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春の日の夜明け、東京都多摩地区の観光牧場で、従業員が数頭の牛を畜舎から広大な牧草地へ出していた。
年配の厩舎員と、新人の若い男が二人で、牛を導いて広々とした草地へ放す。若い新人は何度もあくびをかみ殺した。
その様子を見たベテランの男が笑いながら言った。
「なんだ? 眠くてしょうがないって顔だな」
新人が苦笑しながら答えた。
「いや牧場の朝は早いって聞いてはいたんすけどね。こりゃ思ってたよりきついすわ」
「そのうち慣れるさ。俺もこの仕事始めたばかりの頃はそうだった」
三頭目を厩舎から出したところで、新人の男が牧草地の端を指差してつぶやいた。
「あれは何です? ずいぶんでかい鳥だな」
ベテランの男も手を目の上にかざして眉をひそめた。
「どっかの動物園のダチョウでも逃げ出したか?」
その巨大な鳥は最初ゆっくりと太い脚を動かして彼らの方に近づいて来た。異変に気付いた牛の一頭が甲高い鳴き声を上げた。
それを聞いた巨大な鳥は突然スピードを上げて疾走し始める。ダンダンダンと地面を叩く音がした。
新人の男は、自分の眼の遠近感が狂ったのかと思い、手の甲で目をこすった。ダチョウではなかった。ダチョウよりはるかに体高が大きい。しかも頭部がオウムほどの割合がある。
「違う、ダチョウじゃねえ。ば、化け物だ!」
新人の男が叫び、ベテランの方は厩舎から出ようとする牛をあわてて中に押し戻した。
近づいて来たその鳥は、体高3メートルはあった。赤茶色の羽毛に覆われた巨体と丸太のような鉤爪のある脚。象牙色の太いくちばし。頭部だけで長さ80センチはあり、全身の三分の一を占めている。
地響きを立てて駆け寄った巨大な鳥は、片方の脚を高々と上げ、逃げ遅れた一頭の牛の背を上から踏みつけた。
牛は地面にねじ伏せられ、鳥の脚の鉤爪が食い込む。悲鳴を上げてのたうち回る牛の頭を巨大なくちばしが突き刺す。
頭を潰されて動かなくなった牛の腹を、鳥のくちばしが突き破り、吹き出す血とともに内臓の肉をえぐり出した。
ちぎれた肉の塊を、巨大な鳥は頭を真上に向けて呑み込んでいく。たちまち牛の体は骨が見えるまで肉をはぎ取られていく。
二人の厩舎員は、恐怖で顔を真っ青にして建物の中に飛び込み、牛が中にいる厩舎の鉄の扉を閉め、ベテランの男は事務所の部屋へ飛び込んだ。
震える手で固定電話のボタンを押す。数秒でつながった電話の向こうの警察のオペレーターに向かって彼は叫んだ。
「事件だ、牛が襲われてる! いや、そういうんじゃない。鳥だ。化け物みたいなでかい鳥が!」
外の様子を確かめようとガラス窓の方に目をやったベテランの男の顔が引きつった。手を伸ばせば届く距離にある窓から、野球ボールほどもある血走った眼玉が男を見つめていた。
ガラスが砕ける音と、窓枠の木がへし折れる音がけたたましく響いた。厩舎と事務所の境のドアの隙間から見つめている新人の男の目の前で、ベテランの厩舎員の体が太いくちばしに挟まれ、そのまま窓越しに引きずり出されて行った。
腰を抜かしてその場に座り込んだ新人の男の耳に、机からだらんとぶら下がった固定電話の受話器からの声が聞こえていた。
「もしもし? 今のは何の音です? 聞こえていますか? もしもし? どうしたんですか?」
数十分後、警察の機動隊が牧場を包囲していた。厩舎の壁を蹴り破ってさらに二頭の牛を食い殺した巨大な鳥は、どんよりと曇った空の下で草地に座り込み、動きを止めていた。
パトカーが一台、ゆっくりとしたスピードで厩舎に近づき、物陰で震えていた新人の厩舎員を助け出した。
鳥を刺激しないようにノロノロとしたスピードでパトカーは、部隊の待機場所へ戻って来た。
パトカーの中で警察官から事情を聞かれた彼は、うわ言の様に途切れ途切れの口調で告げた。
「あの化け物が、牧草地の端っこに……牛が食われて……その後、先輩が、先輩が……うわああ」
機動隊の隊長がパトカーの窓をコンコンと叩いた。制服警官が外へ出ると、隊長は中の厩舎員に聞こえないように、耳打ちした。
「本部から射殺命令が出ました。狙撃銃が到着し次第、我々が接近します」
制服警官はほっとした表情で応える。
「頼みます。私たちの拳銃程度で何とかなる相手じゃなさそうだ」
「また、念のため、都知事が自衛隊に出動を要請しました。害獣駆除の名目で」
「自衛隊まで!」
「あなた方はあの厩舎員の方を安全な場所へ避難させて下さい。付近の交通封鎖もお願いします」
十分後、箱型の機動隊の警備車両が狙撃銃を運んで来た。十名の機動隊員はそれぞれに狙撃銃を持ち、半円状の陣形を組んで巨大な鳥にじりじりと近づいて行った。
鳥の眼が開き、立ち上がった。高さ3メートルの位置にある血走った目玉が機動隊員たちを見回す。早くも気配に気づいたようだった。
巨大な鳥は突然走り出し、自分から見て左端に位置する機動隊員に向かった。わずか数秒で隊員の目の前に肉薄し、片脚を上げて隊員の体を跳ね飛ばす。
「発砲を許可する! 各自対処せよ!」
機動隊の隊長が叫び、機動隊員は狙撃銃を撃ち始めた。最初の2発は鳥の体に命中し、赤茶色の羽毛が宙に飛び散った。
だが鳥はたいしてダメージを受けた様子はなく、隣の位置の機動隊員に向かって突進した。その隊員は続けて狙撃銃を発射したが、鳥のスピードのあまりの速さに狙いを外してしまった。
時速60キロを超えるだろうスピードで走り回る巨大な鳥に、機動隊員たちの銃の狙いが間に合わない。
鳥の巨大なくちばしが目の前の隊員のフェイスシールドに突き刺さる。顔への直撃は免れたものの、その隊員は数メートル後ろに吹き飛ばされた。
機動隊の隊長が叫んだ。
「撤退! 負傷者を救助しつつ撤退!」
鳥に襲われた二人の隊員を周りの隊員たちが背負って、全員が警備車両めがけて走った。中に乗り込もうとしたが、鳥が先に車両の側へ到達し、その大きな頭部を一振りして車体を一撃した。
警備車両はぐらりと揺れて、そのまま横倒しになった。一か所に固まって狙撃銃の銃口を突き出す隊員たちの後ろで、けたたましく別の車のクラクションが鳴った。
暗い緑色の車体に、片側8輪ずつの車輪がある装甲車が牧場の敷地に乗り込んで来た。機動隊の隊長がつぶやいた。
「自衛隊か!」
装甲車の屋根に取り付けられている機関銃が火を吹いた。鳥はその巨体からは想像もつかない身軽さで、縦横無尽に走り回り、銃弾から逃げ回る。
装甲車が停止し、後部ドアから5人の戦闘服姿の陸上自衛隊員が飛び降りて来た。
自動小銃と軽機関銃で鳥に弾丸の雨を浴びせる。命中する度に鳥の赤茶色の羽毛が飛び散って舞い上がる。しかし、鳥の動きは止まることなく、再び方向を変え、自衛隊員たちに向かって走る。
自衛隊員の一人が対戦車用無反動砲を肩に担いで構えた。鳥が至近距離まで近づくのを待ち、胴体の真ん中に照準を合わせ、発射スイッチを引く。
オレンジ色の炎を後方に引きながら、先端の対戦車砲弾が飛び、鳥の腹に命中した。バンという爆発音とともに、大量の羽毛が宙に舞い、巨大な鳥は前のめりに地面に倒れた。
それでも1分近く、ぴくぴくと痙攣していた巨体の周りを銃を構えながら自衛隊員たちは取り囲んだ。
遂にその血まみれの巨体が動かなくなった事を確認すると、自衛隊の小隊長は装甲車の無線で上官に報告した。無線機の受話器を戻しながら小隊長はつぶやいた。
「これは渡研のお出ましだな」
その日の午後遅く、パトカーに先導されながら、渡研のバンが牧場へやって来た。
渡教授、遠山准教授、松田、宮下、筒井がぐるりと輪になって巨大な鳥の死骸を見下ろした。
渡があごひげをしごきながらつぶやく。
「どう見ても現在知られている生物ではないな」
遠山が長い巻き尺を取り出し、松田に手伝わせて死骸のサイズを測り始めた。誰にともなくつぶやく。
「全長4メートル12センチ、立ち上がった時の体高は3メートルちょっとというところか」
宮下が鼻を掌で覆いながら顔をしかめて言う。
「見た目は鳥ですけど、何なんですか、これは?」
遠山がいたずらっぽい表情を顔に浮かべて言った。
「こういう時は案外、専門家でない人間の直感が役に立つものだよ。そうだな、筒井君」
筒井がびくっとして遠慮がちに返事をした。
「あたしですか?」
「君の目から見て、どんな風に見える? この生物は」
「ええと、何と言うか。ティラノサウルスの尻尾を取って、あごの代わりにくちばしを付けたみたいな。ティラノサウルスの体には羽毛があったという説が最近ありますよね」
遠山が感心したという顔で言う。
「さすが新聞記者だ、よく知っているね。当たらずと言えど遠からずだ。これは多分、恐鳥類だ」
松田が目をぱちくりさせて尋ねた。
「キョウチョウ? 何でありますか、それは?」
遠山が巻き尺を手元に巻き戻しながら答えた。
「中新世第三紀、まあ千五百万年ほど前だね。その時代に栄えたフォルスラコス科に属する飛べない鳥の総称だよ。飛べない代わりに高速で地面を疾走する。今でもそういう鳥いるだろう。ダチョウとかヒクイドリとか」
渡が首を傾げて言う。
「ダチョウあたりの頭はもっと小さいぞ。それにその種の鳥は草食寄りの雑食だ。牛のような大型動物を襲って捕食する鳥がいたのか?」
遠山がタブレット端末でデータを検索しながら答えた。
「約6500万年まえに恐竜が絶滅し、哺乳類の時代が始まるんだけど、陸上の食物連鎖が再構築されるまでに、ティラノサウルスなどが占めていた頂点の座が一時的に空白になった時代があった。大地の上を走り回って草食動物を捕食する大型のハンターがいなくなったわけだ」
筒井が小さくうなずいて言う。
「その代わりになったのが恐鳥類というわけですか?」
遠山もうなずいた。
「こいつはその中のケレンケンと呼ばれる種だろうね。恐鳥類の歴史の中でも最大の種だ。そもそも鳥類は恐竜の直接の子孫だというのが現代科学の定説だからね。二足歩行肉食恐竜の後釜に鳥が座っても不思議はない」
宮下がまだ不思議そうな表情で訊いた。
「古代の鳥だとして、翼はないんですか?」
遠山が横倒しになっている恐鳥の体を差して答えた。
「あるよ。ほら、あそこ」
死骸の側へ行って宮下が目を凝らすと、首の付け根の下あたりに、ちょこんと小さな部分があった。
「これが翼ですか?」
「ほとんど退化しているようだね。高速で走る時に体のバランスを取る程度の役割しかないんだろう。それが大型の肉食哺乳類との生存競争で不利に働き、恐鳥類は絶滅したとされている」
渡が体を前のめりにして恐鳥の死骸を見つめながら言った。
「その絶滅したはずの恐鳥がなぜ突然日本に現れた? 生き残っていたのなら、目撃例が多数あるはずだ」
遠山が急に真面目な表情になって言った。
「新生代の絶滅種の死骸は、化石だけでなく細胞組織が部分的に保存された状態で発見される事があります。シベリアの氷漬けのマンモスなんか、その最たる物ですよ」
渡の目がぎろりと動いた。
「クローン技術か何かで、蘇らせたという意味かね?」
「あくまで可能性の話です。ですが渡先生。僕たちは今まで何度もそういう前例に出くわしてるじゃないですか」
翌週の月曜日の午前中早々に、渡と松田は帝都理科大学の教授会に呼び出された。正午少し過ぎにやっと研究室に戻って来た渡は、憤懣やるかたないと言った表情で、手に持った書類の束を机の上に叩きつけた。
驚いた宮下が渡に訊いた。
「渡先生、どうなさいました?」
後から研究室に入って来た松田が、頭の後ろを掻きながら申し訳なさそうな口調で言う。
「自分のせいで、渡先生に不快な思いをさせてしまったようで」
渡は不利かって怒気を含んだ声で言った。
「松田君のせいではない。まったく、教授会の石頭どもには困ったもんだ」
筒井が興味津々の表情で訊く。
「何かトラブルとか? 学内のスキャンダルとか?」
渡が顔をしかめて怒鳴る。
「いくら本業が新聞記者だからと言って、うれしそうに質問するな! この渡研が軍事研究をしているのではないかと、言いがかりをつけられたんだ」
筒井が、大きくうなずいて言った。
「あ、そういう事ですか。確かに巨大生物事件扱っていますしね。でも軍事研究とは違いますよね」
宮下が気の毒そうに言う。
「どっちかと言うと社会の安全を守る立場ですのにね。でも自衛官が大学に入るのはそんなに珍しくはないはずでしょう、今は」
松田が苦笑しながら答えた。
「ちょうど航空自衛隊がグローバルホークという無人機の配備を始めた時期ですから。あれを殺人兵器だと勘違いしている方が多くて」
筒井が訊く。
「イラクやアフガニスタンで米軍がミサイル攻撃に使ってた、あれとは違うの?」
「それはプレデターという全く別の種類ですよ。グローバルホークは偵察専用機です」
「いずも型護衛艦が空母になったのは?」
「いずも型は、ヘリ空母です。対潜水艦哨戒ヘリを搭載しているだけで」
「F-35Bを積めるように改造したんでしょ?」
「世間ではそういう誤解が広まっているようですね。確かに一時的にF-35Bを着艦させて燃料補給などは出来るようになってますが、攻撃型空母として使うかどうかは別問題なんですよ。だいたい今の日本がどこの国を空母で空爆するというんですか? それが可能であるという事と、実際にそうするかは政治的判断です。自衛隊はあくまで専守防衛ですから」
渡が口をはさんだ。
「これだけ科学技術が進歩していれば、軍事用と民生用をくっきり区別するのは不可能だし、意味もない。ましてやだ」
次の渡の言葉に、宮下と筒井は思わず吹き出した。
「人工地震兵器の研究なんぞ、やりたくても出来るか? いくら私が地震学の教授でもだ!」
翌日、個人的な用事で東京都庁へ立ち寄った宮下は、新宿中央公園に通じる道路が警察によって封鎖されているのに気付いた。
平日の午後早い時間で、人通りが多い中、ロープが張られて制服の警察官が10人以上道のあちこちに立ち、通行人に迂回をうながしている。
宮下は上着の内ポケットから警察手帳を取り出し、一番近くにいる制服警官に尋ねた。
「本庁の宮下と言います。何か事件ですか?」
警官は宮下の身分証を見てさっと敬礼した。
「新宿中央公園と新宿御苑沿いの道路に多数の違法駐車のトラックが発見されまして。いずれも運転手が見当たらず、爆発物を積んでいるのではないかというおそれがあるため、万一に備えているところです」
「一番近い場所にあるトラックを見たいのですが、可能ですか?」
「今案内させます、おい、横田君」
彼は近くにいた制服の女性警察官を読んだ。
「本庁の警部補さんだ。3号の現場へご案内してくれ」
彼女に連れられて宮下が公園沿いの道路へ行くと、10トントラックが駐車禁止の場所に堂々と陣取っていた。
荷台には大きな箱型のコンテナーが乗っている。後方のコンテナーの扉には、小さな液晶表示の装置が付いていて、カウントダウンを示している。残り90秒。
十分に離れた場所のビルの陰に、宮下と女性警察官は身を潜め、カウントダウンの終わりを待つ。
コンテナーの装置のデジタル表示の数字が全てゼロになった。同時にコンテナーの側面の壁が横に開き始めた。
中で何かが動いた。うずくまった姿勢から、何かが立ち上がり、地面に垂れ下がったコンテナーの壁を降りて来た。
女性警察官が大きな音を立てて息を呑んだ。宮下も目が釘付けになった。
コンテナーの中から出て来たのは、巨大な鳥だった。赤茶色の羽毛に覆われ、鳥としては異様に大きな頭部を持つ、体高3メートルほどの飛ばない鳥。
遠山がケレンケンと呼んでいた、あの牧場に出現したのと同じ種類の、巨大な恐鳥だった。
近くにいた大学生らしき数人の男女が、目をぱちくりさせてケレンケンを見上げた。
「何あれ? ロボット?」
「映画の宣伝かなんかか? まるで生きてるみたいだな」
恐鳥は素早く彼らに走り寄り、一番近くにいた若い男性を頭から、大きく開いたくちばしでくわえ込んだ。そのままくちばしを閉じる。くちばしの中で男性の体が、くるみ割りでつぶされたくるみのようにひしゃげ、血が道路にまき散らされた。
ようやく危険に気づいた周りの通行人が我先に走って逃げ出す。宮下は側にいた女性警察官に人々を誘導するようにうながし、拳銃を構えて恐鳥に後ろから忍び寄ろうとした。
だが、今しがた逃げて行った通行人たちが、こちらへ走って戻って来ているのに気付いた。その方向に目をやると、その奥に同じ巨大な物の影が見えた。
同じ形の恐鳥がもう一匹、こちらへ向かって歩いて来ている。宮下の背後からも、何本か通りを隔てた辺りからも、人々の悲鳴が響いて来た。
宮下は呆然としてつぶやいた。
「一匹じゃない? はっ! 多数のトラック……」
わずか十数分のうちに、新宿副都心一帯は阿鼻叫喚の地と化した。高層ビル群と周りを取り囲むように、20匹のケレンケンがトラックの荷台から出現し、恐怖に駆られて逃げ惑う人々を追いかけて疾走し始めた。
多くの人々が必死で走って、近くの高層ビルの一階に逃げ込んだ。だが、ビルの一階入り口は広大なエントランスホールになっている所が多く、天井も2階や3階まで吹き抜けの構造になっていた。
それは体高3メートルほどのケレンケンにとっては、簡単に入り込める空間だった。ビルのさらに奥に逃げ込もうとして押し合いへし合いになった人々の、運悪く最後尾に位置した人たちに、次々とケレンケンのくちばしが襲いかかった。
宮下もまた、逃げ惑う人の波に呑まれ、都庁の方へ押し流されていた。他の人々がエレベーターに群がる中、宮下は迷わず階段を駆け上がった。
中がぎゅうぎゅう詰めになってもまだ人が押し寄せるため、扉が閉まらないエレベーターの前で立ち往生している人の群れに向かって、一匹のケレンケンがゆっくりと近づいていた。
上の階に上がり、ケレンケンが入って来れそうにない狭い通路の奥のトイレに逃げ込んだ宮下は、スマホを取り出して渡研に電話を入れた。
事情を話すと、渡の大声が響いた。
「宮下君! そいつらは何匹いるんだ?」
「分かりません。ただ、一匹や二匹でない事だけは確かです」
声の主が遠山に変わった。
「いいか、よく聞いて、宮下さん。ケレンケンの体表の構造が分かった。羽毛の密度が高く、筋肉と脂肪組織もとんでもなく分厚い。銃では倒せない。たとえ機関銃であってもだ」
宮下は真っ青な顔色になって、手の中の拳銃を見つめた。
「遠山先生、ではどうしたら?」
「都庁の上の階にいるんだよね? 外へ出ないで。一階にも降りちゃだめだ。そのまま待つんだ。もうすぐ自衛隊が動く」
ただちに陸上自衛隊練馬駐屯地から第1普通科連隊が出動した。自動小銃、機関銃、無反動砲などで武装した3個中隊が装甲車、兵員輸送トラックに分乗して急行した。
だが、思いがけない障害が彼らの動きを鈍らせた。高層ビルが立ち並び、空中からの視界が悪いため、ヘリからの目視ではケレンケン全体の動きが把握できなかった。
さらに高層ビル群を取り囲むように立ち並ぶ、中層、低層のビルが多くの死角を作る。さらに、ケレンケンが容易に出入り出来る地下街の空間、鉄道の高架や高速道路の立体構造が恐鳥の群れに隠れ場所や移動のルートを提供する形になった。
小銃や機関銃の弾丸を少々食らっても、ケレンケンには致命傷にならない。特にまだ餌にありつけず飢えているケレンケンは、ビル街のあちこちを巧みに移動し、思わぬ方向、角度から自衛隊員にまで襲いかかった。
陽が落ちて暗くなるまでの間に、出動した自衛隊員のうち8名が殉職した。
その夜、都庁内に閉じ込められた格好の宮下の身を案じながら、渡研の残りの4人は研究室で食い入るようにテレビの速報を見つめていた。
筒井が両手の拳を握り締めて叫んだ。
「どうして自衛隊はもっと強力な武器を使わないのよ? 大砲とかミサイルとかあるじゃない!」
松田がおずおずと言った。
「それは無理です。あんな建物が密集した場所で重火器を使ったら、大惨事を引き起こしてしまう。それに副都心の建物の中には、まだ何万人もの人たちが閉じ込められている」
渡が額にしわを寄せて言った。
「人間を盾にされているようなものか?」
松田がうなずく。
「自衛隊の装備は、基本的に外敵の襲来を海や空、最悪でも海岸線で食い止めるための物です。大都市のど真ん中で接近戦をやる事は想定外なんです。今の自衛隊には、市街戦は戦えない」
遠山もしかめ面で言った。
「大きさが中途半端なんだ。ビルを見下ろすような巨体なら航空攻撃も可能かもしれないが、体高3メートルのやつらがうじゃうじゃしていたら、地上での接近戦しかない」
その時、研究室の固定電話が鳴った。渡が取り、怪訝な声を出す。
「はい、渡研。は? はい、おりますが。はい、少々お待ちを」
それから渡は松田に声をかけた。
「松田君、君にだ。水陸機動団からと言っている」
松田はすぐに駆け寄って受話器を受け取った。
「はい、松田であります。はい、承知しました。ただちに出頭いたします」
松田はきっとした表情になって渡に向かい合った。
「渡先生、自分に招集がかかりました。これより自衛隊の任務に一時復帰いたします」
「何故君が? 表向きは休職中のはずだろう?」
「分かりません。が、新宿副都心の事態に対応せよとの命令です」
筒井が泣きそうな声で松田に言う。
「くれぐれも無理しないで。生きてここに帰って来てよ!」
松田はその場に直立し、敬礼の姿勢で声を張り上げた。
「松田健太郎3等陸尉、行って参ります!」
松田がタクシーで朝霞の東部方面隊総監部に到着した時には、もう日付が変わっていた。
指定された大きな会議室に入ると、20人ほどの自衛隊員が集まっていた。制服の者もいれば私服のままの者もいる。
そのうちの数人は顔見知りだった。松田はある事に気づいて、そのうちの一人に声をかけてみた。
「もしや、ここの集められたのは、ドローンの操縦免許保有者なのでは?」
相手は小さくうなずきながら答えた。
「どうやらそうみたいだな。あちこちの部隊からかき集めたようだ」
陸将の制服を着た上官が入って来た。松田たちは一斉に直立して敬礼する。陸将は全員を座らせ、米軍の士官一人を招き入れた。
「在日米軍から支援の申し出があった。こちらのカーター少佐から説明がある。では、少佐、お願いします」
会議室の演壇に立って、少佐は流ちょうな日本語で話し始めた。
「諸君にはただ今からスイッチブレードの操縦法を習得してもらいます。夜明けまでに」
何の事だか分からず、ざわつく自衛隊員たちの前で、スクリーンに画像が映し出された。誰かが驚いて大声を上げた。
「自爆型ドローンか?」
少佐はそれを聞いて親指を突き立てて拳を前に出して見せた。
「その通り。新宿副都心で起きている事態を収束させるには、もっと威力が大きく、しかも精密誘導が可能な武器が必要だ。スイッチブレードは米軍が市街戦で精密誘導攻撃を行うために開発した。今回、本国の国防総省の特別支援として、日本国自衛隊に提供する。一般のドローンの操縦免許を持っている諸君なら数時間の講習で使いこなせるようになるはずだ」
少佐はニヤリと笑って言葉を続けた。
「爆発の威力は手榴弾1発相当。周囲の民間人に被害が出ないようにできる。これはカミカゼドローンとも呼ばれている。カミカゼアタックを発明したのは、君たち日本人だからな」
夜が明けた。都庁内で職員や避難して来た一般市民とともに一夜を過ごした宮下は、わずかな時間のまどろみから目覚め、窓際に寄って外の様子をうかがった。
ケレンケンも鳥類だけに夜は活動しなかったようだ。ビル街のあちこちに座っていた。やがて腹を空かせれば、また歩き回り走り回って、身を潜めている人々に襲いかかるだろう。
兵員輸送トラックが、静まり返った副都心の道路に入って来た。新宿中央公園の反対側にテントを張り、20人の戦闘服姿の自衛官が配置につく。その中には松田の姿もあった。
長さ1メートルほどの金属製の筒を地面に並べ、脇についているレバーを引く。筒の中から細い棒のような物が飛び出し、宙高く上がると、前後4枚の細い長方形の翼が開いた。
機体の後ろにプロペラが付いており、それが回り始めると、ラジコン飛行機のように空中を滑空した。
機体の先端にはカメラがあり、松田たちの手元の操縦機のスクリーンに、ドローンから見下ろした光景が映る。
朝日を浴びてケンレンケンの群れが目を覚ました。次々に立ち上がり、獲物を求めて道路を徘徊し始めた。
臨時の隊長が松田たちに命じる。
「総員、攻撃開始!」
スイッチブレードは、一機また一機と上空からケレンケンに接近した。事前の指示通り、その頭部を狙う。
一機がバスターミナル前にいたケレンケンの後頭部に激突した。その瞬間、ボンという爆発音とともに灰色の煙が上がった。そのケレンケンは後頭部を吹き飛ばされ、傷口から血を吹き出しながら地響きを立てて地面に倒れた。
自衛隊員たちは一機また一機と、ドローンをケレンケンに命中させていく。何匹かのケレンケンは疾走して逃げようとしたが、スピードはスイッチブレードの方が圧倒的に速かった。
地下街に逃げ込んだケレンケンも、中まで追って来たスイッチブレードに追いつかれ、頭部を破壊された。なお動いている個体は、普通科連隊の自衛官が駆けつけ、とどめを刺した。
やっと最後の一匹になった。最後のケレンケンは松田たちが陣取っている公園の方に向かって来た。本能的に敵の居場所を悟ったようだ。
松田が2発目のスイッチブレードの操縦にかかる。松田がドローンを降下させようとした瞬間、彼の視界に人影が入って来た。
ドローンの爆発音に怯えて外へ飛び出してしまったのだろう。5,6歳ぐらいの男の子の後を母親らしき女性が必死で追いかけている。
親子のいる場所は、最後のケレンケンが向かってくる方向のすぐ側だった。松田はドローンの高度を再び上げて、ケレンケンに向かって声を張り上げた。
「鳥野郎! こっちだ! こっちへ来い! 焼き鳥にしてやるぞ」
その声が聞こえたらしく、最後のケレンケンは公園の中に走り込んで来た。足元の親子には気づかなかったようだ。
猛然と突進してくるケレンケンを見て、他の自衛官たちは退避を始めていた。誰かが松田に叫ぶ。
「何をしている? 逃げろ!」
松田は一歩も動かず、ドローンを再び降下させた。手元のスクリーンの中で、ケレンケンの後頭部が段々大きくなってくる。
スイッチブレードが松田の至近距離で、ケレンケンの後頭部に命中した。爆風で松田の体も数メートル後ろに吹き飛ばされた。
肩を抱えられて揺さぶられ、松田は意識を取り戻した。額から頬にかけてぬるぬるした感触があった。多少出血していたが、大した傷ではないようだ。
ハッとして松田は、周りの自衛官に大声で尋ねた。
「そうだ! あそこに男の子とお母さんが!」
松田の肩を抱えている自衛官が言う。
「あの親子なら別の隊員が保護した。無事だ。二人ともかすり傷ひとつない。よくやったな」
その日の夜、六本木の高層マンションの最上階の部屋で、ヒミコがテレビ電話でスクリーンに映る、白人の中年男性と話をしていた。
例によって目元を仮面で隠している。流暢な英語でヒミコは言う。
「今回の事は感謝するわ、さすが国防次官ね」
相手は笑いながら答える。
「いや礼を言うのはこちらだ。おかげでドローン兵器を日本に売り込むチャンスが出来た。次回のG7サミットあたりで、米日首脳会談の議題になるだろう」
「あら? あたしは別にビジネスをしたつもりはないけど?」
「ははは。スイッチブレードの画像センサーは日本製。そのメーカーの大株主はノーヴェル・ルネッサンスではなかったかね?」
「あら、そうだったの? 知らなかった」
「ははは、まあいいだろう、君がそう言うなら。では、また機会があれば、よろしく頼むよ」
「ええ、機会があったらね」
ひじ掛けのスイッチで通話を切り、ヒミコは仮面を外して、ふうと大きくため息をついた。
「まったく、市街戦ができない軍隊でどうやって国を守れるってのさ。ほんと世話が焼ける。この国の大人はダメね」