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「ねえ……あなた、誰……?」
その声は、ふいに背後から聞こえた。
廊下の奥――半ば開いた襖の向こうに、白い姿が立っている。
少女だった。年の頃は十歳前後か。
白いワンピースを身に纏い、素足のまま、畳の上に佇んでいた。
長い髪が肩にかかり、瞳は不思議なほど澄んでいる。
だが、その顔にはどこか無表情に近い空虚さがあった。
梓は言葉を失いながらも、ゆっくりと近づいた。
「……さっき、あなた……?」
「……わたし……」
少女はかすかに首を傾け、ぽつりと呟いた。
「なまえ……ちゃんと、おぼえてないの。
でも……たぶん、“ア”が、ついてた。そんな気が、するの」
(“ア”?)
微かな手がかり。その響きが梓自身の名前と一瞬重なり
妙な感覚が背筋を走る。
「どうしてここにいるの?」
「わかんない。気がついたら、このおうちにいたの。
……誰かに、呼ばれたのかも。でも、その“誰か”が、わからないの」
梓は少女の瞳を見つめた。
どこか、心を引きずり込まれるような深さがあった。
「私も……気がついたら、ここにいた。
多分、私たち……“導かれた”んだと思う」
少女は小さく頷いた。
「ねえ。あなた、“黒い手帳”……持ってる?」
少女の問いに、梓は息をのむ。
「それが……なくなってて。
持ってきたはずなのに、いつの間にか消えてた」
「うん。たぶん、それ……ここに“あってはならないもの”なんだよ」
「……呪い、ってこと?」
「ううん、わかんない。でも、そんな気がする。
なんとなく、だけど……それがあると、“世界の形”が壊れる気がして」
その曖昧な言葉が、むしろ真実味を帯びて梓の胸を締めつけた。
「ねえ、こんなとこにいたら危ないよ。いっしょに帰ろう」
少女は首を横に振った。
「帰れないの。足が動かないの。……ここから、でられないの」
そう言って、彼女は畳に視線を落とした。
見れば、少女の足首のあたりにうっすらと
“影”のようなものが絡みついていた。
まるで見えない鎖のように。
「くそ……どうすれば……っ」
梓は焦り、彼女の腕を掴む。
だが、その小さな体はまるで霧のように頼りなく
力を込めても引き寄せられない。
「早く……早く逃げなきゃ……っ」
少女が怯えた声を上げた瞬間。
――その空気が、変わった。
屋敷の奥。闇の中から、何かが“こちら”へ向かってくる。
ゴ……ゴ……ゴ……
重い、湿った足音。
そして、ぬうっと現れたその存在。
長い黒髪。まるで手入れを放棄されたように
乱れた髪の間から、顔が……“なかった”。
そこにあるはずの顔面がまるで削がれたように
なめらかに“えぐられて”いる。
「……あ……あれ……っ」
巫女服だった。
だが、その衣は黒く変色し、破れ、裂け、端々が朽ちていた。
色こそ黒だが、それは元々の布の色ではなかった。
赤黒い染みが全身に広がっている。
匂いはしない。
だが、直感で分かる。
――これは、“血”だ。
夥しい血に染まり、静かに、静かに、その巫女は近づいてくる。
目がないはずなのに、見られている感覚。
声がないはずなのに、心が押し潰されるような圧。
「逃げないと……でも……この子が……」
梓の脳が悲鳴を上げる。
少女の手を引く。
だが、彼女の体はまるで地に縛りつけられているようにびくともしない。
巫女が、音もなく襖を抜け、すぐそこまで迫る。
そのとき――
「ッ……!」
視界が、白く塗り潰された。
閃光。
そして、何かが弾けたような音。
次の瞬間――
梓は、自分の部屋のベッドの上で、荒い息を吐きながら目を覚ました。
時計は、午前3時33分を示していた。
「……夢、だったの……?」
そう呟きながら、彼女は自分の手を見つめた。
小さな手の温もりが、まだそこに残っている気がした。
「……あの子……連れて、これなかった……」
あふれる焦燥と喪失感。
梓は机に向かい、取材メモを開いた。
思い出せる限り、すべてを書き記した。
少女の存在。
名前は曖昧。“ア”がつくかもしれない。
彼女は、自らも導かれて迷い家に至った。
そして、黒い手帳――。
「あれは、本当に“あってはならない”ものなのかもしれない……」
空間の歪み、時間のねじれ。
顔のない巫女。
赤黒い、血に染まった衣。
それらの記憶を、メモの中に一つずつ記録していく。
「……まだ、終わってない」
梓は静かに呟いた。
そう、“あの子”が、まだあの場所にいるのだ。
次に迷い家に引き込まれたとき、必ず、彼女を……。
彼女のいない世界に、夜がまた静かに、染み込んでいった。
(→ 次話に続く)