商売をしていると毎日必ず行うこと、それは、精算業務である。
商売を行う上では、売上確認、在庫確認、発注有無、金銭の照合はどこでも行っていることです。
当然、わたしのガソリンスタンドでも行っています。しかし、毎日ではないのですが、金銭は多少のズレが生じます。在庫のズレは端数処理の問題であり、また揮発するガソリンという特質上ごく僅かに変動があります。ガソリンスタンドの隅にかなり高い煙突みたいなのが並んでいますが、注意しないと見落とすようなものです。あちらが揮発したガソリンを含む気体を安全に逃すためのものです。次回、給油にいかれた時に探してみてください。
金銭のズレは、お釣りの受け渡しが主な原因です。不足していれば多く渡したということで良いのですが多ければ大変なことです。
銀行では1円でも合わなければ合うまで原因を突き止める作業がございます。
基本的にわたしの家のガソリンスタンドでは、月に2回の休み以外は開店しており、当時の営業店では日曜日に開けているところではまだ珍しい部類でした。
ここで、金銭の問題ですが、週に3回ほどの回数で割と大きい金額の不足が生じていました。
そして、この帳簿をつけるのが、母の役割で、毎日の苦痛であります。ご存知のとおり、金額が合わないことが多発するのです。その度に何度も計算のやり直しです。当時はパソコンで管理するというようなことはなく、全てが手書きであります。記載漏れなとをすべてチェックします。前述の通り金額が合わないのは当然です。そして、その不足する金額の責任を負わされるのは母であります。何度も行っても金額が合わず、その結果は、祖父からの罵声です。合わない日は、必ず正座での説教が行われています。その犯人を父と母は既に知っています。
最初に発見したのは母です。春のまだ桜の散る前の季節です。少し肌寒く、まだタイヤメーカーなどのジャケットを着ている服装で丁度いいため、お客さん対応するときは、そのジャケットを着て対応させていただいておりました。
ガソリンを入れ終わったあとにお金をいただきますが、そのお金をそのままポケットにしまい込む姿を目の当たりにしました。その時、父は配達に出ており、その場にいるのは祖母と祖父と子供3人です。母の味方はおりません。いえ、そもそも父も母の味方であったかは定かではありません。
約10分後に父が軽トラックで戻ってくると、母は祖母の内容について父に話します。父は黙って聞き頷くだけです。母の期待は、(すぐに祖父に告げこれまでの売上金の誤差が違うのは祖母が盗んでいたことを告げて解決してくれるという)裏切られる形となります。
兄は三男の面倒を見ており、私はソファに深く座らされています。兄の服装は祖父自慢のコーディネートで当時では高いメーカーの子供服です。わたしは、お下がりです。子供の成長は早いものですが、当時の子供は現代とは異なり、ゲームや、タブレットで楽しむことはなく、遊ぶという行動は、公園の砂場やすべり台を主とした遊具であります。泥まみれになるということは、毎日のようにございます。
その私が着ているお下がりは既に着込んだ跡であり、首周りや袖周りは伸びて歪んでいます。別の日は、母の好みで赤のワンピースなどを着せられていることが多かったようです。
ガソリンスタンドであり、オイル交換や、タイヤ交換など少しお時間をいただく時は事務所でお待ちいただいております。勿論私を含む三兄弟も同じ空間です。
お客さんの反応は、「あら、お兄ちゃんは赤ちゃんの面倒みて偉いね。」が第一です。そして私に目をやるとき、着ている服装で変化が生じます。赤いワンピースの場合「あら女の子のお姉ちゃんはおとなしくてかわいい。いい子ね。」、お下がりを着ている時は見てみぬふりでありました。
このころ私にも自我が少しずつ芽生えはじめてきました。最初はやはり、兄の真似をするのです。兄と同じように、弟に対して見様見真似を行おうとしますが、兄がそれを阻止します。そして以前のように、叩く、蹴るを私には与えてきます。私は泣きはしますが大声をだしません、そのため、大人たちからは放って置かれていました。結果として泣いても意味がないということを悟り泣き止みもとのソファに戻る。この繰り返しの日々であったようです。
話は戻ります。店を閉め終わった夜です。居間でテレビがついている。母は父が祖父に盗みの件(くだり)を話すことを今か今かと期待している。
しかし、結局、父は何も言わず、私を風呂へ連れて行った。
母は、正座をしたまま黙って下を向いている。目には涙、手は両のこぶしは血がでるかと言うほど強く握りしめられているようだ。血管が浮き出ている。
私は父に風呂へ連れて行かれ、仰向けに膝の上に乗せられ半ば憂さ晴らしのように頭を現れている。顔にシャンプーが入らないようにであるが、洗い流す時に風呂桶すくい上げた大量のお湯で顔面をかばうこともなくぶちまけた。
私は大量のシャンプーを口の中に入れてしまい、それらは気管にも入ってしまった。咳込み、涙と鼻水、よだれと大量にでてくる。そして嘔吐、父親は我に返り、母を呼び、すぐに背中を殴打して気管から少しでも異物を取り出そうとしている。しかし、なかなか出てこず、咳込みはガラガラ音がはげしく呼吸がうまくできていない様子で表情は青くなっていく。
母は、かかえたまま車に乗り込み、そのまま救急病院へ運び、気管内吸引が行われた。
私は目が覚めた時は家の子供用の布団に寝かされていた。左腕には注射針が刺さっている。自宅に戻っていたのは、祖父の言葉が発端だった。
「せんかやつに入院させる金はなか。逝ったらそれはそれでよかった。」
母は横にいた。「めがさめた?」
それだけつぶやく。自宅でも点滴が行われるのは母は看護師の免許をもっているからだ。母は三人兄弟、一番上は姉、そして2番目に兄、そして母。
母の幼少期は戦後であった。母の母方、つまりお祖母ちゃんの家系は地元では元々有名な資産家である。
しかし戦時中の国家総動員令などにより、土地や財産は「返還」を前提に差し出す必要があった。しかし、敗戦という形で締めくくられたその時代、返還はなく、財産もほぼなくなった。
母の幼少期までは没収された財産でも使用することができた。東京ドーム10個以上は、あったであろうか。あとから聞かされた話であるが、もともとの所有された土地を案内されたことがある。
「ここはいま国の所有になったままなの。」
それから、母の幼少期は激変したそうです。野菜を押しグルマに乗せて歩いて売りに行く、日銭を稼ぐ母(私の母方のお祖母ちゃん)のお手伝いをする日々が始まった。あの最高級品のヒラヒラしたドレスを身にまとい、何もしなくても良かった生活からの激変。
資産とは恐ろしいものですね。片方では羨望、敬意、権力、憧れとでもいいしょう。もう片方では、恨み、妬み、嫉妬、辛み、不幸を願う、という分割した感情になります。中間のそのままを受け入れるという方はどれくらいいますでしょう。言葉で言うは易いがココロは思うようにはいかない部分がございます。
母は、一言それだけをいい、意識を確認して仕事、晩御飯の支度をし始めた。いや、途中だったのかもしれない。
盗んでいた件(くだり)についてはこのようにな結果を迎え、有耶無耶になったまましばらく経過していく。
私は流れる点滴をただただ見つめていた。肺の違和感をおぼえながら、、、
3歳夏編へつづく
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