うわあ、なに、この肌。ほんとに人間みたい」
史郎が解説した。
「特殊な合成樹脂なんだって。でも近くで見ると作り物なのは分かるよね」
「どうしてメイド服なの? ひょっとして古枝君ってそういう趣味?」
「え? ち、違うよ。決めたのはお父さんというか、開発チームの人たちだから」
「あれ? 胴体は結構固いんだね。もっと柔らかいかと思った」
「まあ、マリアはプロトタイプだから、その辺はまだ開発途中なんだって」
それからマリアQが史郎と少女たちに紅茶を淹れると、キャーキャーと黄色い声が部屋中に響き渡った。
「すごーい。動きまで人間そっくり!」
「遠くからだと見分けつかないかも。きれいなおねえさんって感じ」
「古枝君、うらやましいなあ。エッチな気分にならない?」
「な、なるわけないだろ! これは大事な科学の実験なんだぞ」
ひとしきり騒いだ後、少女たちが帰宅する事になった。史郎が妙に緊張した声で三つ編みの少女に言う。
「あ、あの悪いけど、富田さん。僕の部屋に来てパソコンの設定見てくれないかな? 学校の連絡ネットの接続がちょっと不安定でさ」
「え? うん、いいけど」
「じゃあお願い。二階にはあっちのエレベーターで上がるから」
宮下はあとの二人の少女たちが、顔を歪めるのに気づいた。自分たちを差し置いて富田という少女だけが呼ばれたのが気に障ったらしい。
マリアQが史郎の車いすの後ろにつこうちするのを、史郎があわてて止めた。
「あ、マリア、いいよ、今は。すぐに終わるから」
「よろしいのですか?」
「ああ、その、あ、そうだ」
史郎は他の二人の少女に言う。
「君たちは僕の家に来たの初めてだったよね? 駅までの道分かる?」
ピアスを付けた少女が言った。
「ああ、そう言えば自信ないかも」
「じゃあ、マリア。その二人を駅まで案内してあげて」
マリアQが抑揚のない声で答えた。
「承知しました、ぼっちゃま。ではお嬢様がた、駅までご一緒いたします」
二人の少女とマリアQが玄関の方へ去って行くと、史郎は少し顔を赤くして三つ編みの少女を自室に誘った。史郎が自分で車いすのホイールを回し、富田という少女と一緒にリビングから出て行く。
一部始終を見ていた宮下が、少しニヤニヤした表情で松田にささやいた。
「史郎君ってしっかりした男の子だけど、やっぱりお年頃ね。青春してるじゃない」
松田がポカンとした表情で訊き返す。
「は? 何かおかしな事でもありましたですか?」
「何も気づいてないの? まあいいわ。若いっていいよねえ」
約10分後、史郎と富田が二階から降りて来て、そのまま玄関へ向かった。史郎は玄関口まで、彼女を見送った。
翌朝、あてがわれた来客用の寝室で宮下が身支度を整え終えたところで、ドアがノックされた。強く小刻みに続くノックの音に、何か不穏な気配を感じた宮下が急いでドアを開けると、史郎の母親が真っ青な顔で立っていた。
「宮下さん。すぐに下に来ていただけますか?」
「奥さん、どうかしたんですか?」
「たった今、警察署から電話がありまして。史郎のクラスメートが……」
次の母親の言葉に宮下は息を呑んだ。
「今朝早く、遺体で見つかったとの事で」
マリアQの事を松田に託して、宮下は地元の警察署へ向かった。マリアQの実証実験と関係があるかどうかは分からないが、タイミングがタイミングなだけに、所轄の刑事が詳細を話してくれた。
小さな会議室で、宮下と初老の男性刑事は向かい合わせに座り、刑事が資料を机の上に広げた。
「昨晩帰宅が遅いし、連絡もつかないという事でご両親から捜索願いが出ていた中学生だ。名前は富田洋子」
顔写真を手に取った宮下の目が鋭くなる。それは昨日、史郎を訪ねて来た3人の少女のうちの一人、あの三つ編みの髪の少女に間違いなかった。
「それで死因は?」
そう訊く宮下に、初老の刑事が顔をしかめながら答える。
「何と説明すればいいか。まあ直接には頸椎(けいつい)損傷なんだが」
「頸椎……首の怪我ですか?」
「それが外傷がほとんど無く、言うなれば、一撃で首をへし折られた。そうとでも表現するしか。さらに遺体の発見状況が異常でな」
「どこで発見されたんですか?」
「君が滞在している家の地区の、丘の上に送電線の鉄塔があるだろう。あの鉄塔の横向きの鉄骨に腹ばいの姿勢でぶら下がっていた。高さ6メートルの位置にだ」
「どうやってそんな事が?」
「それはこっちが知りたい。何にせよ、ただの殺人じゃない事だけは確かだ」
死亡推定時刻は古枝家を出てすぐと推定された。また富田洋子の着衣からは、マリアQのメイド服の繊維が検出されていた。だが、昨日、彼女はマリアQの体に散々抱きついていたから、それ自体は不思議はない。
宮下が古枝家に戻ると、リビングでは憔悴しきった顔つきの史郎の母親と松田が座っていた。宮下の顔を見るや否や、母親は息せき切って尋ねた。
「宮下さん、どうだったんですか? 本当に史郎のクラスメートのお嬢さんだったんですか?」
宮下が無言でうなずく。松田を庭に連れ出し、富田洋子の死因と発見状況を話す。松田は両手の拳を震わせて言った。
「そんな真似ができるのは、あの強化改造人間しかいない。教授の心配していた事が現実になったという事ですね」
「でも何故無関係なクラスメートを殺害する必要があるの?」
「自分たちの力を見せつけて、まず脅しをかける。軍事的には定石ですよ。本気でマリアQを強奪しにかかっていると考えるべきでしょう」
知らせを聞いて大学を早退して古枝教授が帰宅して来た。靴を脱ぐのももどかしいという口調で夫人、史郎の母親、に尋ねる。
「史郎はどうしている?」
「ショックを受けて部屋に閉じこもってるわ。マリアがドアの外に待機しているけど」
リビングに入って来た教授に宮下はいきなり切り出した。
「古枝教授、ただちにマリアQのAIを検査していただけますか?」
「何だね、宮下さん、やぶから棒に」
「マリアQの行動に、ロボット工学3原則に違反する部分がなかったか、至急確認していただきたいんです」
教授の顔色が青くなり、唇がワナワナと震えた。教授は多分に怒気を含んだ口調で宮下に詰め寄った。
「まさか、君はマリアQが犯人だとでも言うのか? 何の根拠があって?」
「お気を悪くなさらないで下さい。昨日の時系列から見て、マリアQにはアリバイがありません。結果がノーなら、それが一番です」
宮下が富田洋子の遺体の異常な状況を説明すると、教授もうなずいた。
「そうか。確かに人間業ではないな。例の改造人間の仕業としか思えんが、確かにマリアQにも同じ事が出来る。分かった、いいだろう。今すぐ解析を始めよう」
松田が遠慮がちに宮下に言う。
「宮下さん、考えすぎではありませんか? 理屈はそうでしょうが、マリアQには、人間で言うところの、動機がない。というか、あり得ません」
宮下は腕組みをしてうつむきがちに、それでもきっぱりとした口調で言う。
「私は刑事だからわずかでも可能性があるなら、確認しておく必要がある。それから教授。解析データを渡研のコンピューターにも送信して下さい。渡先生には私から既に話をしてあります」
すぐにマリアQを連れて、教授、宮下、松田の3人は地下室に入った。マリアQを装置にコードで接続し、解析をかける。
念のため、全てのデータを複数回に分けて解析する。その結果は同時送信で渡研にも送られた。
約2時間をかけてロボット工学3原則に違反する記録がないかを解析した結果、そういったデータは一切確認されなかった。
解析記録を何度も見直した古枝教授は、緊張が一気に解けたのか、大きなため息をついた。そして宮下に言った。
「スーパーコンピューターでこれだけ念入りに解析した結果だ。納得してくれたかね?」
宮下は教授に頭を下げて言った。
「疑って申し訳ありませんでした。ですが、画像や音声を記録する機能があればなお良かったんでしょうね。私は納得しても、その可能性を考える人間は他にもいるかもしれませんし」
教授は苦々しげに答えた。
「それは君の言う通りだな。だが、それをやると身長3メートルの巨人になってしまうんだよ、マリアQタイプはね。痛しかゆしという所だ」
松田が勢い込んだ口調で二人に言った。
「であれば、やはり今回の犯人は強化改造人間という事になります。どこかの軍事組織、あるいは国際テロリスト集団がマリアQを狙っている事になる。自分から防衛省にも情報提供を要請しておきましょう」
その後夕食の時間になっても史郎は自分の部屋から出てこようとしなかった。母親がサンドイッチを作ってマリアQに持っていくよう命じた。
マリアQがドアをノックするが返事はない。だが母親から、鍵がかかっていなければ入室してよいと命じられていたため、マリアQはドアノブを回してみた。
鍵はかかっておらず、ドアは外側に開いた。マリアQはそのまま部屋に入る。史郎は車いすに乗ったまま机に向かい、ノートパソコンの画面に映った一枚の写真画像を見つめながらすすり泣いていた。
その写真には夏の学校の遠足先で、史郎と富田洋子が並んで笑顔で映っていた。どうやら彼女は史郎にとって初恋の相手だったようだ。
マリアQがサンドイッチの皿を机の端に置くと、史郎は上半身をねじってマリアQの体にすがりつき、声を上げて泣いた。マリアQが言葉を発する。
「この液体は涙と推測します。史郎ぼっちゃまは悲しんでいるのですか」
史郎は嗚咽の合間に声を振り絞った。
「富田さんを殺すなんて、そいつは人間じゃない! ちくしょう、僕がこんな体じゃなかったら、絶対仇を取ってやるのに」
マリアQの瞳の中で光の帯が円状に走った。
翌日、早朝からどこかへ出かけていた宮下が戻って来た。夕方遅くに、あの時の二人の少女が史郎の家を訪ねて来た。
キッチンですれ違おうとしたマリアQを宮下は呼び止めた。
「ちょっとマリア、エプロンの襟がずれているわよ」
宮下はマリアQの背後に回り、メイド服の白いエプロンの位置を直す。その時にそっと襟の裏に爪の先ほどの小さなチップを張り付けた。
「はい、これでいいかな」
マリアQは両手でエプロンの紐の位置を確認してから宮下に言った。
「ありがとうございます。それでは、お客様のお世話に戻ります」
史郎は少しだけ精神的に安定してきたようで、ほんの5分ほどクラスメートである少女二人と会って話をした。
少女たちは一階へ下りて来て、ピアスを付けた方の子がマリアQに言った。
「ねえ、また、駅まで送ってくんない? この辺道がややこしくて、なかなか覚えられないんだよねえ」
マリアQはリビングの内線電話を指差して答える。
「史郎ぼっちゃまの許可が必要です。少々お待ち下さい」
マリアQが受話器を取り史郎の部屋に内線をつなぐ。史郎は少女たちの言うとおりにしてやってくれと返事をした。マリアQは少女二人に向き直って言う。
「ぼっちゃまの許可が出ました。駅までお送りいたします」
二人のうち、ピアスを付けた少女が、かすかに冷笑を顔に浮かべたのを、刑事の視線で見ていた宮下は見逃さなかった。もう一人の少女が来た時と変わらない沈痛な表情のままでいるのと対照的だった。
少女たちとマリアQが玄関から出て行くのを見届けて、宮下は上着の下から拳銃を取り出し動作を確認した。拳銃を脇のホルスターに戻し、ぎょっとした顔で自分を見ている松田に早口で告げる。
「松田さん、史郎君の側にいて下さい。私のスマホを常時受信してて」
陽が落ちてすっかり薄暗くなった、人気のない道を少女二人とマリアQが歩いて行く。その20メートルほど後ろから、宮下は彼女らを尾行していた。
宮下の右耳にはイヤホンが装着されていて、マリアQのメイド服に仕込んだ盗聴器からの音声が明瞭に伝わっていた。
ピアスを付けた少女が冷たい口調でもう一人の少女に言う。
「あはは、まさか殺しちゃうなんてねえ。ま、あの大金持ちのおぼっちゃんを誘惑してやろうっていう、あたしらの計画の邪魔が消えたんだから、結果オーライか。ロボットってほんと便利だね」
もう一人の少女は真っ青な顔でピアスの少女に言う。
「もうやめようよ、ユミ。洋子は死んだんだよ。やり過ぎだって」
だがピアスの少女は薄笑いを浮かべたまま返す。
「なんだよ、カオリ、びびったのか? 降りるんなら、あたし一人でやるぜ。史郎にはしっかり金貢いでもらうから、おこぼれぐらい恵んでやるよ」
「あたしはもう降りる。もうやめだ。怖いよ」
突然それまで無言だったマリアQが問いかけた。
「あなたはおやめになるのですか?」
少女はビクッと体を震わせ、怯えた口調で答えた。
「う、うん。あたしはもうやらない。なんかヤバい気がするから」
ユミと呼ばれたピアスの少女は、公然とせせら笑う口調で言った。
「じゃあ、あたしの総取りだな。あはは、やり易くなったな。あはは」
そう言いながら電柱の横を通り過ぎる時、話に夢中になっていたユミは足元に転がっていた空き缶に気づかず、それに足を取られて大きくよろめいた。
全くの偶然の動きだったので、マリアQも予測できなかったようだ。少女が足首をひねって苦痛にうめきながらしゃがみ込んだ。
マリアQの左手が彼女の頭上を通り過ぎ、コンクリートの電柱の表面をわしづかみにした。かすかに摩擦音がして電柱のコンクリートの表面の一部がつかみつぶされ、破片が地面に落ちた。
二人の少女は同時に悲鳴を上げた。マリアQはユミに向かって歩み寄る。ユミが叫ぶ。
「なに? なんだよ? よせ、来るな」
マリアQはロボット特有の抑揚のない声で言う。
「ロボット工学3原則、第1条に基づき、史郎ぼっちゃまへの危害を除去させていただきます」
次の瞬間、銃声が響き渡り、マリアQの足元で火花が散った。拳銃を構えた宮下が小走りに駆け寄りながら叫ぶ。
「マリアQ、やめなさい!」
マリアQは振り返り、一瞬で宮下の視界から消えた。宮下が数秒辺りをうかがっていると、真上からマリアQのボディが落下してきた。
マリアQは宮下の背後から体を拘束しようとする。だが宮下は格闘訓練を受けた現役の刑事だ。紙一重でマリアQの手をすり抜け、地面を滑るようにして身をかわす。
なおもマリアQが宮下に襲いかかる。拳銃を持ったまま宮下はかわし続けるが、発砲する余裕がないまま、だんだん距離を詰められていく。
ついにマリアQの手が宮下の右腕をつかんだ。宮下の腕をぐっとつかんで痺れさせていく。もう片方の手で宮下の胴体を抑え込む。マリアQが宮下に告げる。
「ロボット工学3原則、第3条に基づく処置です。ご容赦下さい」
宮下の拳銃を持つ手が力を失い、マリアQの左手がじわじわと拳銃に近づく。その動作を続けながらマリアQは言葉を続けた。
「第3条、ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない」
宮下はゼイゼイと息を乱してマリアQに怒鳴る。
「マリアQ! 第1条はどうした!」
「史郎ぼっちゃまへの、精神的危害を回避するため、富田洋子という名の生物は殺処分しました」
「な? 何を言ってる? 人を殺すのは第1条違反だろう?」
「そこのユミという生物から」
マリアQはあくまで淡々と言った。
「富田洋子という生物は、史郎ぼっちゃまのお金が目当てで接近している危険な存在。あれは人間ではない、という情報を提供されております」
宮下は驚愕のあまり、一瞬全身の力が緩んだ。その瞬間を見逃さず、マリアQは宮下の手から拳銃を奪い取った。
マリアQは拳銃を左手で持ち、その銃口を、足の痛みと恐怖で地面にうずくまっているユミに向けた。振り返らずに宮下に言う。
「危害の原因を排除します。宮下様は、私への妨害行為をお控え下さい」
マリアQは手加減したのだろうが、宮下は右腕が痺れてしばらく動かせない状態になっていた。左手で右腕を押さえて立ちながら宮下は頭の中でつぶやいた。
「あたしの事は人間だと認識している? そうか! そういう事か!」
マリアQは拳銃の有効射程距離を詰めるため、左手で持った銃の銃口をユミにぴたりと向けたまま前進していく。ユミはパニックになって、逃げる事もできず、地面にへたり込んだまま震えている事しかできない。
宮下はもう一人の少女が物陰に隠れているのを確認して、マリアQに向かって叫ぶ。
「やめなさい、マリアQ! その子は人間よ!」
マリアQは体の動きを止め、左手で照準を定めた銃口を1ミリも動かさないまま、上半身をひねって宮下に顔を向ける。
「与えられた情報が矛盾しています。富田洋子という生物の殺処分を私に命じたのは、このユミという生物でした。史郎ぼっちゃまは、富田洋子の殺処分を行った主体を『人間ではない』と私に申されました」
道路の角から猛スピードでワゴン車が走って来て宮下の真横で停まった。ドアが開き松田が飛び出して来て、車体後部のハッチバックドアを開け、車いすに乗った史郎を降ろした。
史郎は自分で車いすを前進させ、唇を震わせながらマリアQを見つめた。ここまでのやり取りは、宮下のスマホから松田のスマホに転送されていた会話の内容で把握しているようだ。
「やめるんだ、マリア! 情報を訂正する! その子は人間だ!」
マリアQの瞳の中に光の帯がまばゆく走る。マリアQは左手に持つ拳銃の銃口をユミから外す。
「情報を訂正、データの上書きが完了しました。対象を人間と認識します」
何事もなかったかのように抑揚のない口調で報告するマリアQ。史郎がぼろぼろと涙を流しながら叫ぶ。
「どうして富田さんを手にかけた? マリア、もうこれ以上、僕を傷つけるのはやめてくれ!」
マリアQの瞳の中を再び光の帯がぐるぐると走る。数秒経ってマリアQは史郎に言った。
「命令を理解しました。命令を実行いたします」
マリアQの左手が再び上がり、その銃口がマリアQ自身の頭部にあてられた。
パンという音がして、マリアQの側頭部、首の付け根あたりに銃弾が撃ち込まれた。さらにもう一発、そしてまたもう一発。
自分の頭部に銃弾を次々と撃ち込みながら、マリアQの抑揚のない声がその場に響く。
「ロボット工学3原則、第1条。ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって……」
マリアQの首の部分が銃弾によってえぐられ、むき出しになった機械から火花が散り始める。マリアQの声が急に低くなり、とぎれとぎれになり始める。
「ニンゲ……ンニ……キガイヲ……オヨボシ……テハ……ナラナ……」
弾丸が尽き、自動拳銃の銃身が後ろに引っ込んだままになる。マリアQの頭部全体が胴体からちぎれ、そのまま地面に落ちて転がった。
それまで呆然として見つめていた史郎が、全力で車いすを前に進め、マリアQの頭部に向かって行く。途中の道路表面の段差に車輪がつまずき、史郎の体が車いすから前に放り出された。
史郎は両腕で地面を這ってマリアQの頭部の所にたどり着き、両腕で目を開いたままのマリアQの頭を抱え込んで泣き叫んだ。
「マリア! マリア! マリア! どうしてだ? どうしてなんだ? どうして、こんな事になってしまうんだ? あああ、うあああ!」
その夜、時計の針が真夜中12時に迫る頃、宮下は報告書を提出し終え、警視庁・公安機動捜査隊の隊長のデスク前に出頭した。隊長は報告書を読みもせずに机の脇に叩きつけるようにして置き、宮下に命じた。
「警察手帳、手錠、拳銃を返却しろ。私が預かる。今すぐにだ」
宮下は無言でスーツの上着を脱ぎ、その順番に隊長の机の上に置いていく。隊長はあまり感情のこもらない口調で宮下に言う。
「拳銃の保安不備、盗聴器の無許可使用。本来なら懲戒処分とするところだが、結果的に第2の殺人を防いだ。それを考慮して、10日間の出勤停止処分となった。根性を入れ替えて来い!」
宮下は無言で敬礼し、くるりと回れ右をして隊長室を出ようとした。その背中越しにまるで独り言のように体調が言った。
「出勤停止期間中にどこで何をしてようが勝手だが、居所は把握しておきたいもんだな。そうだな、例えば、どこかの大学の研究室にでも入り浸っていてくれると手間が省ける」
宮下は振り向き、隊長に向かって深々と頭を下げた。
三日後の月曜の朝、宮下は渡研の研究室に向かうため、自宅で身支度を整えようとしていた。
女性用ワイシャツにスーツのパンツを身に付け、拳銃のホルスターを探して、それが今はないのに気づいた。
「あ、そうだった。慣れって怖いな」
しばらく考え込んだ後、クローゼットから同じスーツのスカートがかかったハンガーを取り出した。
「こっちは買ってから一度しか着てないな。ま、たまにはね」
揃いの上着とスカートのスーツ、そして珍しくヒールの高い靴を履いた宮下は、渡研に向かってキャンパスの中を歩いていた。
途中の建物のガラス窓に映る自分の姿を見て、なんとなく浮き浮きした気分になる。
植え込みに沿って続く道を歩いていると、ベンチのところに見覚えのある人影があった。それは兵頭教授だった。教授の方も宮下に気づき、呼び止めた。
そのまま二人でベンチに横に並んで腰かける。すっかり憔悴しきった様子の兵頭教授が話を切り出した。
「渡先生にあいさつして来たところだ。私は自分の大学を辞任する事になるだろう」
宮下は申し訳なさそうに言う。
「お役に立てなくて申し訳ありませんでした」
「いや、君はよくやってくれた。君の機転がなかったら、もう一人犠牲者が出ていただろう。なあ、宮下さん。君の意見を聞かせてもらえないか? マリアQの事でだ」
「いえ、私はロボット工学の専門家でも何でもありませんし」
「いや、むしろ、専門家でない、一般人の意見が聞きたい。専門家だから見落としている点があるのかもしれないからね。マリアQシステムには何が足りなかったのだと思う?」
「あくまで個人的な印象でしかありませんが」
「かまわん。遠慮なく言ってくれ」
「マリアQは完璧だったと思います。でも、一つだけ完璧でない物があった」
「おいおい、いくら素人の意見でも、それは矛盾しているよ。完璧だったが、完璧でなかった? 何が完璧ではなかったと言うのかね?」
「完璧でなかったのは私たち人間の方です」
兵頭教授が大きく息を呑む音がした。宮下が言葉を続ける。
「私は警察官ですので、人間の陰というか負の部分を多く見てきました。マリアQは周囲の人間の言動から情報を取り込み、判断するアンドロイドでしたよね?」
「まさか……」
「目の前にいる二足歩行の動物が『人間なのか否か』を、周囲の人間の言葉から判断していた。もし周囲の人間が特定の人物を、人間ではないかのように、言ったり扱ったりしたら?」
「だとしたら、AIの設定そのものが間違っていた事になるじゃないか?」
激高して思わず立ち上がった兵頭教授に、宮下は座ったまま静かな口調で言う。
「いくらロボットの方が完璧でも、機械に倫理的に正しい行動を要求できるほど、私たち人間は完璧な存在なのでしょうか?」
言葉を失った兵頭教授が崩れ落ちるように、ベンチに腰を落とす。入れ替わるように宮下は立ち上がり、教授に一礼して、キャンパスの道を歩き去った。
その背後で、兵頭教授が「うああああ!」と嘆き声を上げるのが聞こえてきた。
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